第170話 上級者
水着を脱水機に掛けて私服を身にまとう。
その足で無料シャトルバスに乗って温泉施設に足を運んだ。冷えた体を湯で温めて、ぽかぽかした体で部屋に戻った。その日は発表の準備を進めて床に就いた。
四日目の朝食を腹に収めてチェックアウトした。今帰仁城跡を通り過ぎて、古宇利島にある天然ビーチのハートロックを拝む。
ハート形の岩が海面の上に鎮座している。
どうやったらあんな形に削ぎ落されるんだろう。自然の神秘だ。
「可愛い形してるよねーっ」
弾むような声色に遅れて振り向くと、金瀬さんがお尻の辺りで両手を組んでいた。
「可愛いか? 岩だからゴツゴツしてるぞ」
「えー可愛くなーい? 海に浮いてるみたいでキュートだよ、可愛いよ」
「そういうものか」
まあ、岩塊から削り出したような形状よりは可愛い、のか?
「ところで昨晩のプールはどうだった?」
思わず息を呑む。
怒っている風には見えない。俺は自然に努めて口を開く。
「奈霧に聞いたのか?」
「ううん、勘。お風呂にしては長すぎだし、尾形に聞いたら市ヶ谷さんも戻るの遅かったって聞いたから。その分だと当たりみたいだね」
「隠してたわけじゃないけど、不快にさせたなら謝るよ」
恋人と友人。奈霧と金瀬さんの間には大きな差がある。
それでも金瀬さんは、いまだ俺に好意を向けてくれている。密会じみた真似をされては面白くないだろう。
「勘違いさせたならごめんね? わたし別に怒ってないの。そんな資格ないのは分かってるし、二人がラブラブなのは知ってるから」
「その言い方は恥ずかしいからやめてくれ」
「あははっ、有紀羽にも同じこと言われたよ。やっぱり似た者同士だね」
小気味いい笑い声が波の音に混じる。
ひときしり笑って、金瀬さんがふっと微笑む。
「二人、きりだね」
「意味深に言うのやめてくれない? 勘違いするから」
「勘違いじゃないのにー」
白い頬が小さく膨らむ。
俺だって丸っきり冗談とは思っていない。勘違いじゃないと分かっているから困るんだ。
「また奈霧に怒られるぞ?」
「それもいいかも」
幼さの残る顔立ちがにこっと笑む。
俺は思わず目を瞬かせる。
「金瀬さんってやっぱりマゾだろう」
「違うよ⁉ 市ヶ谷さんまでそんなこと言わないで!」
「だって怒られたいんだろう? 奈霧に」
「違うよ! ぜんっぜん違う! わたしは怒ってる奈霧さんが見たいんだよ」
「ごめん、上級者すぎて何言ってるか分からない」
小首を傾げられた。
心外だ。これじゃ俺がおかしいみたいじゃないか。
「Mじゃないなら説明してくれ」
「強いて言うならギャップだよねーやっぱり。普段はキビキビとしてて格好良いのに、市ヶ谷さんの前だと可愛くなるんだもん。ついおちょくりたくなっちゃう」
「ああ、それなら分かる」
「でしょ⁉ 時々くらっとすることがあってさ、たまに抱きしめたくなっちゃうんだよねー」
小さな笑みを交わして、金瀬さんの顔から微笑が抜ける。
「市ヶ谷さんは、奈霧さんから卒業後の話聞いてる?」
「聞いたよ。留学の話だろう?」
大きな目が微かに丸みを帯びた。
「知ってたんだ」
「ああ。羽田空港を発つ前に聞いたよ」
「そっか。すごいよね、卒業後を見据えて動く生徒は珍しくもないけど、有紀羽には市ヶ谷さんがいるのに」
「海外に出たって関係が切れるわけじゃないさ」
「そうだけど、小学生からの想いが成就してまだ一年も経ってないんだよ? 決める際には相当葛藤したに違いないよ。わたしだったらどうしてただろうって、昨日からずっと考えてるの」
「どうして比べる必要があるんだよ? 奈霧は奈霧、金瀬さんは金瀬さんじゃないか」
生きてきた環境や価値観が違う。積み上げてきたものもバラバラだ。決起や転機のタイミングなんて人それぞれだろう。
「市ヶ谷さんの言いたいことは分かるよ? でも進路が似てるから、どうしても比べちゃうんだよね」
「金瀬さんも服飾を学びに行くのか?」
金瀬さんがかぶりを振る。
「ううん、服じゃなくてコスメの方。わたし、化粧品業界に入りたいなぁって思ってたの。そのための勉強はしてきたつもりだけど、有紀羽を見てると覚悟の差が伝わってきて、今まで何やってたんだろうって考えちゃうんだよね」
「それを言ったら、俺なんか進路も決まってないぞ」
「市ヶ谷さんの境遇で決まってたら逆にすごいと思うけどなー。わたしは考える時間があったけど、市ヶ谷さんにはそんな時間無かったでしょ?」
「不登校にならなかったら進路が決まってたなんて保証はないよ。コスメに興味を持って勉強したのも、進路を定めたのも金瀬さんだ。もっと胸を張れよ」
金瀬さんが大きな目をぱちくりさせる。
数拍置いて、花開いたような笑みが視界を華やがせた。
「うん。わたし頑張ってみるね。いつか奈霧さんが有名になっても、胸を張って友達だって言えるように」
「ああ。金瀬さんならできるさ」
大勢から敬遠される環境でも笑顔を忘れず、恋破れてもこうして前を向いている。ちょっとやそっとの壁は口角を上げて乗り越えていくに違いない。
「ほんとお似合いの二人だなぁ。返しまで一緒なんだもん、通じ合ってて羨ましーっ」
「なんだ、奈霧にも同じこと話したのか?」
「うん、なぐさめられちゃった。感極まって抱き着いちゃったよー。やわらかかった」
「最後のいる? てかもう抱き着いてたのかよ。たまに抱きしめたくなるとか言っておいて」
てへっ、と金瀬さんが悪戯っぽく片目を閉じる。
霞さんを泣き止ませる抱擁とは違う。同い年の女子が、歓喜の情に突き動かされて体と体をくっつけ合う。
奈霧はさぞ動揺したに違いない。現場を見れなかったのが残念だ。
「大事にしてあげてね。奈霧さんのこと」
おどけた表情から一転。静謐とした微笑みに見据えられる。
「ああ。もちろんだ」
残り一年ちょっと。奈霧と大事な思い出を作っていきたい。とっくに決めていたことだ。
「おーい何話してるんだー?」
視線を振ると芳樹達が歩み寄ってきた。
「内緒だよーっ」
芳樹の隣で尾形さんこと隼人が口角を上げる。
「さてはあれだな、密会だろ」
「違うよー。尾形ったら恋愛脳なんだからー」
「だったら何話してたんだよ?」
「奈霧さんについてお話してたの」
「私?」
目を丸くする奈霧をよそに金瀬さんが靴裏を浮かせる。
「そ。その反応がキュートだよねーってお話っ!」
「きゃっ⁉」
華奢な体と豊満なスタイルが交わる。
からからと笑う周囲をよそに、俺は紅潮する恋人の顔を眺める。
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