第26話 金色のネックレス
小腹を満たして、早乙女さんと渋谷ヒカリエを歩き回った。ショッピングエリアや高所からの眺めを楽しみ、建物を後にして次なる目的地を目指す。知り合いとはまだ出くわしていない。さらなる歩みが必要だ。
視界に違和感を感じて、俺は隣に視線を振る。
早乙女さんが少し後方を歩いている。幼さの残る顔立ちが眉間にしわを寄せていた。
「足が痛いのか?」
「ちょっとだけ。普段ヒールなんて履かないもので、靴擦れしちゃったみたいです」
早乙女さんが力なく口端を引きつらせる。ずっと隠して歩いてからのこの反応だ。少なくとも『ちょっと』ではないだろう。針で刺すくらいの痛みがあってもおかしくない。
俺はスマートフォンを取り出して画面をタップする。
「確かこの辺りに靴屋があったよな」
「いいですよ。別に歩けないほどじゃないですし」
「今は良くても、これから悪化するかもしれないだろう? 作戦は一日や二日で効果が望めるものじゃない。来週も歩かなきゃいけないんだ。靴屋に行こう、金欠なら俺が出すよ」
「そんな、悪いですよ! 自分で払いますって!」
早乙女さんが体の前で手を往復させる。
改めて行き先を靴屋に定め、二人でコンクリートの地面を踏み鳴らす。歩行スペースは落とした。早乙女さんが自分を責めないように、意識してこちらから話題を振る。
「あれ、麻里じゃん」
会話の種を拾うのに一生懸命で、正面からの接近に気付くのが遅れた。
反射的に視線を向けると、一人の少女が早乙女さんを見つめている。年は俺達と近そうだけど、顔を合わせた覚えはない。半袖ニットにパンツルックと、ラフな私服を身にまとっている。
知り合いかどうか問い掛けようとした時、早乙女さんの表情がぱーっと明るみを増す。
「糸崎さん! どうしてここにいるの⁉」
「それはこっちのセリフだよー!」
糸崎なる少女が早乙女さんに駆け寄る。互いに手を取り合い、ぶんぶんと腕を上下させて歓喜の情を表現する。男子同士では見られないやり取りだ。今日一日自分を押し込めていたのか、早乙女さんの表情がより一層あどけなく映る。
糸崎さんが俺を見て目を丸くする。
「あれ、愛故にじゃん」
「君も愛を語るのか。初対面に等しい人をあだ名で呼ぶな」
「だって名字知らないし。愛が気に入らないならご奉仕プリンはいかが?」
「駄目だ。俺のことは市ヶ谷さんと呼べ」
「おっけー」
少女が右のまぶたを閉じる。思ったより素直な人だ。早乙女さんの友人みたいだし、性根は悪くない人かもしれない。
「それで、何で市ヶ谷さんと麻里がここにいるの? 金曜に誘った時は用事あるって……ははーん」
糸崎里香なる少女が口端を吊り上げる。
いかにも意地の悪そうな笑み。それだ、その態度こそ俺達が望んでいた反応だ。
俺はすっ呆けるつもりで口を開く。
「何だ? その意味ありげな反応は」
「分かってるくせにー。ねえねえ、どっちが誘ったの?」
「ちょ、ちょっと糸崎さん!」
抗議の声が糸崎さんの笑顔に受け止められた。教室での二人が脳裏に浮かぶやり取りだ。早乙女さんにいじり甲斐があることはカフェで知った。いじりたくなる気持ちはよく分かる。
「デートに誘ったのは俺だ」
「市ヶ谷さん⁉」
早乙女さんが目を見張る。どうしてそんなに驚くんだろう。もしや俺達の目的を忘れているんじゃないだろうな?
俺は早乙女さんの耳元に口を近付ける。
「俺達は交際している設定だろう? 怪しまれないようにしてくれ」
「ひゃ……ひゃい」
白い耳たぶが赤みを帯びる。耳打ちしただけでこの反応、本当にいじり甲斐のある人だ。加虐心に身を委ねたくなってしまう。
「にしても意外だなー」
「何が?」
「いや、二人がくっ付いたことがさ」
「その先は言わなくていいぞ」
糸崎さんが目をぱちくりさせる。
「もしかして聞き飽きてた?」
「ああ」
どうせ奈霧の名前を出すに決まっている。愛を語る連中はいつもそうだ。
「ちなみにさ、どうして?」
「理由が必要か?」
「あれだけの騒ぎ起こしておいて、理由が無いなんてことはないでしょ」
「小学校の頃の話だぞ? 人の心は変わるんだよ」
自然と視線が逸れる。嘘を言ったつもりはない。年月で変わる人と変わらない人がいるだけだ。
奈霧は変わらなかった。俺の方が変わってしまった。不変と可変が釣り合うわけない。糸崎さんが求める理由なんてこれで十分だ。
糸崎さんが頭の後ろで手を組む。
「ふーん、もったいないなぁ。あの騒ぎに乗じて告白すれば、大半の女子はころっといきそうなのに」
「ノリと勢いだけの告白が成功したって長続きしないだろう。互いに不幸になるだけじゃないか?」
「おー」
糸崎さんが感嘆の吐息を漏らした。
「何だその反応は」
「意外としっかりしてるんだなーと思って。そんな頭してるくせに」
「頭関係ない」
「鏡見てごらんよ。金色の上に黒いのが乗ってるんだよ? プリンじゃん」
「だから何だ。いずれ真っ黒に戻る」
「胡麻プリンだね」
「おい」
糸崎さんが小気味いい笑い声を響かせる。さっきから何でそんなに歯に衣着せないんだろう。俺の悪評は知っているだろうに、俺が怖くないのか?
