第181話 正しさのリスク
怒声に意識を引かれて教室の外に視線を向ける。
「もめごとかな?」
「さあ」
いずれにせよ当事者が興奮しているのは間違いない。警備員がいるだろうし下手に関わらないのが賢明だ。
視界の隅で擦り音が鳴る。
振り向くと華乃井さんがチェアから腰を上げていた。
「私行ってきます」
「下手に近づくと危ないぞ? 口ぶりからして興奮しているし、最悪拳を振るってくるかもしれない」
「それでも放ってはおけません。周りの人も迷惑してますし、怒っている人も怒りたくて声を荒げてはいないと思うんです。こんな状況間違っています」
華乃井さんの表情は真剣そのもの。はきはきした物言いからは確固たる理念がうかがえる。
危うい在り方だ。
俺は言葉の通じない獣が存在することを知っている。相手がその類なら華乃井さんが言葉を尽くしても無意味だ。
とはいえ指摘しても華乃井さんは引かないだろう。
俺が自分の身で体験した。一時期は友人として過ごし、思いの丈をぶつけ合って、それでも平行線のまま終わった奴がいる。
自分を受け入れない世界なんて壊れてしまえ。
大半の人が一度は考えて引っ込めるであろう思想を、何のためらいもなくまき散らす。社会には、そんな人型をしているだけのバケモノが紛れ込んでいる。
華乃井さんの周りにそういう類はいなかったのだろう。
格式高く、色恋沙汰が起こりにくい男子禁制の女子校。不埒な輩は大人や取り巻きが勝手に遠ざけてくれる。
まさに純粋培養のお嬢様。人は分かり合えると信じているから迷わない。
喧噪が収まるまでの時間稼ぎに詭弁を垂れ流すか、華乃井さんに同行してフォローするか。
思考をめぐらせた末にチェアから腰を浮かせた。
時間を稼ぐ手は無難だけど、後々華乃井さんとの間にわだかまりが残りそうだ。同じマンションで過ごすことを考えると気が重い。
「俺も行く。みんなはここで待っててくれ」
「危なくなったらすぐに逃げてね」
「分かってる。あの時みたいな無茶はしないよ」
奈霧に微笑みかけて店内を後にする。
喧噪の中心はすぐに分かった。一組の男女がにらみ合っている。
俺は華乃井さんの後ろに続いて二人に接触した。華乃井さんが覇気のある声を張り上げて、廊下に飛び交う幾多もの視線をかき集める。
遅れてきた友人を列に入れた女性に、それを咎めた男性。華乃井さんが二人の間に入って言葉を並べる。
年下らしからぬはきはきした物言いに、感情に振り回されていた人たちが呑まれていく。
伊達に良質な教養を積んでいないようだ。当事者の怒りに寄り添いつつも理路整然と述べる様は頼りがいを感じさせる。
生徒会長として活動した経験が活かされているのだろうか。この堂々とした佇まいは見習うべき点だ。
喧騒が落ち着いて、俺は華乃井さんと元来た廊下を戻る。
「すごいな。本当に場を収められるとは思ってなかったよ」
「言い争いなら何度か仲裁した経験がありますから」
華乃井さんが小さく笑う。
あどけなさの残る笑顔には微かな安堵と疲労が見て取れる。率先した介入とは裏腹に緊張していたらしい。
「仲裁って言うと生徒会長時代にか?」
「はい。部の活動場所の取り合いや日常的トラブルがあった際には仲裁を頼まれまして」
「物腰が柔和だから頼みやすかったんだろうな」
「私そんなほわわんとしてますか?」
「少なくとも第一印象はな。どうして争いの場に踏み込もうと思ったんだ?」
「周りのお客さんが迷惑するのと、やっぱりそれが正しいことだと思ったからです」
「正しいことだからあの二人も分かってくれると思ったわけか」
「はい。実際分かってくれてよかったです」
朗らかな笑顔が視界を華やがせる。
晴れ晴れとした笑顔。自身の価値観に絶対の自信を持っていることがうかがえる。
正しさは癖になる。悪人を成敗すれば喝采を受けるし、存在を肯定される感覚は気分を高揚させる。
それだけに正義をかざす人間は自分を疑わないといけない。正論マウントや正義マンという蔑称が正しさの危険性を物語っている。
俺も一度は酔った。
復讐するは我にありと、義憤に身を委ねた末路に罪咎を背負った。
世の中には取り返しがつかないこともある。正義を妄信したあげく悪に堕ちたなんて笑い話にもならない。事が起こる前に彼女自身が気づいてくれればいいけど。
「惜しむらくは霞が席を空けていたことですね。霞がいたら私よりも早く仲裁に向かったはずなのに。見たかったなぁ霞の勇姿」
俺の心配は何のその。華乃井さんがもしもの想像に目を輝かせる。
修学旅行の晩に父さんが告げていたことを思い出す。
憧れが力になるのは分かる。目標があれば辛いことにも挑めるし、人生を豊かにするのは間違いない。
その憧れに齟齬が生じた時、正しさを妄信する華乃井さんはどうするんだろう。
願わくばそんな日は来ませんように。奈霧のいるテーブルに戻りながら祈りを奉げる。




