第28話 あいつ……っ!
授業の内容が頭に入らない。
数か月前にも似たようなことはあった。あの時は教師の言葉を聞こうと努力した。
今は話を聞く気にもなれない。行動に移すモチベーションが圧倒的に枯渇している。
原因は分かっているけど、俺には風間さんを止める権利がない。奈霧に男を作らないでくれと頼み込む資格もない。時間の経過で心の平穏が戻るのを待つばかりだ。
休み時間には、一部のクラスメイトから質問攻めにあった。
早乙女さんと付き合ってるの?
何がきっかけで知り合ったの?
奈霧さんとはどうしてるの?
聞かれるのは恋愛絡みのことばかりだった。寄る蚊のごとくうっとうしかったけど、今回の作戦では彼らの口を利用した。都合の良い時だけ利用して、用が済んだらうるさいと跳ね除けるのも気が引ける。
俺は適当に言の葉を返した。
その途中で芥川龍之介の言葉が脳裏をよぎった。多忙は恋愛から人類を救う。そういう意味では、質問攻めにしてくる野次馬は確かに俺を救った。適切な応答を考える作業は、俺から思考する余裕を奪ってくれた。
クラスメイトのおかげで、広めたかった話が十二分に伝播していることを知った。
後は詰めだ。自然を装って交際を続ける。それで早乙女さんを取り巻く問題は解消される。
迎えた放課後。俺は机の天板に突っ伏した。
終礼が終わったら清掃だ。テーブルと椅子を隅に押しやらないといけないのに、気持ちが廊下の方を向いてくれない。微動だにしたくない、このまま寝ていたい。
目を閉じる。
まぶたの裏で、陽気なクラスメイトに揺り起こされる未来図が見えた。
話しかけるきっかけを与えて、また根掘り葉掘り聞かれるのは面倒だ。自分から席を立った方が体力の浪費を抑えられる。
でも今日は芳樹と一言も交わしていない。
俺は基本的に受け身だ。休み時間に会話のきっかけを作るのは芳樹。昼休みに食堂行こうぜと声をかけるのも芳樹だ。確認はしてないけど今日は欠席したのかもしれない。
「なあ」
重い腰を上げようとした時だった。呼びかけられて顔を上げると、先程浮かんだ顔と目が合った。
「あれ、芳樹じゃないか。いたんだな」
「ひっでえな⁉ いたよ! 一限から座してペン走らせてたよ!」
「ごめん。いつも芳樹の方から来てくれるから、今日は欠席だと思ってたよ」
芳樹が目をぱちくりさせた。
「何だ? 今まで俺が来てくれてると思ってたのか?」
「……まぁ」
芳樹の口端がニ~~ッと吊り上がった。
俺はバツが悪くなって目を逸らす。
「失言だ。忘れてくれ」
「いいや忘れない、市ヶ谷がデレたことは言い伝える。末代まで」
「俺は怨霊か」
いや少し違うな。末代まで祟るがベースワードだろうし、今回のケースでは芳樹の方が怨霊か。俺を辱めるためだけに子孫を苦しめるとは、なんてひどい男なんだ。
俺は気を取り直して背筋を伸ばす。
「とにかく、良いことだと思うよ」
「突然何だよ。何が良いって?」
「別の友人と過ごすことだ。今日一日は他のクラスメイトと過ごしたんだろう?」
「いいや? そんな暇なかったぜ。所用で歩き回ってたからな」
「昼休みもか? 昼食はどうしたんだ」
「購買で済ませた。腰落ち着けて食べる時間なくてな。久々に一人で食ったけど、やっぱ静かなのは性に合わねえわ」
「一体何をやらかしたんだ? 一日中教師に連れ回されるなんて」
芳樹が片方の眉を跳ね上げる。
「は、何で俺が教師と校舎を探検すんの?」
「何って、叱られる以外に連れ回される理由があるのか?」
校舎を歩き回る用事なんて、大方教師絡みの案件だ。
芳樹は持ち前の素直さで教師受けがいいものの、教師にぺったりするタイプじゃない。
教師の方も、一生徒を特別扱いすると後々面倒なことになる。それらを踏まえて教師と歩き回ったなら、原因は相当な大事のはずだ。
