第175話 不法侵入
同学年とは羽田空港で解散した。
俺は歩き慣れた道をたどって、久しぶりに自宅の玄関に踏み入った。
シャワーを浴びて、夕食を腹に収めて、その日はおとなしく床に就いた。
迎えた土曜日。俺は一年以上住んだ部屋を引き払った。霞さんや白鷺さんと一緒にコンクリートの地面を踏み鳴らして、天を衝かんと伸びる白い建物をあおぐ。
俺達の新たな居住先。
枠組みは同じマンションなのに、まるで自分が資産家の一員と化したような錯覚を受ける。
セキュリティを突破してコンシェルジュにあいさつした。新たな居住先の掃除を済ませて、訪れた引っ越し業者を部屋に迎え入れる。
午後からは奈霧を迎えることになっている。俺は速やかに三人分の配置を済ませた。
人気のなくなった室内で段ボールのふたを開けた。先日収めた物を持ち出して棚や床の上を飾る。
高い家賃はフィルターだ。高偏差値の学校に不良が少ないように、高い家賃は礼節を知らない者を振り落とす。
代わりに住む階層の高さでマウントを取る住人が湧くみたいだけど、暴力を振りかざす輩と比べれば動物のようで可愛げがある。
だからなのだろう。奈霧が一人暮らしをするにあたって、勲さんから物件の条件が出された。
それが中々に厳しい。今まで奈霧が物件を見つけられなかったのも頷ける内容だった。
勲さんの気持ちは分からなくもない。
校内でのストーカー事件や佐郷の奸計は、いずれも奈霧へ向けた恋愛感情の暴走で引き起こされた。
社会に出る以上は男性との交流を避けられない。
奈霧は人目を惹く。そういった感情を抱く人はこの先も湧くはずだ。無理目な物件条件の提示は、大事な一人娘を自宅から出さないための方便に違いない。
そういう意味でこのタワマンは条件が合致している。セキュリティはしっかりしているし、困った時は俺やコンシェルジュがいる。
家賃を下げすぎると住人に反発されるから限度はあるけど、低層階だから価格は抑えられる。後は奈霧が部屋を気に入るかどうかだ。
自然と気合が入る。
設備の紹介はどこを回るべきか、何を話そうか。日用品を部屋に配置しつつ思考をめぐらせる。
面白い感触を得て視線を手元に落とす。
思わず目を丸くした。
「これはまた」
眼前まで持ち上げた拍子に黒い長髪が垂れ下がる。
それはウィッグだ。
体育祭で特定されまいと被った代物。これのおかげで、あの時あの場所で踊った女子が俺だと知る者は少ない。
一部では愛遊絵仁が現れたなんてうわさが流れているものの、どうせ二度とかぶらないんだ。俺から注目を逸らせるなら都合が良い。
「ほんと、よくこんなのかぶって人前に出たなぁ」
黒い長髪を後ろへ流して、奈霧の制服を身にまとって日の下で踊った。今思い出すと自分の大胆さにびっくりだ。
そうだ、これで奈霧を驚かせてやろう。
ウィッグを頭に載せて洗面所の鏡とにらめっこする。
意外と似合っている。
モデルみたいというのは自画自賛か。身に付けている衣服を女性ものにすれば形になりそうだ。
女性ものに持ち合わせはない。せめてすらっとしたボトムはないかとリビングに戻る。
カチャっと軽快な音が鳴った。廊下から小さな人影が現れる。
思考が停止した。視界内で少女も目を丸くする。
既知の相手だ。
由緒正しい華乃井家の長女にして、霞さんと同じデザイナーの卵。ついでに言うなら生徒会長の経験者。
沖縄では話を聞いてみたいとは思ったけど、華乃井さんには男性を苦手とする節がある。
不法侵入されたのが俺の方とは言え、いかにも優等生風な少女が叫べば誰だって勘違いする。
まずい。
そう思った刹那、艶のある黒髪が垂れた。
「ごめんなさい! 部屋を間違えたみたいです、すぐ出ていきますから!」
急に頭を下げられて意表を突かれた。
「部屋、近いの?」
「はい。おそらく一つか二つ上の階層だと思います。ぼーっとしてるとたまにやっちゃって」
「不法侵入を?」
「い、いえっ! いつもは鍵が開かないからすぐに気付くんですが、今回はすんなり入れたもので、そのまま……」
幼さの残る顔立ちがうつむく。
部屋を間違えた恥ずかしさゆえか、透き通るような頬が熟れたりんごのごとく赤みを帯びる。
ふと気付いた。
華乃井さんとまともに会話できている。
かつて顔を合わせた時は、そこはかとなく会話を敬遠されたこの俺が。
もしや、ばれてない? 俺があの時居合わせた男性だと気付いていない?
