第30話 男の弱点
「お待たせ」
俺はスマートフォンの画面から顔を上げ、黄金色に濡れた廊下にため息を響かせる。
「やあ奈霧さん。こんな所に呼び出しなんて、何の用?」
「こんな場所に呼び出す理由なんて知れてると思うけど」
「そりゃそうだけど、まさか告白ではないよね。さっき市ヶ谷さんと熱く抱擁してたし」
奈霧さんが目をしばたかせる。シルクのような白い肌が赤みを帯びた。あ、恥ずかしかったんだ。結構ガバッと抱き着いてたから、てっきりその手のブレーキがぶっ壊れてるのかと思ってた。
端正な顔立ちが咳払いして場の空気をリセットする。
「やめて。あれは私の黒歴史だから」
「黒歴史? あれって、想い通じてキャッキャウフフの場面じゃなかったの?」
「振られたの」
「え?」
間の抜けた声が口を突いた。
「振られたって……傍から見て、かなり情熱的に抱き合ってたと思うんだけど」
黄昏に濡れた校門の外で、市ヶ谷さんと奈霧さんは熱烈に抱擁していた。窓ガラス越しに見ただけだから内容は聞こえなかったけど、あれはどう見てもロマンチックなシーンだ。告白の一つや二つ成功して然るべきだ。
「あれは仲直りしただけ。告白とは別よ」
「仲直りって、今さら? いやそれ以前に、奈霧さんが振られたとかちょっと信じられないんだけど。何なら振られた理由教えてもらってもいい?」
「今は早乙女さんが好きだからって言ってた。あの噂、本当だったみたい」
「あー確かに暴力的なサイズだもんね早乙女。見た感じだと奈霧さんよりも大きいよね」
合点がいった気持ち良さに負けて、思った言葉が俺の口を突いた。
「セクハラやめてくれない?」
奈霧さんが瞳をすぼめる。顔立ちが整っているだけに威圧感も相当なものがある。迂闊な口を撃ち抜きたい。しかし告げられた内容が本当なら不貞腐れる理由もない。口元に微笑を貼り付ける。
「ごめんごめん。でも本当にそんな理由で振られたの?」
「事実よ。そうじゃなきゃ私はここにいない」
「ほう。その心は?」
「復讐したいの」
思わず口をつぐんだ。
「復讐って、市ヶ谷に?」
「まさか。お昼休みの騒動を知ってるでしょ? 市ヶ谷に報復するのはリスクが高すぎるわ」
「あれ、『釉くん』じゃなかったっけ? 呼び方」
「茶化さないでよ」
「ごめんごめん。じゃ早乙女に復讐したいと、そういうわけ?」
「そうよ。私は泥棒猫にやり返したい。だからあなたの嫌がらせに一枚かませてくれないかと思って」
「……ほう」
誰から話を聞いたのか、それは気になる。しかし動機は信用できる。俺の嫌がらせを知っておきながら、奈霧さんは教師に告げ口をしていない。それに、あれだけ大勢の面前で市ヶ谷さんに振られたんだ。さぞプライドが傷付いたことだろう。
このシチュエーションは美味しい。前から奈霧さんのことは狙っていた。市ヶ谷さんの件で脈無しと諦めたけど、その市ヶ谷さんが振ったとなれば話は別だ。傷心の奈霧さんに付け込める可能性は大いにある。
何より今回のいじめ加担発言。こちらがいじめに加担した証拠を残さないようにしつつ、奈霧さんがいじめに加担した証拠をこっそり押さえる。後日告白して、失敗したらこのネタでゆすろう。彼女にできなくても、モデル顔負けの体を好きにできる。悪い話じゃない。
「いいよ、協力してあげる」
「ありがとう。私こういうの初めてなんだけど、具体的な案はあるの?」
「ああ。実はあいつを退学させる算段があるんだ」
「聞かせてくれる?」
「もちろん」
俺は考えている案を語る。想像していたよりもエグい内容だったのか、奈霧さんが顔をしかめた。悪いけど手は抜けない。早乙女は俺唯一の汚点を知っている。証拠はあらかた消しているけど、人の口に戸は立てられない。俺だって完璧じゃないんだ。何がきっかけで真実が暴かれるか分かったものじゃない。
だから早乙女には、名誉を損なわせた上で俺の周りから消えてもらう。汚名が付けば、誰もあいつの言葉なんて信用しない。僕は晴れて気兼ねなく青春を謳歌できる寸法だ。 ああ、素晴らしきかな人生。ハレルヤッ!