芳樹が呆れ混じりに嘆息する。
「一旦連れ回されるとこから離れろよ。そもそも教師となんて一言も言ってねえだろ」
「じゃあ何の用だったんだ?」
芳樹は孤独な時間を嫌う。入学式当初は俺に執着したにもかかわらず、俺の謹慎中に別の友人を作ったくらい騒がしさを愛している。気分で独りの昼食を楽しむタイプじゃない。何か用事があったことは間違いない。
「ん~~何だっけ」
「さすがにそれで誤魔化せるとは思ってないよな?」
「違う違う、こういう時なんて言うんだったっけなぁと思ってよ」
芳樹が腕を組んで唸り、一拍置いて目を見開く。
「そうだ、一身上の都合! これだ!」
「さっきの誤魔化しと何が違うんだよ」
「それはどうでもいいんだっつの。お前、マジで早乙女さんと付き合ってんのか?」
大真面目に真正面から見据えられた。いつになく真剣な表情だ。大きな体も相まって気圧されそうになる。
俺はテーブルの天板に肘杖を突く。
「早乙女さんのことならその通りだ」
「お前早乙女さんと交流あったっけ?」
「入学式の前に一度会った。芳樹だって見ていたはずだぞ」
「俺も? ああ、そういや二股かけてたなお前」
「おい」
「でもお前、俺以外と交流持とうとしなかったじゃん。仲良くなる機会なんてなかったろ」
「人を何だと思っているんだ。これでも放送部に属していたんだぞ」
「早乙女さん放送部じゃないし」
「出会いの場なんていくらでもある。そもそも俺は早乙女さんに一目惚れしたんだ。特別なきっかけなんてない」
クラスメイトは俺が孤独を好むと思い込んでいる。早乙女さんとの出会いをでっち上げるのはリスクが高い。嘘は積み重ねるほど齟齬が大きくなるものだ。何かのきっかけで破綻する可能性は大いにある。
反面、一目惚れってことにすれば事は簡単だ。見た、知った、好いた。全てはこれで説明できる。
「入学式のお前スカしてたよな? 一目惚れした相手を彼女扱いされたら、普通動揺するもんじゃねえの?」
「動揺はしたよ。男の矜持で隠したんだ」
「じゃあ奈霧さんのことはいいのかよ?」
喉元に何かが閊えた。
俺は意地で喉を震わせる。
「どうして、そこで奈霧が出てくるんだよ」
「どうしてって、お前がそれ言うか?」
「いいだろ別に。趣向が変わったんだよ、外野にとやかく言われる筋合いはない!」
思わず声が荒くなった。これ以上問答を続けると怒鳴ってしまいそうだ。
芳樹の眉間にしわが寄った。
「あーもう! そうかよ!」
「そうだよ!」
「分かった! お前がいいって言うなら何も言わねえ。ところで勉強付き合ってくれ」
「は?」
突然の頼まれごとに思考が追いつかない。今明らかにそういう空気じゃなかったはずだ。
芳樹にデリカシーが欠けていることは知っていたけど、この友人はどれだけ図太い神経をしているんだ。
「テストの採点間違ってたみたいでさ、再試になった」
「再試ってお前、実力テストだぞ? 何点取ったらそうなるんだよ」
「三十点」
さすがにドン引きだ、大して難しくもない内容だったのに。
さては調子に乗って遊び呆けたな? やはり夏休み前に芳樹の勉強を見ておくんだった。
「ちなみに、何か止むに止まれぬ事情があったりは?」
「あるぞ。部活だろ? ダチの誘いだろ? 旅行だろ?」
芳樹が手を広げて指を一本ずつ曲げる。
口から安堵の吐息がこぼれた。
「自業自得か、良かった」
「何が⁉」
「いや、ちゃんと報いがあったんだなって」
「ひっでえな! というわけで勉強教えてくれ」
「いいけど、図書室以外では付き合わないぞ」
図書館にファミレス、渋谷の街。二度あることは三度あると言うけど、三度あることは四度あるとも限らない。
だったらいっそ校舎にいた方が安全だ。
奈霧は手芸部に属している。放課後は図書室に足を運ぶ理由がない。
