第31話 二度目の新宿
「そう、愛故に……ふふっ、あはははっ!」
奈霧がこらえきれなくなって吹き出した。廊下に小気味いい笑声が響き渡り、顔が焚火で炙られたように熱を帯びる。
「笑っちゃ悪いですよ奈霧さん。市ヶ谷さんは私達のために……ぷっ」
早乙女さんが口元に手を当てて顔を逸らす。さらに顔の温度が上昇した。
「早乙女さん、擁護するなら貫き通してくれないか?」
「すみません、市ヶ谷さんが愛故にと呼ばれているのは分かってるんですけど、本人が口にしたと思うと可笑しくて」
「柄じゃないのは俺も自覚してたさ。それを踏まえてでも、俺の異名を強く印象付けるべきだと思ったんだよ」
風間さんは奈霧に襲いかかろうとしていた。早乙女さんをあなどっていたことから推察するに、奈霧と早乙女さんの二人だけなら風間さんは強硬手段に出たはずだ。
逆を言えば、風間さんが俺の目を盗んで小細工をろうする可能性が残っている。風間さんの暴挙を抑制するには、俺の存在を脳裏に刻み付ける必要があった。
俺の意図を知ってか知らずか、女性陣の目元で笑い涙が光る。
「ひどいよ釉くん。私達を笑い涙で溺れさせる気なの?」
「どっちがひどいんだよ、大衆の面前で熱烈にハグしておいて。かなり恥ずかしかったんだからな」
外で抱き着いてきた時は感極まっていたし、自身がどれだけロマンチックな動きをしたか自覚してなかったに違いない。
俺は散々恥ずかしい思いをした。奈霧も思い出して悶々《もんもん》とすればいい。
「なっ⁉ そ、それを持ち出すのは卑怯だから!」
奈霧の白い肌が急激に赤みを帯びる。
勝った。
熟れたりんごのような顔をまぶたの裏に焼き付け、改めて早乙女さんに向き直った。
「にしても驚いたよ。早乙女さんは奈霧と交流があったんだな」
「はい。市ヶ谷さんに話す前に、この件を相談してましたから」
風間さんに自白させる作戦を考えたのは奈霧だ。二人で昇降口まで戻ったのを機に、奈霧から作戦に協力してほしい旨を告げられた。
風間さんを抑える道具が欲しかっただけと思って寂寥感に襲われたけど、聞けば相談を受ける前から仲直りの手法を模索していたらしい。
校舎の図書室で直感した通り、三度に渡る偶然は友人が仕組んだものだった。
俺たちが接触すると他の生徒が騒ぐ。関係修復の際に邪魔が入ることを危惧して奈霧が仲裁を頼んだらしい。二度俺に逃げられたことで臆病風に吹かれたものの、早乙女さんの件と芳樹の説得に背中を押されて追跡劇に踏み切ったのが真相だ。
芳樹には感謝しかないけど、教室の俺はそんなに幸薄そうな顔をしていただろうか。今度会ったら聞いてみるとしよう。
「奈霧さん、市ヶ谷さん。本当にありがとうございました」
早乙女さんがぺこっと頭を下げる。隣で整った顔立ちが微笑む。
「何言ってるの。もうお友達でしょ? 私達」
「俺は一応恋人だしな」
恋人。その言葉を口にして、俺は解いておかなければならないことを思い出した。
「奈霧。早乙女さんと交際してるってうわさだけど」
「嘘なんでしょ? 早乙女さんから聞いたよ。自分の立場を利用して作戦を立てるなんて、周りから怖がられてる自覚あったんだね」
「教室で呼吸してれば嫌でも分かるさ。クラスメイトに一人例外がいるけどな」
「加藤さんだね。大事にしてあげてね? お友達のためにあそこまで奔走する人なんて、探してもそうそういないんだから」
「分かってるよ。現状一番の理解者だからな」
孤独に過ごす覚悟ができていることと、孤独を好む性質の間には大きな違いがある。
芳樹の明るさに救われた面もある。高校を卒業した後も繋がりを保っていければいいなと思う。
「ふーん、一番ね」
栗色の瞳がすぼめられた。
「何だ? 妙に含みを感じるけど」
「別に。私部活があるからもう行くね」
「え、ああ」
奈霧が背を向ける。
別れのあいさつを告げようとして、何を言うべきか逡巡する。
小学生の頃はどんな言葉で別れていたっけ。和解したばかりだし、あまりうかつなことは言いたくない。
奈霧が足を止めて振り向く。
「またね、釉くん」
艶やかなくちびるが曲線を描く。
暗闇に光が差したように感じられて、俺はとっさに「ああ、またな」を返した。
華奢な背中が小さくなって廊下の曲がり角に消えた。
「市ヶ谷さん」
呼び掛けられて振り向く。
視線の先で早乙女さんが口を引き結ぶ。体の前で指を交差させるさまは落ち着きに欠けるが、視線はしっかりと俺を見据えている。