「作戦は理解したわ」
「うん。分かってもらえて何よりだよ」
「じゃあ今の録音したから」
「うん……うん?」
今おかしなことを言われた気がした。困惑する俺の前で、奈霧さんが腕を組む。
「中学生の頃に何をしたかは知らないけど、そのことで早乙女さんを疎むのはお門違いも甚だしいわね」
「ちょっ、ちょっと待った! 一体何の話をしているんだい?」
「早乙女さんへの嫌がらせは止めてってお願いしているの。あなたが嫌がらせを止めるなら、私達は金輪際あなたに関わらないことを誓ってあげる」
「は、はぁ⁉ いや、意味分かんない意味分かんない意味分かんない」
思考がまとまらない。態度の急変に頭が追いつかない。
要するに、何だ? 奈霧さんは俺に協力を求めたかったんじゃなくて、同志の振りをして僕に情報を吐かせたかっただけなのか?
そういえば最近似たことがあった。佐郷と壬生だ。確かあいつらは、市ヶ谷さんに録音した会話を暴露されて退学に追い込まれた。目の前の女は、俺に同じことをしようとしているのか?
ボコッと、胸の底で熱い物がこみ上げる。噴き上がった激情で視界が点滅する。
「君さ、前々から思ってたけどちょっと調子に乗ってない? 少し外見が良いからってさぁ」
「そう? ありがとう」
「そういうところが調子に乗ってるっつってんの! 大体君は想像力が足りないよね! こんな人気のない所で男と二人切りになるなんてさ。ストーカーに犯されかけたって聞いてたけど、実はそういう願望でもあるんじゃない?」
「ないわよ」
「じゃあ人型のアホウドリなんだね! この状況なら君が悲鳴を上げるよりも、俺が君を裸にひん剥いて恥ずかしい写真を撮る方が早いよ?」
奈霧の表情が微かに強張る。今さら状況の悪さに気付いたんだろうけど、時すでに遅しだ。こう見えて腕力には自信がある。口を塞いで空き教室に引きずり込んで、後はいい様に使ってやる。
「それは無理だな。何せ俺がいる」
「なッ⁉」
男の声!
バッと振り向く。視線の先でプリン頭が目に入った。金髪の上に黒色を乗せた奇抜な髪色。俺が知る限り該当する生徒は一人しかいない。
「わ、私もいます!」
隣にはトランジスタグラマーな少女も立っている。眉間にしわを寄せ、これでもかとばかりに俺を睨む。
「お前、ら……ッ!」
奥歯を食いしばる。拳を固く握り締める。奈霧と早乙女ならどうにでもなる。だが市ヶ谷はまずい。出合い頭に拳を繰り出し、一撃で暴漢に膝を付かせたと聞く。凶暴性だけでも底が知れないのに、格闘技の心得がない俺では勝負にならない。
三人に嵌められたと主張するか? いや駄目だ、音声データの存在が邪魔をする。データを処分するには奈霧をどうにかしないといけないが、そのためには市ヶ谷を突破しなければならない。
詰みだ。悟って、頭からサーッと温かみが引いていく。
「私は、あなたが飲酒した件を明かすつもりはありません。でもこれまでみたいに嫌がらせを続けるようなら、私にも戦う覚悟はあります」
「あ?」
あどけない顔が、いつになく毅然とした表情で睨んでくる。今までずっと虐げて小ばかにしてやった女が、今は俺よりも優位に立って見下している。
ギュワッと頭に上るものを感じた。
「早乙女、お前何調子に乗ってんだよ。虎の威を借る狐のつもりか? ああ、確かに市ヶ谷の頭は虎っぽいな。そこから着想を得たわけか」
「何を言っても無駄ですよ。あなたは黙って首を縦に振るしかないんです」
早乙女が足を前に出す。大きな出っ張りが視界にちらつく。
「ああ、なるほど。市ヶ谷をそのでかい胸で誑かして味方に付けたわけか。良かったなぁ豊かな体に生まれてよぉ!」
早乙女が眉間のしわを深くして歩を進める。眼前で立ち止まり、足を引く。
「ぐふっ⁉」
鈍痛が股の下から脳天まで突き抜けた。内側から爆発したような苦痛に耐え兼ねてうつ伏せに倒れる。金的。男に対する必殺技。攻撃された事実を理解して、呻きながら視線を上げる。
「金輪際私に関わらないで下さい。もうあなたなんて怖くありません」
早乙女が鼻を鳴らして背を向ける。奈霧も後に続いて身を翻す。二つの背中を睨み付けていると、市ヶ谷が俺を見下ろして口を開く。
「音声データは俺が保管する。もしあの二人に何かあったら、その時は容赦なくデータをネットに流すからそのつもりでいろ。それと拳も振るう、もう滅多打ちにする。そう、愛故に」
何だ、こいつ……大真面目な顔で、一体何を言っているんだ? 問い掛けは言葉にならず、市ヶ谷が背を向けて廊下の曲がり角に消える。
佐郷と壬生の末路が脳裏をよぎる。校舎内だけでなくネットにも流されたら、被害の規模は前例の比じゃない。前例を作った男に言われては、もう何もできなかった。