第157話 マンション見学
玄関に休日の外気を迎え入れた。体を早朝の空気に晒して通路を踏み鳴らす。
ドアをノックして数秒。軽快な音に遅れて後輩の二人が顔を覗かせた。ドアの施錠を済ませた二人とエスカレーターに足を踏み入れる。
「どんなマンションか楽しみだね!」
視界の隅で金色の髪が跳ねる。
マンションの見学には霞さんと白鷺さんも同行する。見学予定のマンションには霞さんの友人が居住している。久しぶりの談笑に想いを馳せているようだ。
祖母は霞さんの訪問を了承した。声色は歓喜の色で抑揚していたし、伏倉の全員が霞さんを疎んでいるわけではないのだろう。
コンクリートの地面を踏み鳴らした末に、天を衝かんとばかりにそびえ立つ建物が映った。
「あれってタワーマンションだよな?」
ガラスがずらっと張り巡らされた外観。蒼穹を背景に清潔感のある建物が鎮座するさまは、さながら人工の富士山だ。
最近は投資先としての魅力が失われたと聞くけど、俺の中ではいまだにお金持ちの象徴だ。柔和な雰囲気を漂わせる祖母でも伏倉の一員ということか。
左右に退いた自動ドアの隙間に足を挿し入れた。集合玄関機を介して伏倉さんと言葉を交わし、オートロックを突破してエントランスの床に靴裏を付ける。
コンシェルジュの男性に会釈してソファーに腰掛ける。
霞さん達と談笑すること数分。エレベーターの扉が開いて見覚えのある女性が現れた。
軽く挨拶を交わしてエレベーターに乗り込んだ。突き上げるような慣性を靴裏で受け止めて、上昇する視点からキノコの群生じみたビルを楽しむ。
「一月の誕生日会は屋敷に行ったのよね。意地悪されなかった? 主に才覇に」
「少しばかり激励の言葉をいただきました」
「庇わなくていいのよ? ごめんなさいね。あの子は認めた相手以外を気遣うのが不得手だから」
霞さんと白鷺さんが苦々しく口角を上げる。
チンと間抜けな音が鳴り響いた。ぞろぞろとエレベーター内部から足を出して廊下に靴音を鳴り響かせる。
適度に談笑を挟みつつ併設された共有施設を歩いて回った。
霞さんや白鷺さんとカフェ前で分かれた。祖母の部屋にお邪魔して仕事の話に移る。
茶とともにテーブルの天板を鳴らしたのは書類。管理人を務めた経験あってのことか、繋がりのある業者がリストアップされていた。
これなら学校に通いながら管理人としても活動できそうだ。住人とのコミュニケーションは避けられないけど、それは社会経験と捉えよう。
祖母からUSBメモリを受け取った。別れのあいさつを交わして伏倉さんの部屋を後にする。
カフェに足を運ぶと、金銀の美貌に同席する人影があった。
二人と同年代だろうか、肩の辺りで切り揃えられた黒髪が愉快気に揺れる。品を帯びた所作で笑む横顔はまさに深窓の令嬢だ。この世の穢れを知らなそうな出で立ちに庇護欲をそそられる。
漂う紅茶とスイーツの甘美な芳香。男子禁制といった雰囲気を目の当たりにして足を止める。
声を掛けるべきか逡巡していると知り合いの青い瞳が振られた。
「ユウ、もう用事終わったの?」
「ああ。話は着いたよ」
二人から視線を外す。
視線が交差するなり柔和な表情が強張った。
「えっと……霞、その男性は知り合い?」
「そうだよ。元々ここに用事があったのはユウなの。良い機会だから同行させてもらったんだ」
「そう、なんだ」
横目を振られて視線を外される。
何というか、察するものがあった。
「俺、外で待っていようか?」
「ううん、大丈夫。ねえ都、ユウは良い人なの。この際だから協力してもらおうよ」
「えっ⁉」
都なる少女が目を見開く。
対する顔には自信にあふれた笑みが浮かんだ。
「大丈夫。ユウは優しいから、不快な思いをさせたって襲い掛かりはしないよ」
「でも……」
「ユウ、ちょっと来て」
霞さんに手招きされて、俺は黒髪の少女に視線を向ける。
目が合う様子はない。突っ立っているわけにもいかず、バツの悪さを押し殺して靴裏を浮かせる。
霞さんが黒髪の少女に向けて腕を伸ばした。
「ユウ、紹介するね。私の友達の都。少しでいいから都と会話してくれない?」
「迷惑でしたらすぐ帰りますから、いつでも言ってくださいね?」
問い掛け混じりの上目遣いを向けられる。
