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罪には罰を  作者: 原滝飛沫
2章
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第29話 奈霧との追いかけっこ


 木製のサービスカウンターを背景に、栗色の瞳が俺を見据える。


 逃げなければ。本能に突き動かされて足が一歩下がる。


 形のいい眉が逆ハの字を描いた。華奢きゃしゃな体が僅かに沈み、すらっとした脚が床を蹴る。


 俺は反射的に身を翻した。荷物を放り投げて元来た通路を猛ダッシュする。


 反対側のドアを開けて廊下に出た。


 静かに閉める余裕はない。手首を力一杯引き寄せ、振り返ることなく足を進ませる。


 バンッ! と響き渡った音に罪悪感を抱いたのもつかの間。ドアのスライド音が続く。案の定第二の靴音が鳴り響いた。

 

「どうして追ってくるんだよ⁉」

「釉くんが逃げるからでしょ!」

「逃げてない!」

「逃げてる!」


 まるで小学生みたいな言い争いだ。


 胸の内にぽかぽかしたものを感じたのは一瞬のこと。全力で手足を動かすことに注力する。曲がり角はわざと膨らんで曲がり、意図しない誰かの飛び出しに備える。


 その分のロスは一段飛ばしの駆け下りでカバーする。並行して人の有無を調べて、その都度進行ルートを修正する。


 振り切れない。奈霧は被服部に属していると聞くけど、身体能力の高さは相変わらずのようだ。


 小学生時代は俺の方が速かった。男女の成長差を考えればそろそろ千切れてもいいはずだ。復讐完遂を機に、日課だったランニングを止めたのが裏目に出たか。


 でも距離は維持できている。校舎の外に出れば地形は複雑化するし人混みもある。マンションまで逃げ込めるはずだ。


 内履きの裏で外の地面を踏みしめた。下校する生徒をかいくぐって校門の外を視認する。


 前方で信号が点滅している。今のペースで走れば、俺が横断歩道に差し掛かる頃には赤になる。


 車は青と同時に走るわけじゃない。走行の前に飛び出せば運転手はアクセルを踏めない。赤信号で躊躇するであろう奈霧を置き去りにできる。


 当然奈霧も同じことを考える。


 だからあえて横断歩道は渡らない。赤信号を渡ると見せかけてカーブを描き、騙された奈霧が減速した瞬間に千切る。これでいこう。


「待って、待ってよ……釉くんっ!」


 意図せず呼吸が止まった。


 今にも泣き出しそうな震えを帯びた呼びかけ。心臓を鷲掴みされたように胸が痛んで、一瞬足が止まりかける。


 違う。その叫びが求める相手は俺じゃない。


 甘えるな、現実を見ろ。自分に言い聞かせて腕と脚を振り回す。


 歩行者信号はとっくに赤い光を発している。車がエンジン音を響かせるものの、突っ走れば向こう側まで行ける具合だ。


 ブラフを使った振り切りはまだ実行できる。俺は横断歩道を横断――と見せかけて進行方向を曲げる。


 視界の隅に、急な方向転換で目を見開く奈霧が見えた。赤のスニーカーが地面を踏み鳴らして、無理やりの方向転換を試みる。疾走の慣性を殺し切れず、華奢な体が車道にはみ出る。


