第154話 お姉様
後輩の小さな体が恋人の胸元に飛び込む。
端正な顔立ちが苦々しく笑った。
「霞さん。その、他の人がいる前でお姉様はやめてほしいなーって」
「迷惑ですか?」
ハの字を描く柳眉を前に、奈霧が言葉を詰まらせた。
「えっと、ほら! 私と霞さんは血が繋がってないし、周りの人が怪訝に思っちゃうよ。ひそひそ話されたら霞さんも恥ずかしいでしょ?」
「それなら大丈夫です! 私は気にしませんから!」
「私が気にするんだけどっ⁉」
張り上げられた声が、がらんとした店内を駆け巡る。
奈霧が霞さんを赦してからというもの、霞さんは奈霧に対して少し変わった呼び掛けをするようになった。
奈霧はさりげなく呼び方の修正を勧めているけど効果は全く見られない。呼称の常用と霞さんの人気も相まって、一年生女子の間ではあらぬ誤解が広まりつつある。
奈霧が心底嫌がっているなら俺が止めるところだけど、強い言葉で制止したことは一度もない。初めて先輩呼びされた時は子供みたいにはしゃいでいたし、慕われること自体は満更でもないのだろう。あるいは、市ヶ谷の女というどこか生々しい異名を上書きする意図があるのか。
じゃれ合う二人をよそに、もう一人の客が近くのチェアに腰を下ろす。
「霞さん、見ない間に懐いたよな」
「霞には両親がいませんから甘える対象が欲しかったんでしょう」
白い手がメニューブックを手に取る。
騒動が落ち着いたことで霞さんと白鷺さんも仲直りをした。
二人が喧嘩した原因は、霞さんが奈霧への粗相を謝らなかったことだ。奈霧と霞さんが和解した今、二人の間にわだかまりはない。これまで通り仲睦まじくやっているようだ。
「白鷺さんには甘えないのか?」
「私はあくまで運命共同体ですから。不貞の子って意味じゃ少し下ですね」
「そうか」
俺はそっと視線を逸らす。
明るみにはなっていないけど、霞さんは伏倉優峯の婚約者と聡さんの子だ。伏倉家元次男の血を継いでいるかどうかでも遮光的な立場に差が生じる。
わざわざ口にすることじゃない。この情報は墓場まで持って行く。聡さんを赦した時点でそう決めている。
「逆に白鷺さんは誰かに甘えないのか?」
白い美貌がメニューブックから視線を上げた。
「お義兄さんって呼んでほしいんですか? 嫌ですよ、そういうプレイは奈霧さんにお願いしてください」
「誤解を招きそうなこと言うなよ。あと奈霧は年上な」
頼めば奈霧ならやってくれそうだけど、俺はそういうのがやりたいわけじゃない。というか何だプレイって。
くすっとした笑い声が空気を震わせた。
俺は小さくため息を突く。
「ほんと、俺達も仲良くなったよな」
「そうですね」
「皮肉だからな?」
「知ってます」
ひときしり苦笑して、蒼穹のごとき瞳から視線を外す。
霞さんの体が奈霧から離れた。
「ところでお姉様。被服部には入らないんですか?」
「うん。自分の意思で退部したから戻りにくいし、このタイミングで戻ったら霞さん目当てみたいじゃない」
「つまり、周りの目があるからバツが悪いってことですね?」
「そうなるね」
「だったら大丈夫です。あの指導員は辞めましたから」
「え?」
奈霧の口から戸惑いの声がこぼれた。不穏な言葉を耳にして、俺も目をぱちくりさせる。
「えっと、経緯を聞いてもいい?」
「もちろんです! 入部して思ったんですけど、あの指導員って積極的に教えるタイプじゃなかったんですよ。言ってしまえば小遣い稼ぎで教えるタイプ。他の部員もレベルが低いし、活動に向かない空気だったんです」
「あの霞さん。まさかとは思うけど、やっちゃいけないことはしてないよね?」
あどけなさの残る顔立ちがむっとした。
「心外です。あの人がお金欲しさに指導員をしていると思ったから、堂々とお小遣いを渡して辞めてもらっただけです」
「それ堂々って言うのかなぁ」
苦笑が店内の空気を震わせる。
俺はこのまま聞いていいのだろうか。不安になってきた。
「そういうわけで、被服部の指導員には知り合いを招きました。実績や指導の経験もある方ですし、何より服飾仲間の紹介です。さあ、これでお姉様が被服部に戻らない理由はありませんよね?」
霞さんの服飾仲間ということは、服飾には相応に造詣のある人物なのだろう。そんな人からの紹介となれば指導の質も保証される。俺が聞く分には悪くない話だ。
「ちなみに、他の部員はどうしてるの?」
「半分以上辞めました。指導についてこれなかったみたいです」
「そっか。なら私は止めておこうかな」
「どうしてですか⁉」
霞さんが目を見開く。俺からしても少し意外な返答だった。
青色の瞳が重力に引かれたように下がる。
「もしかして、誕生日に私が口走ったことを気にしているんですか?」
霞さんの表情に陰りが差して、奈霧が慌てて両手をかざした。
「違うよ! あの件については気にしてないって。私の技術が未熟だったことは理解してるから。霞さんが招いたくらいだし、その指導員は良質なデザインをたくさん見てきたはず。そんな人に霞さんと比べられるって考えたらさ、ちょっと臆病になっちゃうんだよ」
霞さんは一連の騒動について頭を下げたものの、誕生日会で粗末呼ばわりしたことは撤回していない。
奈霧が青春を賭けているように、霞さんも長い年月を服飾に捧げている。先達として、あるいは本気で打ち込んでいる者への礼儀として気休めの言葉を吐けないのだろう。
数秒の沈黙を経て青い瞳が奈霧を仰いだ。
「分かりました。そこまで言うなら今日は引きますね」
「諦めないんだね」
端正な顔に先程とは違う意味での苦笑が貼り付く。
視界の隅ですらっとした腕が上がった。
「このケーキお願いします。あとドリンクは紅茶を」
「あ! アンナだけずるい!」
「会話終わらなそうだから先に食べようと思って」
「もう終わったもん! 私も選ぶ!」
霞さんが白鷺さんの隣の席に腰を下ろした。開かれたメニューブックのページを視線でなぞり、人差し指の先端で料理の写真を指し示す。
俺は料理名を読み上げてオーダーを取った。