第20話 因果
電車の床から靴裏を離して渋谷駅のホームを踏みしめる。
長時間自然に囲まれていたから人混み特有の騒々しさがなつかしい。戻ってきた実感を得て口角が上がる。
「んじゃまた学校でね! ばいばーい!」
金瀬さんが声を張り上げて、元気はつらつとしたあいさつを皮切りに解散する。
金瀬さんグループはこの後遊びに出かけるそうだ。
さて、俺はどうしよう。
特に予定は決めていないけど、小学生と触れ合ったことで精神的な疲労がたまっている。
帰宅を理由に金瀬さん達と別れた体面もある。最近外出すると奈霧に遭遇する傾向があるし、いさぎよく帰途につくのが堅いか。
「あ、あのっ!」
振り返るとそこそこ可愛い女の子が立っていた。確かボランティアの場にもいたような、気がする。
飾り気のない黒髪がおとなしめな印象を与えるものの、顔立ちは悪くない。磨けば光るものを感じさせる。
重力に引かれて俺の視線が落ちる。思わず目をしばたかせる。
でかい。何がでかいって、膨らむ宿命のものがでかい。
金瀬さんと違って見た目に飾り気がない分、妙に蠱惑的に見える。
いや、全体的なプロポーションで言えば間違いなく奈霧に軍配が上がるし、華やかさで言えば比べるまでもなく奈霧の方が上だけど何考えているんだ俺ちょっと意味が分からない。
とにかく笑顔だ! 顔に微笑を貼り付けておけば何とかなる!
「俺に何か用ですか?」
「あ、愛故に用がありまして!」
少女が声を張り上げた。やたらと意気込んでいるようだ。
しかし愛故に用? 愛しているから用があるって、それはもう告白と変わらないのでは?
いやいや、こんな告白があるか。何より【愛故に】という単語には覚えがある。
「えーっと、君もしかして請希高校の生徒?」
「はい。覚えてませんか? 入学式の前に一度話しました」
「え? あ」
思い出した。確か校門近くの道で一度顔を合わせた。
あの時は奈霧に復讐すること以外考えてなかったし、ちょっと可愛い程度の認識しかなかった。
別のクラスになって完全に他人と化したはずだけど、今さら俺に接触して何をしようというんだ。
考えて、体の内からぞわっとしたものが噴き上がる。心に深く刻まれた傷がうずいて否応なしに肌が粟立つ。
初対面も同然の相手に頼まれごとをされる。このシチュエーションには既視感がある。
逢魔ヶ時の公園に立つ二匹の悪魔が脳裏をよぎって、心臓がバクバクと脈を打つ。
落ち着け、悪魔は断罪した。一連の復讐劇はもう終わったんだ。
「あの、どうしました? 顔色悪いですけど」
「何でもない。じゃあな」
少女に背を向けて踏み出す。
愛故に用があると言ったんだ。どうせろくでもない要件に決まっている。至急的かつ速やかに立ち去るのが最適解だ。
「ちょ、ちょっと待ってください! 話があるって言ったじゃないですか!」
靴音が付いてきた。
構わず足を前に出す。
「急いでいるんだ。さようならまた学校で」
「少しで良いですから話を聞いてください! 愛故に!」
奥歯を食いしばる。
愛、愛。愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛!
もううんざりだ! どいつもこいつもロマンチストな単語を連呼しやがって!
見ろ! 周囲が俺達を見て温かい眼差しを送っている。完全にバカップルと勘違いされているじゃないか!