真面目な話が始まる空気を感じて、俺も体の正面を早乙女さんに向けた。
「何? 早乙女さん」
「あの、偽りの恋人関係の件なんですけど」
「それならもう維持する必要はないよ。音声データを流されたら困るだろうし、もう風間さんが手出しすることはないと思う」
「いえ、それはもういいんです。用件は、他にあって」
「他って?」
「それは、その……」
早乙女さんが目を伏せた。細い指がぎゅっと丸められ、パリッと糊の利いたスカートにしわが寄る。
なおも言葉を待つと、早乙女さんが意を決したように顔を上げる。
「市ヶ谷さん。私の、本当の彼氏になってくれませんか?」
「え」
頭の中が真っ白になった。
言葉を返すべきだと分かっているのに、告げるべき言葉が全く浮かばない。
眼前にある小さな顔が見る見るうちに紅潮する。
渋谷駅前に来た早乙女さんの様相を思い出す。
お洒落な私服、ヒールのある靴。終始緊張した様子。あれら全て、俺に好意を向けていたからこその産物だったのだろうか。
もしそうなのだとしたら、俺は意図せず不義理を働いていたことになる。仮の恋人だから適当でいい。そんな俺の態度は早乙女さんの心を傷付けたはずだ。
胸の奥で沸々《ふつふつ》と罪悪感がこみ上げるものの、ここで情けを掛けるのは違う。
早乙女さんは真摯な想いを向けてくれている。嘘はご法度だ。
拳を固く握りしめた。傷付ける覚悟をして口を開く。
「ごめん。俺は、君の想いには応えられない」
早乙女さんの表情が微かにゆがむ。瞳がうるみ、されど滴は流れ落ちない。
あどけない顔が笑みを湛えた。
「知ってました。入学してから数か月の間でしたけど、ずっと市ヶ谷さんを見てましたから」
早乙女さんが身をひるがえす。声を掛けるべきか悩む内に、早乙女さんが振り向く。
「詳しいことは分かりませんけど、頑張って下さいね。私と違って、市ヶ谷さんにはまだ可能性があるんですから」
目元からこぼれ落ちた滴が頬を伝う。
必死に表情をつくろってプライドを貫く在り方は、私服で着飾った姿よりも美しく見えた。
◇
日曜日をむかえて新宿駅前の面白オブジェを眺める。
一度目の当たりにした芸術作品。身にまとう私服や街並みもあの時と同じなのに、今日は白粉を塗りたくったように輝いて見える。視界に映る景観は心持ち一つで大きく変わるものらしい。
「お待たせ。待った?」
通った声を聞いて体の向きを変える。
目立つ人影が歩み寄る。明るい色の上着にミニスカート。ふわっとした輪郭ながら、腕や脚の可動域には余裕がある。後頭部で結われた房が揺れて、品のある雰囲気に快活さが付加されている。
奈霧の様相もあの時の焼き直し。
これら全ては奈霧の要望だ。同じ場所同じ服装であの時の再現をする。
何とも愉快で奇天烈な催しだけど、俺に断る理由はない。
「いや、今来たところだよ」
あの時言いたかった台詞を口にした。格好はそっくりそのままだけど、言葉選びまでなぞれとは言われていない。
尻込みしそうになる自分に喝を入れて言葉を続けた。
「えっと、似合ってるな。その髪型」
「ありがとう。今さら言っても遅いけどね」
「……だよな」
苦笑いで応じるしかない。
夏休み前に出掛けた時は、席を外した際に髪型をストレートロングに戻していた。ポニーテールを不評と感じたからこそのイメージチェンジだったのは容易に想像が付く。
言葉を呑み込む俺も辛かったし、その辺りは察してもらえると助かるんだけど。
「それで、今日はどこから回る?」
「決めてないのか?」
「この前のお出掛けは台無しにされたし、今日は釉くんにエスコートしてもらおうと思って」
「異性の友人と出掛ける時って、男子が女子をエスコートするものなのか?」
「グループによるんじゃない? 私のところは違うけど、釉くんのお友達は……いないか」
「失礼だな、一人いるぞ」
芳樹が。
言わずとも言いたいことが伝わったのか、整った顔立ちに呆れ混じりの笑みが浮かんだ。
「それ反論のつもりなの?」
「ああ。友人は多ければいいってものじゃないからな。増やすのは絶望的だし、もう一人でいいよ」
「釉くんが思ってるほど周りは怖がってないよ? 機会があれば話してみたいって子は結構いるんだから」
「初耳だな。そんな話聞いたこともないぞ」
「釉くんがきっかけを作らせなかったんじゃない? 昔から興味ない人にはとことん興味なかったし、どうせ一日中スマートフォンを眺めてるんでしょう?」
