第164話 名前
バーベキューを堪能してバスに乗り込んだ。
移動中は静かなものだった。分泌されたセロトニンに負けて、まぶたを下ろした人影が車内を飾り付けた。
バスに揺られること数十分。窓越しに白い大きな建物が見えてきた。後方へ流れる景色が輪郭を取り戻して背中が背もたれに押し付けられる。
外の地面に靴裏を付けた。南国風の景色を後方へ流してエントランスに雪崩れ込む。案内係と挨拶を交わしてトンネルのような廊下の床を踏み鳴らす。
左方の壁には沖縄に関連する写真が一列に並び、向かいには動画が投影されている。中々にSFチックなこの廊下はトンネルギャラリーと言うらしい。写真や映像に飾り付けられた様相が画廊のようで言い得て妙だ。
視界を飾る研究成果を尻目にエレベーターに乗り込んだ。靴裏で慣性を受け止めつつ外の景観を眺める。
木々が織り成す緑の絨毯に、清々しい海の青。境界線を担うオレンジの屋根を見ていると、ここが異国の地だと錯覚しそうになる。
上方向の慣性から解放されて、吹き抜ける風を浴びながら廊下を進む。
屋上庭園を飾る池のせせらぎが心地良い。蒼穹の下に点在するチェアには蓋つきのコップを傾ける人影が見られる。世界から一流の研究者が集まると聞いていたけど国際的な大学院大学の名に嘘偽りはないようだ。
センター棟と研究棟を連結するスカイウォークで写真を撮って、再び廊下の床に靴裏をつける。
図書館やラボなどの設備を一通り見て回った。カフェテリアに集まって質問タイムに洒落込み、間食を挟みながら教授の話に耳を傾ける。
質疑応答の時間が設けられた。
修学旅行と謳ってはいるものの、この沖縄巡りには研修旅行の側面もある。
俺は積極的に手を挙げた。今のところ進路は決めてないけど、何が決めるきっかけになるか分からない。選択肢を広げるためにも視野を広げたかった。
ちょっとしたオープンキャンパス気分を楽しんでバスに乗り込む。
次の宿泊先はドンと鎮座する白いホテルだった。陸に乗り上げた豪華客船のようで高級感が漂っている。
エントランスから外に視線を向けると、エメラルドグリーンの海が広がっている。遥か遠方に見える伊江島が孤島のようだ。さながら柱や天井は額縁。一枚の絵画めいていて写真に収めたい衝動に駆られる。
入館式を終えて部屋に足を運ぶ。
廊下を飾る窓ガラスからでも海が見える。海をこれでもかと押し出した作りは沖縄ならではだろう。
カードキーで解錠してドアを開ける。木製のドアを開けて進むと、やはり鮮やかな青い海が映った。手前にはバルコニー。翌日の朝も尾形さんが早朝の空気に浸っていそうだ。
用意されてあるスリッパに足を挿し入れる。晩御飯までフリーだ。
俺はホテル散策するべく廊下に出る。芳樹と佐田さんは居残りだ。頭を使いすぎて一休みしたいらしい。
尾形さんと二人で廊下の床を踏み鳴らす。
金髪の同級生が自動販売機の前に立っていた。
「こんばんは金瀬さん」
「あ、市ヶ谷さんだ!」
あどけなさの残る顔立ちがぱっと華やぐ。歩み寄る同級生の両手にはジュースの缶が握られている。
「それ金瀬さん一人で飲むのか?」
「違うよ。じゃんけんに負けちゃったの」
「パシりってことか?」
「そ。有紀羽も含めた三人でジュースを賭けてじゃんけんしたの。それで見事に負けちゃったってわけ」
いつの間にか奈霧を名前呼びしている。修学旅行で仲を深めたようだ。
「もしかしてさやかの提案か?」
尾形さんの問い掛けに、金瀬さんが細い首を縦に振る。
「正解! 部屋に戻る途中に買えばよかったのに、部屋に戻ってからすぐに言い出したんだよ? 考え無しにも程があるよねー!」
柔らかそうな頬が不満げにぷくーっと膨らむ。愛嬌が垣間見えて、本気で怒っているようには見えない。
「パシられた割に嬉しそうだな」
「そう見える? えへへ、実はちょっと嬉しいんだ。昔に戻ったみたいでわくわくしてるの!」
「あいつわけの分からないこと提案するの得意だったもんな」
「そうそう! 愉快なこと考えるの上手かったよね! 今日はどんなこと考えるのかな? 楽しみ~~っ!」
