第150話 依存
才覇さんからの連絡がスマートフォンのバイブレーションを鳴らした。
聡さんが手を引いた旨を告げられた数分後、次は聡さんからの連絡が来た。裏付けが取れて、心と体からすーっとこわばりが解けた。
望まない婚約の話を受け入れる理由はなくなった。後は奈霧が縒りを戻してくれれば元通りだ。
これで一件落着、とはいかない。霞さんの件がまだ残っている。
自宅デートをした時の反応からして、奈霧を擁護してくれる可能性は無に等しい。もう霞さんと恋人の振りをする理由はない。
俺は霞さんにチャットを送った。詳細は敢えて省いて、大事な話があるとだけ伝えた。
既読が付くかどうかは運任せだったけど、そう時間も掛からずに欲しい二文字が映った。俺は一週間ほど霞さんへのコンタクトを控えていたし、見限られたと思った矢先に通知が来て嬉しくなったのかもしれない。あるいはずる休みの限界がきて、学校での顔合わせを避けられないと踏んだのか。
目的を達せられるならどちらでも構わない。
指定した時刻は昼休みだ。奈霧達には、先に昼食を食べるように告げて教室を後にした。
活気ある同級生の笑顔を尻目に、一人廊下の床を踏み鳴らす。集合場所との距離が縮まるにつれて人の気配が薄まる。
霞さんを見限るわけじゃないけど気分が重い。今日は霞さんを泣かせるかもしれない。その罪悪感が重りと化して、靴裏を床から離れがたくしている。
集合場所でたたずみ、廊下の静寂に耳を傾ける。
どのみち俺には何もできない。長引けば皆が辛くなるんだ。あんな歪な関係はすぐにでも解消すべきだろう。
散々悩んだ。別の案はないかと思考を巡らせて、その末に俺は今日を迎えた。
優柔不断は罪。躊躇する理由はどこにもない。
「お待たせ」
覇気のない声を耳にして横目を振る。視線が交差して、サファイアのような瞳が重力に引かれたように下がる。
二の句を待っても目が合わない。意図して俺の顔を見ないようにしているのが見て取れる。
俺は霞さんに向き直って空気を吸い込んだ。
「別れよう、霞さん」
「え?」
霞さんがバッと顔を上げる。今日初めて青い瞳と目が合った。
「な、何で?」
「恋人関係を続ける理由がなくなったからだ」
霞さんの口角がぎこちなく上がる。
「理由って、もしかしてユウまだ怒ってるの?」
「怒ってないと思うか?」
幼さの残る顔立ちが息を呑む。
気圧されたように見えたのは一瞬。すぐにピンク色のくちびるが開いた。
「じゃあ改めるから……悪いところは直すから、もう一度チャンスをちょうだい」
「俺は何度もチャンスを渡した。覚えはあるだろう?」
何度も玄関の前で語り掛けた。何度もチャットアプリ越しに呼び掛けた。電話だってしたのに、霞さんは今日までろくに応答してくれなかった。
俺の反応が怖かったのは分かる。それでもチャンスはチャンスだ。大事な時に逃げ出したのは、他でもない霞さんだ。
小さな頭がふるふると力なく揺れた。
「待って、待ってよ。ユウに捨てられたら、誰が私を愛してくれるって言うの?」
「父さんがいるじゃないか」
「違うよ。秀正さんは優しいけど、あれは私を哀れんでいるだけ。壁を作ってるの話してて分かるもん」
俺は屋敷で見た光景を想起する。
脳裏に浮かぶのは、ビリヤードルームで笑みを向け合う父と霞さん。傍から見れば父と娘の関係に見えたけど、父は暴走した自罰衝動を完璧にコントロールしていた。
あれが作り笑いじゃないとは言い切れない。父は霞さんを優峯の子女と思い込んでいるだろうし、父が壁を作る理由にも心当たりがある。
