第27話 好きにしろ
休日明けの重い体を起こす。素足をスリッパに挿し込み、体重を乗せて直立する。
毎朝のルーティンを終えて玄関を後にする。足が鈍い。大事な試験の結果を聞きに行くような気分だ。自分が起こした行動の結果を見たいような、見たくないような。気を抜くと足が元来た道を辿りそうになる。
色んなものを失った俺が、今さら何を恐れると言うのか。今の俺は愛故にご奉仕するプリン。人型をしているだけのタンパク質だ。余計な感情はいらない。自分がやるべきことは分かっている。後は決めたことを貫き通すだけでいい。
俺は校門をくぐって昇降口に踏み入る。ロッカーから上履きを出した時に視線を感じた。ヒソヒソ話が昇降口の空気を震わせる。
俺は聞こえないフリをして廊下に靴裏を付ける。いつも歩くルートを進み、階段の段差に足を掛けて体重を乗せる。
「おはよう」
俺は足を止めて顔を上げる。風間さんが踊り場の壁に背を預けていた。友人に接するような態度を前に、俺は一瞬面食らった。声が震えないように努めて口を開く。
「おはよう風間さん。今日は朝練なかったのか?」
バスケ部の活動なんてどうでもいい。とにかく会話の取っ掛かりが欲しかった。俺は早乙女さんの味方をすると決めた。彼女を百パーセント信用しているわけじゃないけど、少なくとも風間さんの味方じゃない。敵に回ったことへの申し訳なさから、気を抜くと目を逸らしそうになる。
「今日は早めに切り上げさせてもらったんだ。用事があったからね」
「その用事って言うのは、今ここにいることと関係があるのか?」
「あるよ、そりゃもう大有りだ。俺は君に用があってここで待ってたんだから」
内容の察しが付いた。俺は風間さんに背を向ける。
「そうか。じゃあ場所を移そう」
「宛はあるの?」
「食堂はどうだ? この時間帯なら人もそんなにいないだろう」
「その案採用」
風間さんが壁から背を離す。俺は一足先に階段を下り、制服姿とすれ違って食堂の床を踏み締める。隅っこへと歩を進め、椅子に腰を下ろして向かい合う。
「今日は実力試験の結果発表だね。市ヶ谷さんはどうだった? 俺は国語の問題が解けなくてさ、最後の問題嫌らしかったよな。絶対まかピーが作った問題だぜあれ」
真下先生。通称まかピー。強面で知られるものの、意外と生徒に優しいことが発覚して付けられた愛称だ。当然本人の耳に入っているが、まんざらでもないようでニックネームとして定着している。
「御託はいい。俺に何の用だ? わざわざあんな所で待ち構えていたんだ、相当大事な用件なんだろう?」
「御託はひどいなぁ。これでも市ヶ谷さんとは仲良くしようと思ってるんだよ?」
「そう思うなら真っ直ぐ来いよ。策から入るな。いきなり小技を見せられたら誰だって訝しむぞ」
御託は社会人の技だ。日常的な会話で相手の警戒心を解き、自らの要求を通しやすくする大人の工夫だ。そんなものを、まだ二回しか顔を合わせていない俺に対して使った。身構えるなと言われても無理だ。
風間さんが肩を上下させる。
「警戒されたもんだねぇ。それってあれかな? 市ヶ谷さんが早乙女さんと付き合ってるから、俺が警戒されてるってことかな?」
「仮にそうだったらどうするんだ?」
「何も。俺の忠告は聞き入れてもらえなかったみたいで、少し残念だなぁって思っただけ。ちなみに早乙女さんのどこに惚れたの? やっぱりおっぱい?」
あまりにも直球な問い掛けだった。意図せず眉がぴくりと跳ねる。
「君、デリカシーがないって言われないか?」
「今日君に言われたのが初めてだよ。これでも爽やか高校生で生きてるからさ。ちなみに結構モテる」
それは分かる。唐突な下ネタで評価を下げたけど、バスケ部の見学後に話した時は好感しか抱かなかった。独特な空間演出能力とでも言うのか、俺には持ち得なかった才能だ。取り敢えず彼氏が欲しいと望む女子ならイチコロだろう。