金瀬さんがにこっと笑む。純粋な歓喜が垣間見えて口元が緩む。
隣で尾形さんが小さく笑った。
「パシらされて喜ぶとか、ナナって実はM?」
大きな目が丸みを帯びた。
「尾形ひどい! 市ヶ谷さんが誤解したらどうするの⁉」
「Sよりは喜ばれるんじゃね?」
「ほんと? 市ヶ谷さん喜ぶ?」
「喜ばない。変なこと広めないでくれ」
というか変わり身が早すぎる。好意を向けられて悪い気分はしないけど、奈霧が悪い方向に勘違いしそうなことは自重してほしい。
「ジュースぬるくなっちゃうから、わたしもう行くね」
「ああ。二人によろしく伝えておいてくれ」
華奢な背中を見送って靴裏を浮かせる。
「市ヶ谷、バーベキューの時にさやかと話してたよな。あの時に何か言ったのか?」
「ああ。少しだけな」
「そうか。ありがとう、また市ヶ谷の世話になっちまったな」
「礼なんていいさ、大したことはしてないんだから」
「大したことだって。当事者の俺達が何言っても気を遣われてるって妄信してたからな。部外者がガツンと言ってやる必要があったんだ」
「ガツンとって、まるで俺が怒鳴ったみたいだな」
「でも説教はしたんだろ?」
「説教と言うか忠告だな。一年生の頃の俺と井ノ原さんが重なって、見ていられなかったんだ」
「確か以前も似たようなことあったよな。林間学校のボランティアで小学生男子相手に青春したんだっけ」
「何で尾形さんがそれを知ってるんだ?」
「ナナから聞いた」
思わずげんなりした。
金瀬さんに悪意がないことはあの純粋な笑顔を見れば分かる。俺が見せたあの痴態は彼女にとって美談でしかないのだろう。こんなことなら口止めしておけばよかった。
いっそ今からでも追い掛けるべきか? でも金瀬さんが奈霧と交流してから大分時間が経っている。さすがに遅すぎるか。
尾形さんが苦々しく口角を上げた。
「そんなに嫌そうな顔するなって。ナナは格好良かったって言ってたぞ?」
「俺にとっては無様そのものだったんだよ」
「何で? 格好良いじゃん。他人に失敗してほしくないから隠しておきたかった失敗を暴露するなんてさ。しかも相手は反抗期真っ盛りの小学生男子だぜ? 茶化されるって思うだろ普通。俺だったら絶対やらなかった」
だから市ヶ谷だったのかなぁ。そんな呟きが廊下の空気に溶ける。
俺は聞かなかったことにして散歩を続ける。
あらかた探検し終えて引き返した。途中自動販売機を見つけて財布を取り出し、芳樹と佐田さんの分も飲み物を購入して自室に戻った。
ジュースを渡すなりお金を差し出されたけど断った。
尾形さんが器用に片手でプルタブを引き上げる。
「ところでさ、俺達いつまでさん付けすんの?」
「いきなりだな」
「いきなりでもないだろ。ナナは奈霧さんのこと名前で呼んでたし。市ヶ谷だって加藤のこと芳樹って呼んでるじゃん」
「ほんとだ!」
「何がほんとだ! だよ。自分でそう呼べって言ったんじゃないか。人を二股野郎呼ばわりしたあげくにさ」
「マジで? 芳樹最低じゃん」
「濡れ衣! でも俺だけ名前で呼ばれるのは確かに不自然だよな」
「分かった。これからは加藤さんって呼ぶよ」
「そっち⁉ 距離が遠ざかったみたいで俺嫌なんだけど! じゃあ俺は釉って呼ぼ!」
「じゃあって何だよ」
「You、寝るまで暇だしトランプやらないかい?」
「いいなそれ、俺はYouの提案に乗ろう。釉はどう思う?」
「もう言いたいだけだろそれ」
苦笑に次いで胸の奥がほのかに熱を帯びる。
奈霧と親族以外に名前を呼ばれる機会はなかった。友人に名前を呼ばれるのは中々どうしてこそばゆいものだ。
「釉、耳たぶ赤いぞ」
「よし、Youのために買ってきたジュースを賭けて大富豪やるぞ」
「え~~っ⁉
え~~っ⁉」
芳樹と佐田さんの抗議が重なった。有無を言わさずトランプのカードを配ってゲームを始める。
大富豪になってジュースを押収し、一人で飲み切れないのを理由にして再分配した。感謝の言葉を耳にしながら勝利の美酒に酔う。