第188話 仲直り
このお話で6章は完結となります。
私はスリッパの裏で廊下の床を踏み鳴らす。
オートロックの音に遅れてお邪魔しますの声が上がった。私は霞を待たずリビングに戻ってソファーの上に腰を下ろす。
霞がリビングの入り口付近でたたずむ。
「座って」
霞が視界の中央に近付く。
正面のソファーに座るかと思いきや、私の左斜め前で膝を曲げた。
静寂が痛い。視線を左に振ることもためらわれる。
独り暮らしを経験したくてお屋敷を出たけれど、こんなことなら侍従を連れて来ればよかった。
「何か飲む?」
「紅茶がいいな」
「待ってて。今淹れて来るから」
独りになる機会を得て内心ほっと胸をなで下ろした。私はソファーから腰を浮かせてダイニングルームに足を運ぶ。
電気ケトルに水を入れてボタンを押す。いつものように茶葉の重量を測ってティーポット内で蒸らす。
ティーカップも用意してリビングに戻った。センターテーブルの上を紅茶セットで飾りつける。
「ありがとう」
遠慮がちな声色を耳にして胸の奥がチクッとする。
記憶にある「ありがとう」はもっと嬉しそうだった。聞いただけで心がふわっとして、口角も浮き上がるような甘さがあった。
なのに今は、まるで知らない大人の人を相手するみたいに縮こまっている。これじゃ私が霞を怯えさせてるみたい。
悪者みたいな立場にむっとして、その苛立ちがカフェでのやり取りを想起させる。
話すべきことが脳裏に浮かんですっと口が開いた。
「空っぽなのは霞だけじゃないかも」
「え?」
視線を感じる。
紫外線にも似た圧力を無視して言葉を続ける。
「市ヶ谷さんに指摘されたの。君はいつでも正しいんだなって。過ちを犯すのは人として成っていないから。全員が知性と理性を磨けば犯罪は起こらない。今までそう思ってた。ううん、今でもそう思ってる」
微かに息を呑む音が聞こえた。
霞は自らが犯した過ちについて語ったばかりだ。人として成っていない、知性と理性が磨かれていない。そう告げられたに等しい状況にある。
思うところはあるはずなのに静聴の姿勢は崩れない。
その様に内心感謝を捧げて言葉を紡ぐ。
「でも、私はあの時奈霧さんに謝れなかった。霞を非難して、自分が奈霧さんにしたことは見て見ぬ振りをしちゃった」
「それってカフェを出て行った時の話だよね。悪いのは嘘をついてた私でしょ?」
フォローの声を耳にして、首を縦に振りたい衝動に駆られる。
私は欲求に抗ってかぶりを振った。
「そうじゃないの。私には、霞に怒った後で勘違いを謝ることもできた。でもあの日の私にはそれができなかった。私は悪くないって、奈霧さんに怒鳴ったことを正当化する自分がいて、それがショックで、霞を必要以上に責めることで目を逸らそうとした。だからね、もし私が怒っているように見えるなら、それはあなたに対してじゃない。そこは勘違いしないで」
言った。私の過ちを、知り合いに。
霞の反応が怖い。眼前の小さな口が開いた次の瞬間には、嘲りの言葉が飛んでくるんじゃないか。そんな悪い想像が頭をもたげる。
霞もこんな恐怖を味わっていたのかな。
いや、霞が覚えた恐れはこんなものじゃないはずだ。
私は霞に尊敬の念を向けていた。
私も生徒会長として後輩に尊敬されてきたから分かる。期待を裏切りたくない、失望されたくない。そんな思いは力になる一方で自身を縛る拘束具にもなる。
私が炎上騒ぎの加害者を責めてなかったら、霞はいつか罪咎を告白してくれたのかな。私が自白の邪魔をしてしまったのかな。
そう考えると、これ以上霞を責める気にはなれない。
「じゃあ、もう私に対しては怒ってないの?」
「もちろん怒ってる」
霞が目をぱちくりさせた。
「あれ、でもさっきは怒ってないって言ったよ?」
「何を言ってるの、怒ってるに決まってるでしょ。どうして炎上するようなことを発信したの? 奈霧さんが庇ってくれたからいいものの、下手をすればキャリアに傷がつくところだったのよ。もっと他に手段あったでしょ」
