第159話 溺愛されてるんだね
修学旅行当日の朝を迎えた。早朝のルーティンを済ませてキャリーケースと共に自宅を後にする。
静音キャスターの音を耳にしつつ澄んだ空気を突っ切った。バスの車両内に靴裏をつけて、慣性に揺られながら当分見納めになる景色をまぶたの裏に焼きつける。
炭酸が抜けたような音を耳にして外気に身をさらした。羽田空港内部に靴音を鳴り響かせて通路の隅で待機する。
視界内に私服姿の同級生が散在する。
散らばっていた人影にまとまりが生じてグループが形成される。
非日常感が薄れた光景に飽きてスマートフォンの画面とにらめっこする。
「釉くん、おはよう」
喧噪を物ともせず通った声を耳にした。
自然と口角が浮き上がって顔を上げる。
「おはよう奈霧」
華奢なパンツルックが歩み寄る。
デートの時とは違う、動きやすさに重きを置いたコーデだ。
シュッとしまったパンツルックも悪くない。奈霧はスタイルが良いから見栄えする。
彼氏としては通行人の視線が気になるけど、その一方で誇らしくもある。
「珠湖さんのマンションはどうだった?」
「凄く大きくて綺麗だったよ」
「タワーマンションってこと?」
「ああ。中にはカフェやレストランもあって設備が充実してるんだ」
「そうなんだ。珠湖さんってお金持ちなんだね」
「そうみたいだな。部屋代かなり高いみたいだし」
じゃあ無理か。そんな言葉が喧噪に溶けた。
「無理って何が?」
聞き流しても良かった。小さく呟いたくらいだし、俺に聞かせる意図はなかったことがうかがえる。
それでも呟く表情が微かに物憂げで、聞かなかった振りをすることは憚られた。
奈霧が観念したように口を開いた。
「年明けから一人暮らしの物件を探してるの。両親に負担をかけたくないからそこそこの所を探してるんだけど、お父さんから出された条件をクリアする物件が見つからなくて」
「条件ってどんな?」
桃色のくちびるが条件を挙げた。「そりゃ無駄だな」という言葉が俺の口を突く。
勲さんが出した条件はおおまかに三つだ。
建物が徒歩移動で自宅まで戻れる距離にあること。
知り合いが近くに住んでいること。
そしてコンシェルジュ含めたガッチガチのセキュリティが備え付けられていること。
奈霧が予算を気にする限り、勲さんが出した条件を満たすのは不可能に近い。自宅から出ることは許さんと通告されたようなものだ。
「勲さんは奈霧が心配なんだな」
気持ちは分かる。
奈霧は一年前ストーカーに襲われた。バスケ部の風間や佐郷にも狙われた。トラブル体質な俺と交際していることからも男運に欠けているのは明らかだ。フォローできる人を用意するに越したことはない。
「にしても話がよく分からないな。あんな良い両親がいるのに自宅を出るメリットないだろう」
クリスマスに奈霧宅を訪れた身としては、何一つ不自由のない家族に映った。
校舎が遠いならまだしも請希高校は十分通える距離だ。あの家を離れる理由に欠ける。
肯定のうなずきが続いた。
「確かにメリットはないけど、もう少ししたら受験勉強に本腰を入れなきゃいけないでしょ? 余裕がある今の内に一人暮らしの経験を積んでおきたいんだよ」
「東京を出るつもりなのか?」
「うん。私ね、高校を卒業したら留学しようと思ってるの」
「留学?」
問い返して、脳裏に一つの可能性が浮かび上がる。
「もしかして服飾のためか?」
「うん。デザインに海外のモチーフを使ったことがあるんだけど、ネットで調べるだけじゃピンと来ないことも多くてさ。国外の人がどんな場所で、どんな価値観を持って生きているのか、実際に肌で感じてみたいんだ」
そういうことなら俺にも分かる。
俺も短期留学した時は苦労した。言語が通じないのもさることながら、慣れない環境での一人暮らしは気をもむ。事前に予行練習しておくだけでも大分違うはずだ。
でも俺に留学の予定は無い。奈霧が留学したらしばらく会えなくなる。
数日どころの話じゃない。おそらくは数か月単位だ。直接顔を合わせる機会は長期休暇中に限られる。
俺がそれを伝えても、きっと奈霧は止まらない。真っ直ぐ未来を見据えて前に進む。そういう人だから俺は好意を持った。
引き止めることは、俺の好きな奈霧を否定することと同義。眼前の幼馴染に惚れた時点でこうなることは確定していたのだろう。
寂寥感がチクリと胸を刺す。
同時に一つの案が浮かび上がった。
彼氏として奈霧の背中を押す。そのためにできることが、今の俺にはある。
「お金なら大丈夫だよ。部屋代は俺の裁量で決められるから」
奈霧が目を丸くした。
「そんなことできるの?」
「ああ。部屋代下げて友人とわちゃわちゃする許可を得てるからな。さすがに低層階の部屋に限られるけど」
タワーマンションは高層階に住まうことにプライドを持つ人もいると聞く。奈霧が転居してもトラブルが起こっては本末転倒だ。
「あれって冗談じゃなかったんだ。釉くん、溺愛されてるんだね」
端正な顔立ちに苦々しい笑みが貼り付く。
孫として愛されている自覚はあるものの、奈霧が想像したものとは意味合いが違う。
祖母は母の死を止められなかった。そのことで俺に対して負い目を感じている。おそらく祖母として孫にできることをしたいんだ。
俺が彼氏として奈霧の夢を応援したいように。
「修学旅行が終わったら見学してみないか? きっと気に入ってくれると思う」
「じゃあお言葉に甘えようかな。仮に移住したら毎日釉くんと通学路を歩けるんだね。楽しみだなぁ」
「ああ、俺も楽しみだ」
後一年ちょっとで俺達は離れ離れになる。恋人関係がどうなるかは分からないけど、少なくとも今までのようにはいられない。
顔を合わせて談笑できる時間は限られる。少しでも長く一緒にいたい。
自宅を出てすぐに顔を見れるならそれ以上の喜びはない。
「市ヶ谷さん、奈霧さん、おはよーっ!」
振り向いた先で満面の笑みが視界内を華やがせた。金瀬さんの横にはいつもの面々が並んでいる。
暗い話はここまで。俺は奈霧と朝のあいさつを口にした。