 脳を駆け巡るものがあった。俺は足を地面に突き立てて振り向き、反射的に車の位置を確認する。


 強烈な既視感。スローになった視界で、華奢な人影に箱型が迫る。


 心臓がドクンと脈打った。胸の奥から頭頂へと焦燥が突き抜ける。


「奈霧ッ!」


 踏み出して腕を伸ばした。俺に向けて差し出された手を握りしめて、後先考えずに力いっぱい抱き寄せる。


 盛大なクラクションをBGMに、甘い匂いがふわっと香る。


  腕の中に奈霧の温かさと柔らかさを感じる。苦しそうなせわしない呼吸音も、奈霧の無事を聴覚的に教えてくれた。


 奇妙な郷愁があった。


 小学生の頃は助けられなかった。大嫌いと言われて、思わず奈霧の手を離してしまった。


 今さら助けたって遅い。俺はあの時手を離したんだ。悪魔に付け入る隙を与えて俺達の仲は壊された。もう一緒に遊んでいたあの頃には戻れない。


 それなのに、妙に感慨深い。悔やんでも悔やみきれないあの瞬間にタイムスリップして、道路に飛び出そうとする奈霧を引っ張り戻せたような達成感がある。現実味に欠けるふわふわした感覚はまさに夢心地だ。


 どこかで黄色い声が上がった。


 やっと我に返った。


 俺達を見ての叫び声だ。何も考えずに奈霧を抱き寄せたけど、よくよく見るとカップルが熱烈に抱き合っているようにしか見えない。お風呂でのぼせたような火照りが顔の温度を急上昇させる。


 慌てて踵を返そうとした時、二本の腕が腰に巻き付いた。


「捕まえた! もう離さないから!」

「なっ、正気か⁉ 皆見てるんだぞ⁉」

「離したら逃げるじゃない!」


 言葉が駄目なら腕力。細い腕を無理やり引き剥がそうと試みる。


 下校ラッシュの時間はとっくに過ぎているけど、周りにはまだ人がいる。俺達を見てヒソヒソ話す人影には事欠かない。


 俺は早乙女さんと付き合っている設定だ。変なうわさが立つのはまずい。


「く……っ!」


 びくともしない。


 ただでさえ力が入りにくい体勢な上、奈霧が背中の方で手を組み合わせている。正攻法で引き剥がすのは無理だ。


 どうする。まさか指圧で痛みを与えるわけにはいかないし、くすぐるのはどう考えてもセクハラだ。変な悲鳴を上げられたら別の意味で動けなくなる。


 奈霧が顔を上げる。


 うるんだ瞳に気圧されて息を呑む。


「ねぇ、どうして逃げるの? 嫌われるようなことをしたなら言ってよ……私のことが嫌いなら、そう言ってよ!」


 悲痛な問いかけが夕焼けの下に響き渡る。


 俺は罪悪感に負けて力を抜いた。重力に引かれて視線が足元に落ちる。


「君は何もしてないよ。嫌いでも、ない」

「じゃあ逃げないで! 私の目を見て話をしてよ! 嫌がらせをした加害者なんだから、しっかり責任取ってよ!」

「音声データなら、あの晩に送信したじゃないか」


 デートもどきを行った日の夜。俺はアプリ越しに音声データを送った。


 加害者としての責任。それは罰を受けることのはずだ。奈霧がデータを提出していれば、俺には然るべき処罰が与えられていた。そうしなかったのは他ならぬ奈霧自身じゃないか。