「あれはその、止むに止まれぬ事情があったと言うか」
「言い訳しない!」
「はい、ごめんなさい」
霞が頭を下げた。上体が起こされた拍子に青い瞳と目が合う。
言いたいことを吐き出したおかげか、面と向かっても胸の内は騒めかない。
安堵のため息が口を突いた。
「何だか疲れちゃった。会話しただけなのに不思議」
「初めて喧嘩したからじゃない?」
「喧嘩?」
私は目をしばたかせる。
眼前で細い首が縦に振られた。
「うん。今まで私達が声を荒げてぶつかったことはなかったと思うの」
「声を荒げたのは私だけな気もするけれど、確かにそうね」
霞と顔を合わせて話す機会は限られていた。
共通の話題といえば服飾くらいだけれど、その服飾ですらジャンルが違う。語りは常に一方通行でぶつかる余地はなかった。
「そっか。私達、喧嘩したんだ」
胸の奥がじんわりと温かみを帯びる。
仲の良いお友達に考えをぶつける。青春小説やドラマでは定番の展開だ。初めて青春した相手が霞で嬉しい。
いや、それとは別に一回だけあったっけ。
初めての喧嘩を奪われた実感が湧いて、胸の奥でもやっとしたものが込み上げる。
「ねえ霞、市ヶ谷さんってどんな人?」
「すっごく優しい人だよ」
「優しい点は否定しないけれど、すっごくは付かないんじゃない?」
「そうかな。あ、でもこの前意地悪なこと言われた」
「霞も? 実は私も言われたの。遠回しにトゲのある言葉で叱られて、つい感情的になっちゃった」
「華乃井さんを感情的にさせるなんて、ユウは結構言うタイプだったんだね。お姉様にも毎日ひどいことしてるのかな」
それはない気がする。カフェでもすごく仲がよさそうに見えたし。
「霞は奈霧さんのことをお姉様って呼ぶよね。どうしてそんな呼び方をするの?」
「言わなきゃ駄目?」
「嫌なら強制はしないけれど。その、教えてくれたら都呼びに戻してもいい、よ?」
上目づかいで問いかける。
私から名前で呼んでと頼み込んだみたいで気恥ずかしい。
「じゃあいっか、言わなくて」
「もうっ!」
右腕を鞭のようにしならせる。
霞は苦笑しながら肩を叩かせてくれた。
「怒ってるのね、そうなんでしょう?」
「ジョークだって。都に怒られて、実はちょっと嬉しかったくらいだよ」
「霞もしかしてマゾなの?」
「ひどい誤解! 都がそんな言葉を覚えたって知ったら和成さん卒倒しちゃうよ」
「霞が変なこと言うからつい」
「だってお姉様は私を怒ってくれないんだもん。赦しの言葉をもらえて嬉しかったけど、何だか罪悪感が残っちゃって」
「なるほど。霞のお姉様呼びは奈霧さんへの嫌がらせなのね」
「違うよ⁉ 私そこまで悪い子じゃないよ!」
「今のはお返し。本気で思ってるわけじゃないから気にしないで。それで本当のところはどうなの?」
「あんなお姉ちゃんが欲しかったっていうのもあるけど、しいて言うなら自分を納得させるためかな」
「納得って?」
「私ね、ユウのことが好きだったの」
私は思わず息を呑む。
想像とは違った答えを耳にして、私は小さく頭を下げる。
「ごめんなさい、そんなセンシティブな理由があるとは知らなくて」
「いいよ別に。もう心の整理はついたし、奈霧さんなら仕方ないって思ってるから」
告げて微笑む霞の表情は、嫉妬にくるった人とは思えないほど晴れやかだ。
霞は恥知らずじゃない。SNSを炎上させた後は罪悪感を抱えて日々を過ごしたはずだ。
市ヶ谷さんに振られたあげく奈霧さんにも責められたらそのまま壊れてもおかしくなかった。霞をここまで立ち直らせたのは奈霧さんの優しさだ。
その優しさの一端には、あの意地悪な人が関わっている。
そう思うと少し悔しい。
「霞も奈霧さんも、あの人のどこがそんなに気に入ったの?」
「それはね―ー」
霞が市ヶ谷さんについて語り出す。
恋バナを仲直りの肴として、久しぶりに二人で談笑する。
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