「一日中は見てない。芳樹と会話するし、最近は早乙女さんとの交際について根掘り葉掘り聞かれたから画面を見る暇もなかった」
「普段話す機会がないからチャンスだと思って殺到したんじゃない? せっかく髪の色を元に戻したんだし、明日からフレンドリーに接してみたら?」
プリンにしか見えなかった髪色は黒一色に戻した。地毛が伸びたわけじゃない。金色の部分を染め直しただけだ。
染めた箇所も髪が伸びれば先端に移動する。地毛だけが頭髪として風になびく日は遠くない。
「フレンドリーって、例えばどんな風にすればいいんだ?」
「まずは笑顔かな。用事がない時でも口角を上げておくとか」
「面白いことがないのに笑うのか?」
「仏頂面よりは柔らかい雰囲気が出るからね。話しかけやすい雰囲気を作るって意味じゃ笑顔に勝るものはないよ。この際だし練習してみよっか」
「ここでか?」
「うん」
栗色の瞳にじっと見つめられる。
街中で笑顔の練習をするのは気恥ずかしいけど、こういう時の奈霧は頑固だ。休日は短いし、さっと済ませてしまおう。
俺はニッと口端を上げる。
「これでいいか?」
「すごい、上手だね」
「本当か?」
「うん。漫画に出てくる悪役そっくり」
スン、と口元の力を抜いた。
「それ意味ないやつじゃないか。俺は真面目にやってるんだぞ」
「私も大真面目だよ。さ、もう一回」
「嫌だ」
俺はそっぽを向く。
間近でくすっとした笑い声を聞いた。気になって端正な顔を正面に据える。
「俺、そんなに変な顔してたか?」
「そうでもないよ。釉くんの更生を手伝ってるみたいだなって思ったら、何だか可笑しくなっちゃって」
「俺は不良かよ。いや、不良か」
それに関しては間違いない。
品行方正な生徒は放送室を占拠しないし、女子の靴を焼却炉に投げ捨てない。
自分が奈霧にしたことを思い出して気分が沈んだ。
「そういえば、まだ下履き弁償してなかったな。今履いてる靴はいくらしたんだ? お金払うよ」
「別にいいよ、その件は謝ってもらったし」
「そういうわけにはいかないだろう」
「いいって。せっかくのお出掛けなのに、そんなことで時間を使いたくないよ。どうしてもって言うなら今日一日私を楽しませて。ほら早く、エスコートエスコート」
一向に折れる気配がない。
諦めて苦々しく口角を上げた。
「分かりましたよ。今日一日エスコートさせていただきます、お姫様」
おどけて腕を差し出す。気分はさながら王子様だ。
待っても細い腕は伸びない。奈霧が無言で俺の手の平を見つめている。
喉に氷の棒を突っ込まれたような感覚に苛まれる。
もしやこれはあれでは? 俺の手に触れるのは嫌ってことでは?
まずい、調子に乗った。何か上手い言い訳を考えないと。
慌てて腕を引っ込めようとした時、繊細な指が手のひらの上に落ちた。
そっと置くように触れる様子は、ダンスの誘いを受けたプリンセスじみていた。腕を引っ込めかけた手前、反応に困る。
「……どうしたの?」
「いや、本当に手を取るんだなと思って」
「え?」
奈霧が目をぱちくりさせる。
きょとんとした顔立ちにじんわりと茜色が差した。細い腕が引き戻されて小さな顔がそっぽを向く。
「意地悪! もう知らないっ!」
奈霧の機嫌を損ねてしまった。
からかいの意図は微塵もなかった。驚きが言葉になって口を突いただけなのに、現実は本当にままならない。
思えば最近の俺達はこんなことばかりしている。数か月の擦れ違いも、俺と奈霧が勇気を振り絞れば数日で解決するような問題だ。互いに臆病風に吹かれたから、長い間空回りをしたあげくに全力で鬼ごっこする羽目になった。
同じ轍は踏みたくない。今日は頑張って勇気を出してみよう。
最初はどこに行こうか。喜んでくれる場所を選びたいけど、直接聞こうにも奈霧はむくれている。
まずは機嫌を直してもらおう。奈霧は単純だ。競い合いに持ち込めば先程の出来事を忘れるはず。最初の行き先はバッティングセンターにしよう。
いや待て、この前と同じことをするだけじゃ芸がない。何かこう、目新しい何かが欲しい。長いすれ違いの果てに掴んだ名誉挽回のチャンスだ。ここはしっかりと決めておきたい。
浮き上がる気持ちを糧に、奈霧と街中を歩くイメージを膨らませる。
読んでくださりありがとうございます。
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