 亜麻色の髪が振り乱される。


「違う、違うよ。釉くんがやるべきことは、もっと他にあるじゃない」

「他? 音声データを送る以外に、俺に何をしろって言うんだ」

「私、まだ釉くんに謝ってもらってない!」


 俺は思わず目を見張った。


「謝れって……そんなことをさせるために、ここまで全力で追いかけてきたのか?」


 捕まった時点で糾弾される予想はしていた。最低だの気持ち悪いだの、そういった言葉を受け止める覚悟はできていた。


 だけど今の言葉は理解できない。どれだけ誠意を込めて頭を下げても、奈霧を怖がらせたのはれっきとした事実だ。俺が犯行に及んだ過去は変わらない。


 今さらそれっぽい言葉を並べて何になる? 退学する俺の背中を眺めた方が、よほど痰飲たんいんが下がるはずなのに。


「謝って。ねぇ、謝ってよ!」


 細い腕が俺の体を揺さぶる。


 細められた目元に滴が浮かぶ。懇願にれた声が、心の奥底に沈めていたものをくすぐった。


 本当は面と向かって謝りたかった。怖がらせてごめんと、奈霧にやってしまったことを一つ一つ詫びたかった。


 それは許されないと思っていた。相手が見たくもないはずの顔を晒して言いたいことを吐露する。そんなのは卑怯な自己満足だと思い込んでいた。


 謝罪の言葉を並べても過去は改変できない。許しを請うなんておこがましい。俺は二度と奈霧の視界に入るべきじゃないと自らをいましめた。


 でも奈霧は俺の言葉を欲している。


 謝罪を口にして奈霧の心が救われるのなら、それはもう自己満足なんかじゃない。短慮な愚行は真心という名の誠実さに昇華する。


 その気付きが、ここぞとばかりに口を突いた。


「ごめん……俺の勘違いで不安にさせて、気持ち悪い手紙で怖がらせて……あの日、君の手を離してしまって、ごめん!」


 喉から思いの丈を絞り出した。


 張り上げた声が車の走行音にかき消される。痛い沈黙が訪れて口元を引き結ぶ。


 怖い。


 覚悟してきたのに、眼前の口が開く瞬間が恐ろしくてたまらない。


 桜色のくちびるが、開く。


「釉くんはどうしたいの? 私の顔なんて、もう見るのも嫌?」

「嫌じゃない。許されるのなら小学校の頃みたいに、君と一緒にいたい」


 ついに言った、言ってしまった。心の奥底に閉じ込めていた真なる願いを、言の葉に乗せて伝えてしまった。


 誤魔化しは効かない。泣いても笑っても奈霧の返答次第で行く末が確定する。


 拒否されたら本当に終わる。俺はまぶたをぎゅっと閉じて、耳を塞ぎたい衝動に耐える。


「……ゆるす」


 小さな声が鼓膜こまくを震わせた。俺はおもむろにまぶたを開ける。


「今、なんて」

「赦すって言った」

「赦すって、俺を?」

「他に誰を赦すの?」

「いや、だって俺は、君に最低なことをした。勝手に勘違いして暴走して、間違ったことをしたんだぞ?」


 嬉しいはずなのに困惑が口を開かせる。


 問いかけて後悔の念がこみ上げたけど、一度出した言葉を引っ込めることは叶わない。


 通った声が俺の鼓膜を震わせる。


「間違ったらやり直しちゃいけないの? 過ちを犯さない人なんていない。その度合いが違うだけだよ。勘違いすらやり直せない世界なんて、生きていても窮屈で仕方ないでしょう?」

「だけど、俺は……」


 端正な顔立ちがむっとした。


「うるさい! 被害者の私がそれでいいって言ってるの! 勝手に距離を取られる方が迷惑なのに、どうしてそれが分からないの⁉」


 俺達は相も変わらず抱き合ったまま。誰かに会話の内容を聞かれたら、またあることないこと言われそうなシチュエーションだ。


 多分幼馴染は、そんなこと考えてすらいないのだろう。それだけ真剣に俺と向き合ってくれている。そのことに嬉しさを感じる俺がいた。


「……いいのか? 俺は、君のそばにいてもいいのか?」


 口が震えながら言葉をつむいだ。


 俺には赦してもらう発想が欠けていた。


 罪には罰を。罪を犯した者は、ごうを担いで破滅しなければならない。


 この世はそうあるべきと信じてきたのに、奈霧の口から赦すなんて言われたら心がなびくのを止められない。


「そばに居てよ。もう話もできないのは、嫌だよ」


 心の鎖が解かれた感覚があった。胸の内で温かいものがじんわりと広がる。照れた奈霧にはそっぽを向かれたけど、確かに聞こえた言葉を疑いはしない。


 自然と口角が浮き上がる。


「ありがとう」


 一度逸らされた瞳と再び視線が交差した。


 状況を理解できずに棒立ちする周囲をよそに、俺は奈霧と屈託くったくのない笑顔を交わす。


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