顔の火照りを無視して少女の目をにらみつけた。
「何度もその呼び名を連呼するな! 馬鹿なのか君は⁉」
「馬鹿じゃありません! 私はただ、愛故に――」
「ああもう分かった! 話は聞く! だから俺のことは市ヶ谷さんと呼べ!」
「さん付け強要なんですね」
「聞き飽きたんだよそれも! いいからついて来い!」
逃げるように駅から遠ざかる。
十分ほど走ってカフェを見つけた。振り向くと少女が息を荒くしてひざに手を置いている。
途中で千切ろうと思っていたけど、予想よりスピードが出てなかったようだ。俺もボランティアの帰りで疲れているのかもしれない。
カフェ店内に踏み入った。カウンターでツーショット入れたラテを注文し、チェアにドカッと腰を下ろす。
数分遅れて、大事そうに容器を持った少女が歩み寄った。指の隙間が果肉にまみれた紅い液体をのぞかせる。
「こういう所に来たのは初めてですけど、面白い飲み物がたくさんあって面白いですね!」
先程の苦しそうな表情はどこへやら、ドリンクに胸おどらせるさまは童女のようだ。
クラゲフロートではしゃぐ奈霧のあどけない笑みを思い出して、眼前の少女を視界の隅に追いやる。
「それで何の用だ? できれば手短にすませたいんだけど」
「では手短に。あなたの力を借りたいんです、愛故に」
「次愛を口にしたら帰るからな」
「何故そこで愛っ⁉」
椅子から腰を浮かせて靴先を店の外へ向ける。
歩を進めると背後から腕をつかまれた。
肉の重りを引きずって出口を目指す。
「冗談です! 冗談ですってば!」
「離してくれ。俺は愛を語る者を信じない」
「どんだけロンリーですか⁉ そんなだからミステリアスボーイって呼ばれるんですよ!」
初耳だ。
何だその異名は、最近は人に二つ名を付けるのが流行ってるのか?
しぶしぶ席に戻った。まとわりつく視線を一切合切無視して少女に向き直る。
一度行動に移したことで慎重になったのか、少女が真剣な面持ちで語り出した。
少女の名字は早乙女さん。何者かに脅迫じみたことをされて困っていた。カミソリの刃と脅迫文を入れた封筒を送りつけられて、状況を脱するために【愛故に】のネームバリューを欲したようだ。
身に覚えのある手法を聞かされて左胸の奧がキュッとする。
何という運命のめぐり合わせだ。手を汚した俺に、手口が類似した事件を解決しろというのか。神とやらが存在するなら、そいつは間違いなく邪神のたぐいだ。
「犯人に心当たりはないのか?」
「一応あります」
「疑う理由は?」
少女が視線を逸らす。
「えっと、その……振ったんです。男子を」
「……それだけ?」
うなずきが返ってきた。
奇妙な話だ。
振られた腹いせに嫌がらせをするなら分かる。その一環で脅迫行為におよぶ加害者もいるだろう。
だけど早乙女さんの返答が気になる。
振られ男が嫌がらせで文字を送るとすれば、その内容は腹いせか交際を強要するものになる。
自分が犯人ですと名乗りを上げるようなものだが、早乙女さんは一応心当たりがあると言った。
名乗りを上げた犯人に対して『一応』は付かない。
理由を語る前に間があったことも気になる。早乙女さんが俺に何かを隠しているのは明白だ。発言を鵜呑みにしない方がいいかもしれない。
「事情は分かった。それで、俺に探偵の真似事をしろって言うのか?」
「いえその、彼氏の振りをしてほしいなって」
最後の方は消え入るような声だった。恥じ入ったように白い頬が茜色を帯びる。
「彼氏か。なるほどな」
話が見えてきた。
【愛故に】はネタにされる一方で、大半の生徒に怖がられている存在だ。
下手につつこうものなら何をされるか分からない。周囲からはそんな風に認識されている。
そんな怖い男に彼女ができたらどうだろう。
その彼女に嫌がらせをしたい者にとって、俺の存在は目の上のたんこぶだ。早乙女さんを疎む行為と、俺から報復を受けるリスクを天秤にかけなければならない。
相手を保身に走らせて脅迫を止めさせる。早乙女さんの狙いは大方そんなところだろう。
確かに合理的ではある。一定の効果は見込めるかもしれない。
「少し考えさせてくれ」
冷たいとは思いながらもそう告げた。
俺に彼女はいない。早乙女さんは可愛い方だし、そういう関係になってみるのも悪くない。
