第21話 先輩方との夏祭り
「あ、もしもしー? 市ヶ谷さんのスマホで合ってる?」
自宅での勉学に励んでいた時だ。菅田先輩から電話がかかってきた。
俺のスマートフォンに登録されている連絡先は一件。言わずもがな芳樹のものだ。
最初は警戒して放置したけど、何度もコールされてうっとうしさに負けた。応答した矢先にひざをなぞる系悪女の声を聞いて今に至る。
「先輩、まず一つ確認させて下さい」
「うむ」
「何で俺のスマホの番号知ってるんですか?」
「ちょっと風の声を聞いてね」
すぐに嘘と分かるセリフを、よくもまあつらつらと。
さすが純情男子をもてあそぶ系悪女だ。嘘を付き慣れている。
「不思議ちゃんですか? それともノートに詩をつづってます?」
「何で知ってんの? ところで今日祭あるんだけど、十七時に池袋駅前集合ね」
「は?」
んじゃねー。間延びした声を残して通話が切れた。
思わずスマホを凝視する。
「待ってるって、返事も聞かずに何言ってるんだあの人」
行くわけがない。すぐに画面をタップして電話をかけ直す。
何度やってもつながらない。
「まじかよ」
胸にすーっと冷たいものが落ちる。
どうしよう。待ち合わせ場所に向かうなら、すぐに自宅を出ないと間に合わない。
では行くとは言わなかった。何で来なかったのと非難される筋合いはない。
テーブル上のシャーペンに腕を伸ばして、指先が触れる寸前で指を止める。
放送部は辞めた。先輩方と顔合わせをする機会は限られる。
祭におもむかないことで陰口を叩かれるかもしれないけど、俺の所業は校内に広まっている。菅田先輩も俺にちょっかいをかけるほど命知らずではないはずだ。
だけどあの先輩方には世話になった。このまま聞かなかったことにしていいのだろうか。
「ああ、くそっ」
チェアから腰を上げて外出の準備に取りかかる。
祭と言っていたけど着物を身にまとう時間はない。適当な上着に袖を通して玄関を出る。
電車に揺られて池袋駅のホームに靴裏を付けた。人影が濁流のごとく荒れくるい、ゴタゴタした街中からあふれ出さんとうごめいている。
探すのをあきらめようとした時、ポケットの中でスマートフォンが震えた。
すぐに応答した。指定されたポイントへと足を急がせる。
見上げれば、数えるのも嫌になる数の提灯が吊り下がっている。
熱のある光が列を作って街並みを夜の顔に変えている。露店や遊びコーナーには人が集まり、友人や恋人と笑顔を振り撒いている。
それらを見ないように努めて歩を進める。
待ち合わせ場所に立って五分後。着物姿の人影が歩み寄ってきた。
「お待たせ。待った?」
「待ちました。何で呼んだ側が遅れて来るんですか?」
「ごめんごめん。ちょっと遅れちった」
波杉先輩が片目を閉じる。
小柄も相まって、妖艶というよりは子供の茶目っ気全開だ。正直菅田先輩の妹にしか見えない。姉のような悪女にはならないでほしいものだ。
菅田先輩が目を丸くした。
「あれ? ここは定型文を返すところじゃないの?」
「定型文?」
「待ってないよってやつだよ。定番でしょ?」
「知りませんよ」
「嘘⁉ 市ヶ谷さんはそういうの慣れてると思ってたのに! 女の子の準備には時間が掛かることをご存知ない⁉」
「知ってはいますけど、慣れてはいませんね」
傍から見ると、俺は遊んでいる風に見えるんだろうか。
そういえば入学式に二股野郎とうらやまれたことがあった。
芳樹の誤解は解いたけど、奈霧にもそんな風に見られていたのだろうか。かなりショックだ。
菅田先輩が呆れたように息を突いた。
「もったいないなぁ。知ってるなら実践しないと、周りにそういう人だと見られちゃうよ?」
「考えておきます」
「そんなんじゃ彼女できないぞー」
胸の奥がチリッとした。
返事の代わりに身をひるがえす。
「祭行くんじゃなかったんですか? 行きますよ」
背後から下駄の小気味いい音が迫る。
「ごめんね。お祭りだからちょっとハイになっちまってさ」
何の謝罪だろう。いきなり呼びつけたことか? それとも今の俺は怒っているように見えるんだろうか。
どっちでもいいや。
「波杉先輩は悪くないですよ。波杉先輩は」
「やっぱ怒ってるじゃん。ごめんって」
菅田先輩も追いついた。眉がハの字を描く辺り、多少は悪く思っている様子がうかがえる。
小さく息を突いて振り向いた。
「もういいです、次からは気を付けてください。ところで、どうして俺を誘ったんですか? お二人なら連れには困らないでしょう。特に菅田先輩は」
「ん、真樹だけ? ねぇねぇ、もしかして今わたしディスられたん?」
波杉先輩が笑顔を向ける。さては場の空気を和ませようとしているんですね?
