第153話 バイト
香ばしい匂い漂う空間に食器の音が鳴り響いた。白と暗褐色に彩られたシックな内装に靴音が伝播する。
カウンターテーブルの上で赤いペン先が紙の上を走る。サッサッと軽快に引かれた線が上着の輪郭を形作る。
小さな髪束がちょこんと揺れた。
「奈霧さん絵上手だねーっ!。これが本物の服になるの?」
「そうですよー」
俺も波杉先輩の隣に付いて、奈霧のデザイン画に視線を落とす。
チョコケーキをドレスに下ろしたようなデザインだ。ファッションショーでライトを浴びる衣服は奇抜な物が多いと聞くけど、やっぱりそういうのじゃないと注目されないんだろうか。
聞けば、この前はゴミ袋を羽織った男性がランウェイを歩いたという。途中で警備員にどこかへ連れて行かれたけど、観客は本物のモデルと思い込んで喝采したそうだ。
日常生活において不潔とされる物が歓声を受けた。まるで現代アートの父、マルセル・デュシャンの泉を思わせる反応だ。服飾業界の価値観が破壊される日もそう遠くないかもしれない。
「もう二枚目を仕上げたのか。早いな」
「今日は集中できてるからね。お客さん来ないし」
「静かでいいでしょー。ここ穴場なんだぜい」
小さな顔にあどけない笑みが浮かぶ。身なりは黒と白で統一されて大人びているのに、容姿と高い声のせいでコスプレにしか見えない。
俺たちはカフェでアルバイトをしている。
少し前まで、奈霧はハンドメイドを売ってお金を稼いでいた。アルバイトに費やす時間を服飾に捧げたいからと、手作りの品を手放す決意をしてマーケットに出していた。
評価は高かった。生地を買って、作って、出品してお金に返る。そのサイクルが成立するくらいには売れていた。
今はサイクルを繰り返すことも叶わない。低評価爆撃を受けてサイトの評価が陰り、新たな売り手どころか懇意にしていた客も離れた。たまに入る収入は微々たるものだ。
奈霧がアルバイトをすると聞いて、俺も個人的に条件の良い働き先を探した。ふと視界に先輩方が映って声を掛けたところ、波杉先輩がバイト先を紹介して今に至る。
「喜ばしいのは分かるけど、客がいないのを喜ばれると店長としては複雑だなぁ」
紳士風の男性が苦々しく口角を上げた。日本人に見えるけど顔の彫りは深めで、髭が良い具合にダンディな雰囲気を醸し出している。
それだけなら洒落たカフェとして人気を博したかもしれない。
「店長の頭がそんなだから客が敬遠してるんじゃね?」
波杉先輩が店長の頭を仰ぐ。
金とまではいかないまでも、店長の髪は日本人らしからぬ明るさを帯びている。ナイトクラブのライトをモチーフにしたようなカラーリングだ。軽い雰囲気もあいまってちょっと怖い。波杉先輩の紹介でもなければここで働くのを一考したに違いない。
ごつごつした腕が明るい色合いの髪を撫で付ける。
「何言ってんのさ、お洒落でしょこの髪」
「お洒落だけどシックじゃないよ。パンクだよ」
「女の子には分からないよなぁー。市ヶ谷さんはどう思う?」
「はい、凄くパンクです」
即答した。それに関しては疑いようもない。
店長が肩をすくめた。
「まあ若者には分からないかぁ」
「そうやって色々切り捨てるから過疎ってんじゃね?」
「若者を切り捨てたことはないよ。ほら、何だっけ? あの黒豆みたいなやつメニューに入ってるでしょ?」
「タピオカって結構前に流行終わりましたよね」
店長がキザったらしく人差し指を振って舌を鳴らした。
「甘いね市ヶ谷さん、タピオカミルクティーよりも甘い。流行は一定の期間ごとに移り変わるのさ。ボクの読みが正しければそろそろ来るよ」
「それ流行の周回遅れって言うのでは?」
「時代を先取りするんだよ。現に、タピオカは数年ごとに流行ったとデータがある。いっそ今の内に仕入れておくか。目指せ都内で最もナウいカフェ!」
「その言葉選びがすでにナウくないよ。あんたミスターオールドだよ」
「波杉ちゃんって純粋無垢に見えて結構言うよねぇ」
同感だ。初めて放送部の部室で対面した時は無垢な女児に見えたのを覚えている。
年月を積んだ幼子。そんなイメージはとっくに塗り替えられた。頭より体が動くタイプに見える一方で、他者をおもんばかる優しさも持ち合わせている。
きっと遠回しに止めようとしているんだ。タピオカの流行が来る可能性も否定はできないけど、それは数年後かもしれない。素材の消費期限が過ぎた分だけ赤字が膨らむ。カフェ経営がただの趣味でなければもっと強い言葉で止めていただろう。
あどけない顔が自慢げに口角を上げた。
「そう褒めるな褒めるな。照れちまうぜ」
「褒めてないんだけどねぇ。でも感謝はしてるよ。今こそ客いないけど、君達を雇ってから少しずつ人増えてるんだ。やっぱ可愛い女の子がいると映えるよなぁ。イケメンもいるし」
「お世辞を言ってもタダ働きしませんよ?」
「人聞き悪いな、ちゃんと給料は払うって。小母さま方から人気あるんだよ君? もう皆ここに就職しちゃいなよ」
「それは無理ですー」
「ごめんなさい」
「二人に同じく」
「うん、知ってた」
繊細な手がパッパとペンと紙を隠した。奈霧が椅子から腰を浮かせて口角を上げる。
鈴の音が鳴り響いた。四人揃っていらっしゃいませを口にして客を歓迎する。
「お姉様!」
少女の靴裏がせわしなく床を踏み鳴らした。