第151話 ごめんなさい
「どうしよう、釉に嫌われちゃう……」
思考がまとまらない。焦燥に頭の中を埋め尽くされて、思考がわーっとなっている。
「そうだ!」
思い至ってポケットからスカートフォンを引き抜いた。
私が思考できないなら誰かに考えてもらえばいい。電源ボタンをプッシュして液晶画面のタップを繰り返し、SNSに電子的な文字を書き込んでダイレクトメッセージを送る。
あの人の返信はいつも早い。すぐにこの状況に適した答えをくれるはずだ。
「……どうして!? 何で送信できないの⁉」
いつも一分以内に返信をくれるのに! スマートフォンに張り付いてるんじゃないの⁉ 私の信者なんでしょ⁉ こういう時に役に立たずに、一体いつ役に立つって言うの⁉
早く、早くしないとユウが行っちゃう!
唯一心を許せる人だったのに! 私の分身に等しいアンナを除いて、替えの効かない信用できる人だったのに!
「何で、何で、何でッ!」
苛立ち混じりの呟きに靴音が混じった。ハッとして液晶画面から顔を上げる。
正面に恋敵の顔が映った。
「奈霧、さん」
視線を合わせていられず目を伏せる。
……待って、これは謝るチャンスだ。
そうだよ! 他に人影はないし、この人は一時的にユウを奪ったことを除けば良い人だ。
謝罪されたことを伏せるような意地悪はしないはず。この人から謝られたことを伝えてもらえばユウも許してくれるに違いない。
「あの、その、私」
言葉がうまくまとまらない。
早く謝らなきゃいけないのに、もどかしい。
「いいよ言わなくて。私、ちょっと意地悪しに来たから」
「え?」
呆気にとられる。
意地悪? 奈霧さんが、私に?
「霞さん、釉くんに振られたんだね」
目を見張って息を呑む。
何で知ってるの? 私がユウに振られたことを。
まさか。
「見てた、の?」
「ううん、さっき釉くんとすれ違った時に聞いたの。縒りを戻さないかって誘われちゃった」
意図せず口元に力が入った。
頭の中から謝罪する予定が抜け落ちる。腹の底から湧き上がる沸々《ふつふつ》が喉を這い上がって口を突いた。
「何それ、嫌味?」
「私は本当のことを言っただけだけど?」
「それが嫌味って言ってるの! 何なの? 私を笑いに来たの?」
「そうじゃないよ。可哀想だから慰めてあげようと思って」
両手の指がぎゅっと丸まった。
慰める? 私を?
むかつく。ユウに振られて捨てられた子犬みたいになってたくせに、そんな人が私を見下すって言うの?
むかつく、むかつくむかつくむかつくッ!
「そうだ、ずっと聞きたかったことがあるの。私のハンドメイドと霞さんのデザインが類似してるって話は知ってる?」
「知ってる。それが何?」
「私何も考えずに弁解しちゃったんだよね。霞さんに迷惑掛かってない?」
「迷惑って、何言ってんの?」
この期に及んで私の心配? どういうつもりなの。
まさかユウへの点数稼ぎ?
そんなことさせない。だってユウは私のだもん。敵に塩を送るような真似、絶対にしてあげないんだから。
私の決意をよそに嫌な女が言葉を続ける。
「ほら、私のハンドメイド出品の方が日付早いじゃない? それを知って思ったの。私のデザインが凄いからつい真似ちゃったんだろうなって」
「は?」
真似る?
私が、この私が、好きで奈霧さんのハンドメイドをパクったって言ったの? こんな嫌味で無名のメイカーの作品を?
言葉の意味を咀嚼して、口から変な笑いがもれた。
「何言ってんの? そんなわけないじゃん。どうしていくつも賞を取ってるこの私が素人の作品をパクらなきゃいけないわけ?」
「でも誕生日会で私のハンドメイドを酷評したよね?」
「それが何よ」
「あれってカモフラージュだったんでしょう? こき下ろしておけば、そんな人の作品を真似するわけないって固定観念を植え付けられるし」
「滅茶苦茶言わないで。あんた、自分で何言ってるのか分かってんの?」
「分かってるよ。大丈夫、私はもう気にしてないから安心して。嬉しいなーあの霞さんにデザインを認められたなんて。あ、デザインはたまたま被ったことにしてあげるから、霞さんもあんまり気にしなくていいよ」
ぐっと奥歯を噛みしめる。
なだめるような口調が何とも憎たらしい。大した腕もないくせに、この私に評価されたとのぼせ上がったあげく見下すなんて!
