第177話 早朝のジョギング
転居して初めての朝を迎えた。
垂れ下がる布をつまんで右に払った。蛇の威嚇じみた音に遅れて視界が開ける。
タワーマンションと聞けば眺めの良い印象が強いけど、この寝室の見下ろし具合はそこそこだ。
眺めのいい高層は家賃が高い。
奈霧は勲さんにべったり甘えられるタイプじゃない。俺は低層階を選んだ奈霧に部屋の階層を合わせた。
窓から差し込む日光を浴びながらジャージに腕を通す。
洗面所での身支度をすませて水分とドライフルーツを口に含んだ。玄関を後にしてがらんとした廊下を歩む。
エレベーターの慣性を靴裏で受け止める。
エントランスを突っ切って外に出た。早朝の新鮮な空気で肺をふくらませる。
いざジョギング。
足を前に出そうとしたタイミングで美麗な後ろ姿を見つけた。
「おはよう」
ランニングウェア姿が身をひるがえす。
「おはよう釉くん」
桜色の口元が上がる。
その動きに比例して気分がふわっと浮き上がる。
平日の教室で見てきたものが、住まいを近づけたことで数時間早く見れる。
修学旅行の時はあまり気にならなかったけど、生活感のある空間で早朝から顔を合わせるとこそばゆい。世の中の新婚さんは毎日こんな気分を味わっているのだろうか。
奈霧と肩を並べてマンション前を後にする。
「釉くんは毎朝走ってるの?」
「ああ。体育祭の前からまた走り始めたんだ。思ったより気持ちよかったから続けてる」
「朝走ると清々しい気分になるもんね」
「そうだな」
手足を動かすだけでも心地良い。会話のない時間が苦にならない。
互いの靴音だけが聴覚を刺激する。世界に二人きりで取り残されたみたいだ。
悪くない気分にひたっていると見覚えのある人影が映る。
気分がガクッと下がった。
対照的にマッチョマンが口角を上げる。
「よおボウズ。おはよう」
「おはようございます井ノ原さん」
俺は歩きに移行する。
距離が縮まる途中で鋭い目つきがスライドした。
「奈霧さん、だよな? 羽桐の元ネタになった」
「演劇のヒロインについての話ならそうですね。私を知っているんですか?」
「そりゃ知ってるさ。あの演劇は本当に色んな意味でインパクトがあったからな。名乗りが遅れた、俺は井ノ原龍治。探偵さ」
マッチョがニヤッと不敵に笑む。
おい、何で今格好つけた。某小学生じゃないんだぞ成年男性。
奈霧も自己紹介を口にした。
「知り合いに同じ名字のクラスメイトがいるんですけど、もしかしてご家族の方ですか?」
「ああ。井ノ原さやかは長女だ」
巨漢が俺との距離をずいっと詰めてきた。抑えられた声が鼓膜をくすぐる。
「何でこんな朝っぱらから肩並べて走ってんだ?」
「想像にお任せします」
「分かったぞ! さてはお前ら、ついに――」
「それ以上言ったら発言を一字一句娘さんに伝えますよ?」
「やめろ! 思春期の娘を持つ父親の大変さを知らんのかお前!」
「あいにく未婚な身の上なので」
二人きりの時間を邪魔されたのは不服だけど面白い反応を見られた。機会があったら勲さんで試してみようか。
でもあの人は隙がなさそうだし、セクハラ発言を暴発することはなさそうだ。酒が入った時以外では。
嘆息が空気を揺らす。
「可愛くねぇなぁ。秀正の奴は百合江さんのことでからかうたびに赤面してたってのに」
「それは可哀想ですね。やり返さないとですよね、長男として」
「おいマジやめろ!」
「あの、さっきから何を話してるんですか?」
龍治さんが離れた。
「いや個人的な話だ。そうだ名刺! 持っておいてくれ、じゃあな!」
奈霧に名刺を手渡すなり井ノ原さんが小走りで去った。
……逃げたな。
「どうしたんだろう」
「さあ?」
視線が泳ぐ。
仕方ないんだ。あの流れでセクハラ発言をされたら空気が悪くなる。
俺は良いことをした。父の仇を取ったんだ。
改めてランニングを再開する。
「あの人すごい筋肉だったね。見せ筋って言うんだっけ」
「ああ、確かにすごいけどあの人探偵なんだよな。存在感出しすぎなのはどうかと思うけど」
「着痩せに見せる術を心得てるんじゃない?」
「かもしれないな」
心得ているからと言って実行するとは限らない。
父の依頼で俺のことを観察していた時は、ワイルド感マシマシの皮ジャンを身にまとっていた。サングラスにニット帽も組み合わされば役満だ。何をどうやっても目を引く。
「釉くんってああいうのに憧れたりする? シックスパックとか」
「憧れはあるけど龍治さんのレベルを目指そうとは思わないな」
あまり知られていないことだけど誰しも腹筋は割れている。
脂肪で見えないだけだ。筋力トレーニングをしなくとも断食するだけで自然と割れた腹筋が浮き上がる。
だからこそ腹筋を割るには何よりも食事制限が重要だ。
脂肪の摂取なんてもってのほか。卵の白身やサラダチキンなど徹底した管理が必要になる。
俺はそこまでの情熱を筋肉相手に向けられない。体形を維持しつつ美味しい物を食べて生きていきたい。
「良かった。目指そうと思ってたらどうしようかと思った」
「女性ってああいうのに憧れるんじゃないのか?」
「多少はね。でもあれだけムキムキになっちゃうと、屋上や空港で抱きしめられた時の感触から遠のいちゃうでしょ? 個人的にはちょっと寂しいかな」
思わず息が詰まった。
抱きしめられた感触って、急に何を言い出すんだ。
「前々から思ってたけど、奈霧ってたまにとんでもないこと言うよな」
「そうかな。例えば?」
「……俺に太もも見られて嬉しかった、とか」
気恥ずかしくなって視線が逸れる。
ひゅっと空気を吸う音が聞こえた。
「悪意! その覚え方悪意あるって!」
「そうか?」
「そうだよ! なに、太ももを見られて嬉しいって。私は異性として意識されたことが嬉しかったって言ったの!」
「そうだったっけ」
そう言われるとそんな気がしてくる。照れ隠しに告げた言葉がそういうニュアンスを帯びていたような。
赤くなった顔が目を細めた。
「そうだよ。まったく、普段からえっちなことを考えてるから記憶が捏造されたんじゃないの」
「なっ⁉ ち、違う!」
「どうだか。空港で人目も気にせず抱きしめてきたくせに」
「それを言ったら君だって人前でキスしてきたじゃないか! この前は口付けをねだってたし」
「ねだってない! そう、あれはくちびるを奪われたの。私はちゃんとケーキ食べたいって言いました。無理やりキスされたから私は応じてあげただけ」
「首に腕を回してきたくせに」
「頬に手を添えたくせに」
終わったことの発端をすりつけ合って帰路に就く。
居心地の悪い沈黙を経てそびえ立つマンションが見えた。
隣を走る体が前に出る。
何となく走るペースを上げて追い越した。
「どうしたの? 急に走るペースを上げて」
「何となく。そういう奈霧もペース上がってるぞ?」
「私はシャワーを浴びたいだけだよ」
「奇遇だな。俺もだ」
徐々にスピードを上げる。
最後の方は全力疾走した。