糸崎さんがふっと息を突く。
「思ったより真面目そうで安心した。麻里が奈霧さんの代わりにされてたらどうしようかと思ったよ」
「代わりって何だよ」
「くどいかもしれないけどさ、やっぱあの騒動は私達にとって衝撃だったわけよ。市ヶ谷さんが他の女の子を選んでも、私達としてはいまいち釈然としないの。分かってくれる?」
「ああ、それなら分かる」
俺も第三者の立場なら、今とは違う言葉を吐いていた自信がある。それだけ俺と奈霧の関係は特別だった。仲を引き裂く悪役を打ち倒し、過去の想い人と笑顔を交わす。いかにもなロマンスだ。周りから見ても魅力的に映るのは分かる。
これから先、俺は色んな人に似たことを問われるのだろう。あるいはそれが、いまだ俺に降り落ちない罰の代わりなのか。でももう大丈夫だ。菅田先輩に愚痴を吐き出してから少し楽になった。もうこんなことで声を荒げたりはしない。
「分かってるならいいんだ。ごめんね、失礼なこと言っちゃって」
「気にしなくていい。友人が悪評のある男性と交際しているんだ。君の心配は尤もなものだよ」
「市ヶ谷さんやっさしー! 良かったね麻里、このチャンスものにしなよー?」
「違うって! いや違わないんだけど、これはそうじゃなくて!」
「お待たせ」
心臓がトクンと跳ねた。鼓膜に溶けるような声に意識が引き寄せられる。
見てはいけない、そんな直感程度で首は止まってくれなかった。視線が動き、声の主を視界の中心に捉える。見知った人影があった。私服に身を包んだモデル然とした少女が、ショッピングバッグをぶら下げて佇んでいる。亜麻色の髪が右で結われて肩に乗っかり、普段よりも洒落っ気と柔らかな雰囲気を醸し出している。
すぐにここを立ち去るべきだ。思考が取るべき行動を導き出しても、俺の足は動いてくれない。見開かれた栗色の瞳に囚われて思考が漂白される。
糸崎さんが俺に背を向ける。
「あ、聞いてよ奈霧さん。この子ったら、ついに市ヶ谷さんを手に入れたみたいでさ」
「手に入れた、って……」
奈霧の視線が俺の隣にスライドする。
何を思ったかは明白だ。男性の俺から見ても、早乙女さんの格好はデート服にしか見えない。同性の奈霧にそれが分からないはずはない。
否定の言葉が口を突きそうになった。とっさに口をつぐんだ拍子に、奈霧の胸元で何かが光る。
金色のネックレス。見間違いようがない、俺が奈霧の誕生日に贈った物だ。捨てずに身に付けてくれた。その事実に救いじみた歓喜と喪失感を覚える。
何かが違えば、俺の隣には奈霧が立っていたかもしれない。嫌いと告げられたあの日に握力を弱めなければ、奈霧と肩を並べて街を歩く未来があったかもしれない。
俺は胸の疼きに耐えてポーカーフェイスに努める。
詮無きことだ。俺は奈霧の手を離した。目の前の光景こそが俺の現実だ。これまで散々悔やんできた。何度も諦めろと自分に言い聞かせてきた。
今こそ、その努力を実らせる時だ。
「早乙女さん、行こう」
俺は奥歯を噛み締め、早乙女さんの手を取って歩を進める。
事情を打ち明けてしまいたい。これはデートなんかじゃないんだと、事情を全部ぶちまけてしまいたい。
それはできない。ここは街中だ。誰がどこで聞いているか分からない。作戦の暴露は早乙女さんを見捨てるに等しい。それは奈霧が好いてくれた伏倉釉の行動じゃない。
この身はとっくに穢れている。だったらせめて、奈霧の記憶にだけは伏倉釉として残りたい。それが諦めた者の意地であり、けじめだ。
俺は足早に奈霧と擦れ違い、意図しなかった邂逅の場を後にする。
呼び掛けの声は上がらなかった。