目の前にある偽善者の顔を歪ませてやりたい。
その衝動が言葉になって口を突いた。
「わざとだよ」
「え」
戸惑いに揺れた声色を耳にしてバッと顔を上げる。
ここだ。相手にダメージを与えるならここしかないと、私の勘が言っている。
栗色の瞳を睨み付けて口端を吊り上げた。
「ああなると分かってて投稿したんだよ! SNSで指摘すれば、信者があなたを叩いてくれるって思ったから裏垢で煽動したの!」
「何で、そんなこと……」
大きな目が見開かれる。
ショックを受けたようなその光景が甘美で、私はさらに言い募る。
「だってユウのこと奪ったじゃない! 私にはユウしかいなかった! あんたがユウを忘れて青春を謳歌している間も、私はずっとユウのことを考えてた! なのにどうして? 何でたまたま同じ国に生まれただけのあんたにユウを取られなくちゃいけないの⁉ そんなのずるいじゃないッ!」
ぎゅっと目を閉じて全身から声を絞り出した。
廊下が静寂で満たされる。その静けさで冷静さを取り戻して、頭からサーッと熱が引く。
言っちゃった。怒りに駆られて、言っちゃいけないことを明かしちゃった。
SNSはスキャンダルに敏感だ。悪いことをすれば高校生の私でも容赦なく叩かれる。
盗作疑惑で叩かれた眼前の女とはわけが違う。私は本名でコンクールに出場してきた。別人だとしらばっくれるのは無理だ。
たった今煽ったばかりだし、この女は私にやり返そうとするはず。ユウは優しいから黙っていてくれるけど、この女は間違いなく暴露する。
私が積み上げてきたもの、全部無くなっちゃう。
ユウだけじゃない。私が騒動の引き金を引いたと知ったら、いくらアンナでも私を見限る。運命共同体にすら捨てられる私を、一体誰が愛してくれるの?
「そっか。あの炎上騒動は、霞さんのしわざだったんだね」
悲し気な声色で我に返った。焦りに突き動かされて喉を震わせる。
「ま、待って、違うの。今のは……」
言葉をうまく紡げない。情けなく裏返った声が虚しく廊下の空気に溶ける。
頭の中が真っ白だ。この女に許してもらわないとまた独りになっちゃうのに、私の脳みそは適切な言葉を考えてくれない。
子供の頃の記憶がフラッシュバックする。
秀正さんに拾われる前。パパもママも、人の目がないところでは私をいない存在として扱っていた。
パパが伏倉を追放されて、ママは私を捨てて実家に帰った。
叔父からも冷遇された。秀正さんは面倒を見てくれたけど時折距離を感じる。大人としての責任感で面倒を見ているだけだ。私が成人したら縁を切られるに違いない。
もう、独りは嫌だ。
ぶるっとした震えが頭頂まで噴き抜けた。目頭がじんわりと熱を帯びて視界が滲む。
目を擦っても処理が間に合わない。目元からあふれるものに比例して嗚咽が漏れ出る。
靴音が迫る。
ハイペースな靴音。助走を付けてのビンタが来ると思って身構えた瞬間、上半身が柔らかいものに包まれた。
爽やかな芳香に鼻腔をくすぐられて、自分が抱きしめられたことを理解した。
「ごめんなさい、泣かせたかったわけじゃないの。私はただ、霞さんの本音を聞かせてほしかったんだ。いつも通りに接しても、霞さんは上辺でしか接してくれないと思ったから。ちょっと意地悪しすぎたね」
ごめんね。あやすような優しい声色が続いた。身を包む温かさも相まって、体の強張りが氷のように溶ける。比例して心の方もほぐれた気がするから不思議だ。
嗚咽が落ち着いて、私は恐る恐る顔を上げた。
「怒って、ないの?」
私はひどいことをした自覚がある。
奈霧さんが一生懸命作った物を貶した。デマを広めて名誉を傷付けた。そこまでされれば誰だって怒る。
だからこれは保身のための問いかけ。怒ってないよと言わせるための卑怯な文言。
自己嫌悪を覚えた私の前で、端正な顔立ちが寂しそうに微笑む。
「怒ってないと言ったら嘘になるけど、それ以上に悲しかったよ。だって、霞さんと交わしたやり取りの全てが嘘とは思えなかったから。対面式後のファミレスでは、服飾について私が知らないことをたくさん教えてくれたよね。私嬉しかったんだ。これまで服飾の話ができるお友達はいなかったからさ」
「奈霧さんが大事にしてたものを壊したのに、どうしてそんなことが言えるの?」
奈霧さんが困ったように唸った。
「ここだけの話ね、私小さい頃に失恋したの」
「失恋って、奈霧さんが?」
思わず目を見張った。私が言えた義理じゃないのは重々承知しているけど、目の前の女性を振った男性がいるなんて信じられない。
私の驚愕をよそに、細い首が縦に揺れた。
「そうだよ。ちょっとした擦れ違いがあったの。霞さんよりも大声で泣いて、クラスメイトを責めて、小学校を卒業してからも長い間引き摺った。だから暴走しちゃった霞さんの気持ちも少し分かるんだ。それにほら、可愛い後輩の粗相を笑って許すのが尊敬される先輩ってものじゃない?」
ね? 悪戯っぽいウインクを目の当たりにして、新たな震えがぶるっと体中を駆け巡る。
赦された安堵。破滅の未来が回避された喜び。
それらがもたらす温かみで、罪悪感を押し込めていた心の蓋が溶けた。噴き出した感情が滴となって再び視界の輪郭をぼやけさせる。
「ごめん、なさい……ひどいことして、ごめんなさい!」
涙と鼻水が止まらない。奈霧さんが困ると分かってるのに、ぶり返した嗚咽をコントロールできない。
走り去ってもいいのに、奈霧さんは背中を優しくさすってくれた。
私にお姉ちゃんがいたらこんな感じなのかな。
ぼんやりとした頭でそんなことを思った。