凄い。俺の女装はそのレベルで完璧なのか。
ならば。
「もし良かったらお茶でも飲んでいきませんか?」
にこっと顔に微笑を貼り付けた。声のトーンも上げて女性的な人を演出する。
これはチャンスだ。華乃井さんは俺が欲しい情報を持っている。
この機会を逃したらまともに会話できなくなる。言葉を交わせる今の内に聞き出しておかないと。
「ご迷惑じゃありませんか?」
「暇していたので大丈夫ですよ。ちょうど良い茶葉があるんです。お茶の淹れ方を練習してる最中なので感想を聞かせてください」
「そうですか? ではご馳走になりますね」
あどけない笑みが室内を華やがせた。純粋な少女を騙した背徳感が泉のごとく湧き上がる。
不法侵入されたのは俺なんだ。
何も悪くない、お駄賃代わりに生徒会の話を聞くだけだ。
自分に言い聞かせてダイニングルームにスリッパの先端を向ける。
父に飲ませた玉露がまだ残っている。覚えた手順をこなして室内に豊かな香りを充満させる。
祖父から送られた羊羹もお盆に載せてリビングに戻った。
センターテーブルの天板に茶托を敷き、その上に茶碗を載せた。薄緑色の液体を注いでリビングにも茶の芳香を漂わせる。
「良い香りですね。玉露ですか?」
「ええ、奮発して購入したんです。口に合えばいいのですが」
二人で茶碗に腕を伸ばした。互いに同じ味をたしなんでから口を開く。
既知の名前をさも初めて耳にしたように自己紹介を交わした。
「華乃井都さんですね。もしかして白鷺アンナさんと知り合いじゃありませんか?」
「ええ、アンナとは親交があります。学校は違うんですが、時々お茶をたしなむ仲なんですよ」
「そうでしたか。白鷺さんから耳にしたのですが、華乃井さんは生徒会長をしていた時期があるのだとか」
「確かに生徒会長を務めさせていただきました。懐かしいですね。他の役員も優秀な生徒ばかりで良い経験になりました」
あどけない顔がにこっと笑む。
当時のことを思い返しての表情。さぞ良い思い出が詰め込まれているに違いない。
俺も生徒会に入ったらそんな思い出を作れるだろうか。
玉露を飲み干して、華奢な体が腰を浮かせた。
「そろそろおいとましますね、お茶ご馳走様でした、美味しかったです」
「ありがとう。今度は友人に振舞おうと思います」
玄関まで見送って、小さな背中が玄関のドアの向こう側に消える。
口から安堵のため息がこぼれた。強烈な達成感があふれ出て口元が緩む。うっかりすると叫んでしまいそうだ。
やり遂げた。俺の女装は女性相手にも通用する。
何がそんなに誇らしいのか自分でも分からないけど、この特技がいつか役立つかもしれない。手札の一枚として覚えておこう。
俺はお盆を持ってダイニングキッチンに戻った。茶碗を回収して食洗器にセットする。
充実したひと時に想いを馳せていると電子音が響き渡った。
「華乃井さんか?」
忘れ物でもしたんだろうか。
俺はリビングに備え付けられたモニターの前で足を止めた。表示された映像の中で栗色の瞳が見開かれる。
時が止まった。
そう形容するのがふさわしい。互いに目を見合わせて微動だにできない。
華乃井さん相手とは事情が違う。奈霧は体育祭で今の俺の顔を見ている。
会いに来たら彼氏が女装をしていた。このシチュエーションに奈霧はどう思うだろう。
焦燥が言葉となって口を突いた。
「違うんだ、これはその……違う」
「履かなくなったパンツがあるんだけど、履く?」
「よおしそこで待ってろ、至急的かつ速やかに急行するから!」
俺はかぶり物を脱ぎ捨てて廊下に出た。