口調はお願い形式だけど、少女の目は断ってくださいと告げている。
「大丈夫だよ。用はもう済んでるから」
俺は顔に微笑を貼り付けて椅子を引く。
あどけなさの残る顔色は変わらない。男性が苦手な一方でトラウマってほどじゃないと見受けられる。
それなら座す一択だ。ここで逃げても今までの繰り返しが待っている。多少荒療治をした方がこの子のためになるだろう。
チェアに腰を下ろす。
「あっ」と悲鳴じみた声は聞かなかったことにして自己紹介を済ませた。
「自己紹介ありがとうございます、華乃井都です。霞とアンナにはいつもお世話になっています」
華奢な体が縮こまる。
軽度でも恐怖は恐怖。そう簡単に打ち解けてはもらえない。この分だと会話を振ってもはい、そうですかくらいの反応で済まされそうだ。
まずは華乃井さんから喋らせよう。
俺が知らなくて、華乃井さんが知っていそうなことと言えば。
「俺がいない間、霞さん達と何を話していたんだ?」
「あまり愉快な話ではありませんよ?」
「それでもいいよ。差し支えなければ聞かせてくれ」
「分かりました。市ヶ谷さんは、近頃話題になった盗作の話を知っていますか?」
盗作。聞き覚えのあるワードだ。視線をずらした先で霞さんが微かに表情を強張らせる。
俺は華乃井さんに視線を戻した。
「盗作ってハンドメイドの話か?」
「知っていましたか。実は、話題になったデザイン画は霞の物なんです」
知っている。
あえて顔には出さない。霞さんの表情を見るに、まだ真実を告げていないことは明らかだ。
「霞は凄いんですよ。私と同い年なのにいくつも賞を取って多くの人から期待されているんです。なのにハンドメイドを売っていた方はデザインを盗んだだけでなく、さも自分が発案者のように振舞ったんです。許せませんよね」
形の良い眉が逆ハの字を描く。
愛嬌のある表情だけど、声色からは憤りが強く伝わってくる。友達想いの子なのだろう。
「あのね、都」
ためらいがちな声が意識を引いた。
霞さんが目を伏せる。膝の上で小さな指が小躍りした。
「なに? 霞」
「あの、えっと、あれは……」
青い瞳が右往左往する。
華乃井さんから注がれるのは、親愛がこれでもかと詰まった視線。霞さんのことは微塵も疑っていない様子だ。
奈霧は霞さんを赦した。霞さんの仕業と公表しなかったし、むしろ暴露しなくていいと言葉にして伝えた。だったら俺がすべきは静観だ。
言葉無き時間が続いて、華乃井さんが小首を傾げる。
白鷺さんがティーカップの底でソーサーを鳴らした。
「都、時間は大丈夫?」
「え? あ、もうこんな時間! ごめんね霞。私これから用事があるから、また今度お話聞かせてね」
「あ、うん。今日はお話してくれてありがとう」
「私も楽しかった。また会おうね霞、アンナ」
「うん。またね」
失礼しますと言葉を残して、華乃井さんが小走りでカウンターへ向かった。
「ユウ、どうして黙ってたの?」
問い掛けを受けて向き直る。
俺を見る霞さんの目はどこか恨みがましく映った。
「背中を押してもらいたかったか?」
「それは……」
霞さんが口をつぐんで俯く。
俺は小さく嘆息した。
「理由としては、奈霧が暴露しなくていいって言ったからだよ。行き過ぎた自罰はただの自己満足だ。俺の口から明かすべきじゃない」
「でもお姉様は悪くない。悪いのは私なんだよ?」
「だったら自分の口で言えばそう良かったじゃないか」
「釉さん意地悪ですね」
言葉で非難しながらも、白鷺さんの口元は意地悪気に吊り上がっている。
俺は口角を上げて応じた。
「そうだよ、俺は意地悪なんだ。だから言うけどあの件で悪いのは霞さんだし、華乃井さんに告げるべきなのも君だ。罪悪感と向き合うのは加害者の責務なんだよ。第三者に甘えるな」
「別に甘えてなんかないもん」
霞さんが拗ねたようにくちびるを尖らせる。
冗談だとおどけてあげたいけど、それをしても霞さんのためにはならない。
俺は青い瞳を見据えて言葉を続けた。
「さっきも言ったけど決めるのは霞さんだ。隠しても責めはしないし、打ち明けるにしても今日明日の必要はない。ゆっくり考えればいいさ」
「……うん」
小さな顔がこくっと揺れる。
二人がスイーツを腹に収めるまで、俺は二人と談笑を交わした。