割と本気でそう思うのに何かが引っかかる。魂が叫ぶような感覚に邪魔をされて素直にうなずくのは憚られる。
何より相手が止まる保証もない。逆上した相手に襲われるリスクもある。簡単に了承できるような話じゃない。
「そう、ですよね。急に彼氏の振りなんて言われても困りますよね。変なことを言ってごめんなさい」
早乙女さんが疲れたように笑う。
内容が内容だし、異常者の俺と二人きりになる恐れもあっただろう。
駅で呼びかけられた際のカチコチ具合からして、言葉を発するまでに相当勇気を振り絞ったはずだ。罪悪感が泉のごとく湧き上がる。
「ところで、市ヶ谷さんに聞いてみたいことがあったんです。お昼休みに放送した内容って本当にあったことなんですか?」
思わず顔をしかめかけた。
無神経だなと思ったけど、校舎内放送に声をのせたのは俺だ。自分で広めておいて、今さら話題に出すなと主張するのは道理が通らない。
「ああ。本当にあったことだよ」
平静に努めてストローを咥えた。苦さ増し増しの液体を口に流し込む。
これだ、これこそが現実の味だ。
沸き立った心をツンと来る苦みと冷たさでチューニングする。
早乙女さんがぱっと表情を輝かせて前のめりになった。
「それじゃあ、奈霧さんといちゃいちゃしてたっていうのも本当なんですか?」
喉に強烈なむず痒さを覚えた。
空気が胸の奧から逆流し、容器の白い蓋にラテカラーの水玉模様が付け足される。
一回、二回、三回。気管が収縮運動を繰り返す。
「だ、大丈夫ですか⁉」
右手をかざして、早乙女さんの接近を前もって阻止する。
今耳元で変なことをささやかれたら窒息する自信がある。介抱は断固阻止だ。
咳き込みから解放されて深呼吸した。ズボンのポケットからティッシュを取り出して水玉を拭き、愚痴ろうと思って顔を上げる。
早乙女さんが大真面目な顔で息を呑んだ。
「そこまで反応するなんて……お二人は一体、どれほどのいちゃいちゃを」
「してない! 何もしてないからな!」
とっさに声を抑えた自分を褒めてやりたい。
全部芳樹のおかげだ。一度は俺を二股あつかいした悪友だけど、おかげでこういう時の対処能力を養えた。あの天然ぶりには感謝しかない。
早乙女さんが目をぱちくりさせる。
「何もなかったんですか?」
「ああ」
「じゃあ愛故にの由来って何ですか?」
「知らないよ。無意味で無価値なものだから、分かったらもう忘れてくれ」
早乙女さんが身を引いて背もたれに体を預けた。
「現実ってつまらないものですね」
言葉に嘆息が混じった。
眼前の同学年も頭お花畑な手合いのようだ。
「あれから奈霧さんとはどうなったんですか?」
「振られたよ。もう赤の他人だ」
「そう、ですか。赤の他人なんですね」
早乙女さんがもじもじする。
心なしか、声色が微かに抑揚したように聞こえた。
「俺からも一つ聞きたいんだけど、どうして脅迫の件を教師に相談しないんだ?」
「それは、だって報復が怖いじゃないですか」
「怖いのは分かるけど、放っておいたらエスカレートする可能性もあるぞ? まだ耐えられる現状に甘えているだけじゃないか?」
「それは市ヶ谷さんが男の人だから言えるんですよ。私は格闘技を学んでません。暴力で来られたら抗うのは無理ですって」
「そりゃ抗うのは無理だろうけど、逃げるくらいなら――」
できる。
そう告げようとして、奈霧がストーカーの説得を試みていた場面を思い出す。
俺の体が動かなかったら、果たしてあの事件はどんな顛末を迎えただろうか。
想像して、ぶるっとした震えが体中を駆けめぐる。
平常時の奈霧なら逃げ切れる。昔から足は速かったし地の利は奈霧にあった。
でも恐怖に震えた体では本来のパフォーマンスを発揮できない。かなりの高確率で誰もが想像し得る最悪の展開になっていたはずだ。
気丈な奈霧でさえそうなる。男子に腕を振るわれて早乙女さんに抵抗できるはずもない。
「不用意なことを言った。謝る」
「分かってくれたならいいです」
早乙女さんは身動きが取れない状況にある。それは理解した。
でもやっぱり首を縦には触れない。
早乙女さんは何かを隠している。心も少なからず抵抗を覚えた。自分を納得させるには時間と裏取りが必要だ。
適度に雑談を交わして、その日は早乙女さんとカフェを後にした。