優しいなぁ。予想が外れていたら面倒なことになるし、あえて無視させてもらいます。
「さては菅田先輩、彼氏がいないから俺で誤魔化そうと――」
「それ以上口にしたら大変なことになるぜベイビー」
「じゃ言いません」
甘ったるい匂いの空間を突き進む。
焼きそば、たこ焼き、チョコバナナ。祭り用の化粧を施された食べ物が視界内をかざる。
「あ、りんご飴! 買う~~!」
「わたしもー!」
先輩方が屋台に突撃する。
赤い球体が刺さった棒を握って戻った。
「リンゴ飴って美味しそうに見えるから祭りの度に買うんだけどさ、中のリンゴって大体もっさもっさしてるよね」
「分かるわぁ。わたしも毎回買ってがっかりするんだよねぇ」
「もしもしお嬢さん方、そこにある屋台に何て書いてありますか?」
「りんご飴ー
りんご飴ー」
「そう、りんご飴です。二人とも口閉じましょうね」
「私ジューシーなりんご飴食べてみたいんだよね。難しいかなぁ」
「難しいでしょうなぁ。情熱のあるりんご飴売りを見てみたいものですよ」
駄目だ、皮肉が通じない。
凶悪な目付きのおっさんが俺を見ている。
営業妨害なのは分かるけど、女の子をにらめないからって付き人の俺に当たらないでほしい。
二人の背中を押してその場を後にする。
何か食べないのかと問われて、俺は焼きそば紅ショウガ抜きを購入した。
手に生温かさを感じつつ二人に続く。
「ところでさ市ヶ谷さん」
「何ですか?」
「いつまで暗い顔してんの?」
息が詰まった。足を止めて菅田先輩の背中を見据える。
視線の先で二つの人影が足を止めた。
「あれ、もうそれ言っちゃう?」
「このまま伏せていても意味無さそうだしさ。もういっそのこと直球で言っちゃおうと思って」
うっとうしいんだもん。菅田先輩がそう言いたげに視線を振る。
辛辣さを隠そうともしない在り方には苦笑するしかない。
「なるほど。誘いはそれを言うための口実だったんですね」
もやもやしたものが胸の奥を圧迫する。
どいつもこいつも、人が触れられたくないことをぺらぺらと。いい加減俺も言いたいことを吐き出したくなってきた。
わざとらしくため息を突いてやった。
「不快にさせたのなら謝ります。でも俺はやるべきことをやってます。放送部は辞めましたし、人が集まりそうな場所は避けてます。俺にそれ以上を求めるのは酷だと思いませんか?」
「別に自粛を求めるつもりはないよ」
「それならいいじゃないですか」
「君はそれでよくてもね、周りはそうじゃないんだよ。ご奉仕プリンって呼ばれてることは知ってるよね? それについて何とも思わないわけ?」
「暇人だなと思ってますよ。あの手の輩はいくらでも湧いて出ますから気にしないようにしているんです」
小学生の頃もそうだった。
人がいじめられたことで勝手に盛り上がって、それが俺や母を苦しめるとも知らずに、どこの誰とも知らない他人が気持ち良くなっていた。
誰が同情してくれと頼んだ? 肝心な時は役に立たないくせに、人をダシにして勝手に気持ち良くなるなよ。思い出しただけで腹が煮えてくる。
菅田先輩が腰に左手を当てた。
「なーんか論点ずれてんだよなぁ。あだ名の感想なんてこっちは聞いてないんだよ。殉教者みたいにボランティア活動を繰り返してさ、自分を苛めることの何がそんなに楽しいの? 見せられるこっちとしては痛ましくてたまらないんだけど」
「うわっ、真樹さすがに辛辣じゃね?」
「いいの。初めから白黒つけに来てんのよ、こっちは」
「ならはっきり言いましょう。もう放っておいてください。俺は他者の介入を望みません」
「だったら言う前にすることあるでしょ? 今の君を見て友人がどう思うのか、一度でも考えたことはある? その上で言ってるなら、誰にも心配をかけないくらい完璧に隠し通せよ。微笑め常に、はしゃげ毎日。それができないなら、信頼できる誰かに愚痴でも何でもゲロっちまえ。辛いなら一人で抱えんな」
一瞬思考がフリーズした。
出しゃばり女に告げられた言葉の意味を理解するのに、数秒を要した。
信頼できる誰かに愚痴れ? まるで俺のことを心配しているような口ぶりだ。この人は俺を非難しに来たんじゃないのか?