「だったらそのキャラを貫き通せよ。それとも、この期に及んで動揺するレベルの話をするつもりなのか?」
「うん。特に、君に対して発するのは気が引ける内容なんだ。その点は聞いてくれれば理解してもらえると思うんだけど」
俺は内心で気を引き締める。早乙女さんとの交際が発覚したこのタイミングだ。脅迫関連の話が飛び出してもおかしくない。俺はブレザーのポケットに手を忍ばせ、録音アプリの準備をする。
「じゃあ聞かせてもらおうか。その気が引ける話を」
「そうだね。これ以上は時間がもったいないし、単刀直入に話すよ。僕、奈霧さんに告白しようと思うんだ」
「……え」
頭の中が漂白された。
高校生の男子が同学年の女子に告白する。全国で起こる、特に珍しくもないイベントだ。眼前の男子が口角を上げているように、ありふれた微笑が付きまとう日常的な茶飯事だ。そのはずなのに、俺には天地が降ってきたと錯覚するほどの衝撃だった。
風間さんが首を傾げる。
「あれ、そんなに驚くことかな? だって奈霧さん綺麗じゃん。笑うと可愛いし、めっちゃ優しいしさ。昼休みにあれだけの騒動を起こしたんだし、市ヶ谷さんも知ってるよね? それとも小学生の頃の奈霧さんは違った?」
「……いや、違わない」
俺にだけ優しかった、なんて自惚れるつもりはない。伏倉だった頃の友人は少なかったけど、教室内での奈霧を視線で追うことはあった。名も知らない男子に手を差し伸べる姿を見て、子供ながらに嫉妬心を覚えたこともある。それくらいには思いやりのある女児だった。
「だよね。今日まで市ヶ谷さんは奈霧さんを狙ってると思ってたし、俺も色々と自重してたんだけどさ、君は早乙女さんと交際してるじゃん? そんなわけでさ、改めて狙ってみようと思って」
「駄目だ」
無意識の言葉が口を突いてハッとする。心なしか、風間さんの口角が吊り上がったように見えた。
いけない、客観的視点を捨てるな。俺が見るべきは眼前の男子。心情による補正は真実を曇らせるだけだ。
「何で駄目なの? 君は早乙女さんと付き合ってるんでしょ?」
「それは……そもそも、そんなことは俺に言うことじゃないだろう?」
「まあね。でも君ってやばい奴じゃん? またあんな騒動起こされたらたまんないのよ。だから一応確認しておこうと思って。それでどうなの? 奈霧さんに未練はある?」
「俺、は……」
思考がまとまらない。語尾まで濁った。気持ちに整理は付けたつもりだった。罪を背負って、奈霧に嫌われて生きていく。その覚悟はできていた。だけど他の男子に奪われることまでは想像していなかった。いや違う、その可能性から必死に目を背けてきた。奈霧は人気がある。誰かに好意を告げられてもおかしくないと分かっていたのに。
俺は指で太腿を挟む。肉に爪を食い込ませ、その痛みで雑念を振り払おうと試みる。早乙女さんとの交際が嘘だと知られたら作戦が破綻する。ここでボロは出せない。奈霧に未練があるだなんて、そんなこと微塵も悟らせちゃいけない。
俺ならできる。散々ポーカーフェイスの練習をしてきた。まぶたを閉じて深く空気を吸い、再度風間さんの目を見据える。
「好きにしろ」
風間さんが目を丸くした。
「いいの? 君にとっての奈霧さんって特別だよね?」
「奈霧はただの幼馴染だ。それ以上でも以下でもない。風間さんが奈霧を好いているって言うなら、俺が止める理由はないよ」
「ふーん、あそう」
風間さんがつまらなそうに席を立つ。
「まあ、君がそれで良いなら別に良いんだけどさ。じゃあ奈霧さんに告白するから、くれぐれも俺の邪魔しないでねー」
風間さんが間延びした声を残して歩き去る。俺はしばらくの間食堂の椅子に腰を落ち着けていた。