第182話 写真
校内模試が近い。
大学受験に備えた本番形式の試験。ただ授業を学ぶだけでは足りない。問題集をやり込んで小難しい出題形式に目を慣らす必要がある。
勉学は質や量と言われる。
小説や漫画ではひらめきや頭脳だけで解く描写があると聞くが、それはもう学問の域だ。大学に進んで数学を知った者が踏み入る場所だ。
俺達は違う。
本を開けば正解がある、類似問題がある。
確実に点数を取れる手段があるんだ。頭を使うのは正解のない問題だけでいい。解のある問題とにらめっこするほど無駄なことはない。
奈霧とシャーペンの先端を走らせる。
静けさが気になってページから顔を上げると、奈霧がシャーペンを手放して何やら考え込んでいた。
奈霧の視線を追った先には服を模した絵。どう見ても問題の解答じゃない。
「奈霧?」
「何?」
「いや、問題を解いているように見えないから声をかけたんだ。デザイン描いてるのか?」
「え? あ」
真剣な表情がハッとして苦笑いを浮かべる。
「ちょっと休憩するか」
「私は大丈夫だよ?」
「全然集中できてないだろう。競争相手がいないと俺も張り合いがないからさ」
俺は問題集とノートを閉じた。
腰を浮かせて背筋を逸らす。
「ごめんね」
「いいよ。紅茶飲む?」
「うん」
ダイニングキッチンに踏み入って電気ケトルの湯量を確認する。
量は十分だ。ティーカップに熱湯を注ぎ、並行して別の作業を進める。
お盆にソーサーを敷いてティーカップを乗せた。ちょっとした菓子を添えてリビングに戻る。
整理されたセンターテーブルの上にお盆を置く。
「ありがとう」
「どういたしまして」
ソーサーの底でテーブルの天板をコトッと鳴らす。
ティーカップの取っ手を握ってフローラルな香りを鼻腔に通す。
「ファッションショーを見に行ってから浮かれてるよな。そんなに刺激的だったか?」
「うん。やっぱり他の人が仕立てた作品を見るのは楽しいよ。その手があったかってアイデアを見るとモチベーション上がるし、私もやらなきゃって気分になった」
「それを言ったら霞さんや華乃井さんだっているじゃないか。何で今まではそうならなかったんだ?」
霞さんと華乃井さんは年下ながら奈霧よりも先を行っている。二人から学べることはたくさんある。
奈霧が勉強中にデザインを描いたのは今日が初めてだ。二人との談笑はファッションショーよりも刺激が少なかったことになる。
「うーん、あの二人は私と立ってる場所が違うからなぁ」
「と言うと?」
「感情移入できないって言うのかな。年下なのに色んな実績があって、すごいなぁって尊敬してるんだけど、現実味がなくて逆に競争心が湧かないっていうか」
競争心は闘争心だ。相手に手が届くかもしれない、追い越せるかもしれない。そんな希望がないと抱くことすら叶わない。
霞さんと華乃井さんは年が近い人の中でも別格だ。
名だたる家の子女として生まれて、小さい頃から服飾に触れて生きてきた。
すでに賞も取って将来有望。実績が炎上で燃え尽きた奈霧からすれば遠い存在だろう。
「俺にも少しだけ分かる気がする」
「え?」
奈霧が目をぱちくりさせる。
俺は服飾に造詣がない。奈霧が戸惑うのは当たり前だ。
でも届かないと感じることは服飾だけじゃない。
屋敷で才覇さんや聡さんを前にした時だ。小ばかにしてくるような態度を前にして俺はむっとしなかった。
あの二人は俺よりも多くを持ち得ている。同じ男性でも何から何まで違う。
この人達には勝てない。本能的に感じ取って、俺は無意識に争う道を避けた。彼らと一悶着を経た現在でも、あの二人が頭を悩ませる光景は想像できない。
それでも同じ人間だ。時には悩んで間違える。
人は天に立てない。俺達の前に伸びる地面は彼らが立つ場所につながっている。今は背中が見えなくても追いつくのは不可能じゃない。
服飾の道だってそうだ。
奈霧の才覚は二人に届く。誰が何と言おうと俺はそう信じている。
紅茶と菓子で一服して勉強を再開する。
時間を見てチェアから腰を浮かせた。身支度を済ませて外気に身をさらし、アルバイト先のドアベルを鳴らす。
更衣室でシックな制服に身を包んだ。現場に出てコーヒーの香りに包まれる。
毎度のごとくがらんとしている。今日のシフトは俺一人だからなおさら静かだ。
単語帳のページに視線を走らせながら時の経過を待つ。
ドアベルを耳にして単語帳を畳んだ。ポケットに突っ込みながら顔に微笑を貼りつける。
「いらっしゃいませ……あれ」
入り口に見覚えのある少女が立っている。
華乃井さんと目が合った。
幼さの残る顔立ちが目を丸くする。
「市ヶ谷さん? どうしてここにいるんですか」
「バイトだよ」
「バイト?」
小首を傾げられた。
「もしかしてアルバイトを知らないのか?」
「はい」
言葉を失った。
大切に育てられているとは思っていたけど、まさかここまで箱入りだとは。
誰だって知らないものはある。俺はアルバイトの定義を教えて席に案内した。
「華乃井さんはこのカフェによく来るの?」
「いえ、ここに来たのは今日が初めてです」
「どうしてここに来ようと思ったんだ? めったにお客さん来ないのに」
「霞に指定されたんです。相談したいことがあったので話を持ちかけたら、おすすめのカフェがあるからそこで話そうって」
「マンションの部屋じゃ駄目だったのか?」
「私もそう思ったんですけど、どうしてもここが良いみたいです」
「じゃあ新メニューが目的かもな」
この前試食の体で店長にご馳走してもらった。
サクランボやメロンを押し出した色鮮やかなスイーツ。中々に美味だったのを覚えている。知り合いにも胸を張っておすすめできる品ばかりだ。
「もうっ。霞ったら、私はスイーツのついでなの?」
華乃井さんが小さく頬をふくらませる。
たった今いわれのない誤解が生まれた気がする。
まあ霞さんなら許してくれるか。あながち間違いとも言い切れないし。
「ちなみに相談したい内容って、俺に聞かれたくない話だったりする?」
「いえ、そんなことはありませんけれど。市ヶ谷さんも聞いてくれるんですか?」
「俺でよければ」
華乃井さんがパッと表情を明るくした。
「ありがとうございます。少し待っててくださいね、今スマートフォン出しますから」
華乃井さんが通学カバンに腕を差し入れる。
何だかんだで仲良くなったものだ。
顔を合わせた当初の華乃井さんは見るからに男性慣れしていなかった。同じマンションだと知ってどうなるかと思ったけど、気がつけば自然に言葉を交わせている。
思い返すと俺が伏倉の長男と知られてからだ。伏倉本家の長子と認識することで、俺を男性と認識せずに済んでいるのかもしれない。
繊細な指が画面をタップする。
「実は気になる写真を見つけたんですけれど、それが見覚えのある物なんですよ。どこで見たのか思い出せなくて」
細い手がスマートフォンを百八十度回転させる。
思わず息を呑みそうになった。
華乃井さんのスマートフォンには、奈霧が別アカウントで売り出しているハンドメイドの写真が貼り出されていた。