波杉先輩が肩を上下させる。
「ゲロっちまえだなんて、男子が聞いたら嘆き悲しみそうだねぇ」
「私はこういう人間なんですぅー。外見しか見てない連中なんてムンクしてりゃいいんですぅーっ」
菅田先輩が口で3の字を作る。
いつからムンクは動詞になったんだろう。
大人びた美人の菅田先輩がゲロっちまえだなんて、確かに男子が知ったら憧憬が粉砕されそうだ。絶望して叫ぶ男子が目に浮かぶ。
対照的に波杉先輩が腹を抱えた。
「あははっ! やっぱ真樹おもしれー!」
「ずっとおもしれーよ私ぃ!」
女性陣が口を開けてはしゃぐ。
二人のテンションとは裏腹に、思考は驚くほどに静まり返っている。
考えたこともなかった。俺を心配してくれる人はもうこの世にいないと無意識に思い込んでいた。
いや違う、ずっと考えないようにしてきたんだ。
俺は罰が欲しかった。
胸の内に巣食う自罰衝動を鎮める方法が分からなくて、誰かのためになりそうなことに片っ端から手を付けた。
変な色の髪だと自覚していながら、それを放置して笑い者の立場に甘んじた。
自罰衝動は今なお俺の心に巣食っている。解消する方法は見当も付かない。
そんな俺でも、こういう時どうするのが正解なのかは分かる。
「すみませんでした。以後気を付けます」
小さく頭を下げた。
横暴な物言いには腹も立つけど、不快な思いをさせていたなら下げる頭は持ち合わせている。
復讐劇の一環でポーカーフェイスには造詣がある。久しぶりに徹底するとしよう。
しかし先輩にはよく叱られる。
【愛故に】の凶暴性を知っているだろうに、臆さず俺の悪い点を指摘してくれる。説教なんて小学生の頃はわずらわしいだけだったのに、今は叱られたことにほのかな安堵を覚えている。
母が鬼籍に入っても、まだ俺を見守ってくれる人がいる。その事実がこんなにも心を温めるとは思わなかった。
菅田先輩がふっと微笑を浮かべた。
「うん、私も言い方きつくなってごめんね。ちょっと八つ当たり入ってたかも」
「相談してもらえなかったって落ち込んでたもんなー」
「こら言うな双葉! はいはいこれで説教は終わり。さあ祭を楽しもーっ!」
「おーっ!」
先輩方が拳を掲げる。
俺も腕を上げようとして、遠くに見える高台が華やぐ。
花火だ。上空で爆散した灯りに見惚れて、次の瞬間には奈霧の姿を見つけた。
変な声が出そうになったけどさすがに三度目。さりげなく物陰に隠れて様子をうかがう。
友人と祭を楽しみに来たのだろう。奈霧の周りには校舎で見かけた男女が並んでいる。楽し気に言葉を交わして示し合わせたように笑みを浮かべる。
一度は思い描いた青春模様。微笑ましいはずの光景を前に、俺は微かな違和感を覚えた。
「私服、か」
違和感の正体は奈霧の格好だ。
オフショルダーの上着に、くるぶしを見せるパンツルック。周りが浴衣だから奈霧だけ浮いて見える。
奈霧の浴衣姿を見れなかったことに落胆した刹那、端正な顔が夜空を仰ぐ。
憂いを帯びた表情が、俺に過去の光景を想起させる。
まだ伏倉姓を名乗っていた頃のことだ。スカート姿の奈霧にどきどきしていた当時、門限が近付くと奈霧は決まってあの表情をしていた。
心がざわつく。
どうにかして表情の陰りを払ってやりたい。当時にも抱いた欲求を靴裏ごと地面に押し付ける。
もう赤の他人でしかない幼馴染は、一体何を思って夜空を仰いだのだろう。
先輩に呼びかけられるまで、俺はそんなことを考えた。