万が一奈霧を見かけても、本棚に隠れて別の入り口から脱出できる。急用ってことにすれば芳樹への言い訳も立つ。
「それでいい。んじゃ今日の十七時に図書室な」
「いいけど、ずいぶん突然だな」
「勉強なんて一日や二日で身に付くものじゃないし、丁度良いじゃん」
「そこまで分かっているなら――」
最初からやれ。そう言いかけて口をつぐむ。
理解と勉強が結び付くなら、芳樹はそもそもこうなっていない。俺がやれと告げるだけ無駄だ。
「分かっているなら何だ?」
「いや、いい。十七時に図書館だな」
「おう。あ、少し遅れるかもしれないから本読んで待っててくれ」
「何か用事か?」
「野暮用があんだよ。繰り返すけど十七時だぞ、絶対だからな」
「はいはい」
芳樹の背中を見送って腰を浮かせた。椅子を逆さまにして机の上に乗せ、クラスメイトへの義理を果たして教室を後にする。
部室に向かう体操着姿を視界の隅に流して、高所へ続く段差に足をかける。
生徒の多くが下へ向かう中、俺一人だけが上階へと足を進ませる。断頭台に続く階段を上るような錯覚がある。
誰が、何のために俺を処刑すると言うのだろう。図書室の利用は生徒に許された権利だ。誰かに怒られる謂れはない。俺を罰する権利があるのは奈霧だけだ。
考えて、いつぞやに指摘された言葉を思い出す。
俺が奈霧から軽蔑されることを恐れている。品の良いお婆さんがそんなことを告げていた。
確かにその通りかもしれない。渋谷で奈霧と鉢合わせた時、俺が最初に覚えたのは怯えだった。
障害物のない街中。簡単には逃げられない状況で奈霧に罵声を浴びせられる。その場面を想像したら、俺は居ても立っても居られなくなった。
あのデートは多くの人に見せる目的があった。奈霧の耳に入ることも想定していた。
だけど本人を前にした途端、俺は逃げ出したくてたまらなくなった。結局のところ、俺は奈霧から逃げているだけなのだろう。
それが悪いこととは思わない。
佐郷や壬生に貶められたのが良い例だろう。事前に小学校での振る舞いを謝られていたとして、俺が復讐を断念したかはどうかは別問題だ。今さら謝られたって遅い! と逆上した可能性もある。
終わったことは終わったこと。謝るのは俺の自己満足。そんなもので被害者が不快な思いをするのは馬鹿げている。だから俺は決めたんだ。もう奈霧には近付かないと。
俺は図書室のドアを開ける。
室内はがらんとしていた。放課後になって間もないし、実力試験が終わったばかりだ。みんな活字を見たくないのかもしれない。
十七時までには少し時間がある。本棚から適当な冊子を引き抜いて椅子に腰かける。図書室の独占。ちょっとした優越感を肴にページをめくる。
めくる。めくる。
めくる内に時刻が十七時半を越えた。
「何してるんだ、あいつ」
場所を指定したのは芳樹。時間を指定したのも芳樹だ。この場に友人が現れないのは道理に合わない。
図書室で読書する予定はない。俺は本を棚に戻して、入室の際に使った出入り口へと踏み出す。連絡もなく三十分以上待たせる方が悪いんだ。俺はこのまま帰らせてもらおう。
徒労感をため息で紛らわせた時、前方のドアが勝手に開いた。
「……え」
驚愕が声になって口を突いた。
図書室のドアは自動で開くタイプじゃない。誰かが取っ手を引いて開けたのは分かっていた。
俺が驚いたのは、図書室に踏み入ったのが予想外の人物だったからだ。亜麻色の髪にすらっとした肢体。そこに立つだけで目を惹く麗しさは、どう見ても俺唯一の友人じゃない。
直感があった。
都立中央図書館での邂逅。
ファミレスでの巡り逢い。
そして今回の遭遇。渋谷の街で顔を合わせた時を除いて、奈霧との邂逅には全部芳樹が絡んでいた。
「あいつ……っ!」
拳をぐっと固く握り締める。栗色の瞳の手前、噴き上がる激情をこらえるので精一杯だった。