これに関しては、霞さんが聡さんの子だと証明しても意味がない。敵の娘から不貞の娘に変わるだけで、霞さんの立場は弱いままだ。他者から哀れまれる境遇は変わらない。
反論は諦めて言葉を続ける。
「白鷺さんやクラスメイトだっている」
「アンナは最近口を利いてくれないし、クラスメイトは私の肩書きと容姿しか見てない。ユウだけなの。私を見てくれるのは、ユウだけなんだよ!」
「ああ。見ていたよ、君のことは」
霞さんの表情が微かに緩む。
今彼女が何を期待したのか察して、俺は静かに拳を握りしめた。
「どうしてそんな顔ができるんだ?」
「え?」
眼前の微笑が凍り付いた。
こらえ損ねた感情が言葉となって口を突いた。
「君は奈霧が大事にしているものを穢したんだぞ? あんなに低評価をつけられたらどうやったって元には戻らない。その件に関して奈霧に謝罪の一言も告げてないだろう? そんな子のどこを好きになれって言うんだ」
意図して口を閉じる。これ以上感情に任せていると、言ってはいけないことまで告げてしまいそうだ。
別れる理由はもう十分だろう。最後通告をするべく喉を震わせた。
「大体最初からおかしかったんだ。小さい頃に一度優しくされたから結婚だなんて、まるで婚約の理由付けをしているみたいじゃないか。君がしているのは恋愛じゃない。安心できる依存対象が欲しいだけなんだよ」
「そんなこと!」
「違うと言い切れるか?」
霞さんが反論すべく息を吸い込む。
言葉は発せられない。俺はまぶたを閉じて、こわばった表情を視界から遮断した。
「そのままだと、いずれ今回みたいに周りを巻き込んで不幸にするぞ。誰かに好かれたいなら独り占めにしようとするな。相手を形作っているものが何なのか考えてくれ。とにかく、俺はもう付き合い切れない。俺は今も奈霧が好きなんだ」
大きな目が見張られた。瞳が潤み、目元からあふれた滴が頬を伝って流れ落ちる。嗚咽に遅れて小さな手が目元を覆い隠した。
「最後にこれだけは言っておく。君の恋心を利用してすまなかった。その点だけは謝る」
俺は罪悪感を振り切って霞さんに背を向ける。
おそらく俺の言葉は届かない。
霞さんは特殊な環境で育った。両親に愛されず、親族からは疎まれ、出生で負い目があるから俺の父に甘えることもできない。似た境遇の白鷺さんと傷を舐め合って生きてきたはずだ。
周囲からちやほやされ始めたのは、服飾の才能で頭角を現した頃か。寄る人間ことごとく、自身の才にあやかろうとしていると思い込んでも仕方ない。無償の愛とは縁がない環境で生きてきたせいで、俺の気まぐれをこの世で唯一のものと絶対視してしまったのだろう。
きっと霞さんは改める。奈霧に頭を下げて、俺に指摘された点は余さず直す。
あくまで表面上の話だ。霞さんの歪な価値観では、何をどうやっても『俺に好かれるため』の一点に収束する。
それじゃ今までと何も変わらない。俺に霞さんを抱え切る器量はないんだ。いずれ破綻するのが目に見えている。
俺じゃ霞さんを救えない。父でも、霞さんの分身に等しい白鷺さんでも駄目だ。霞さんが全てをぶつけられて、その上で慰め抜きに向き合える人じゃないと。
「あ」
小さな呟きで我に返る。
曲がり角に奈霧が隠れていた。
「奈霧、もしかして全部聞いてたのか?」
「……うん」
奈霧が気まずそうに俯く。
全部ということは、裏アカウントの件も知られたと見て間違いない。
奈霧にとって、霞さんは憧れの人も同然だ。そんな相手が自分の大事な物を貶めたと知ったら幻滅どころじゃないだろう。
文句の一言でも言ってやりたいだろうけど、今の霞さんに追い打ちを掛けさせるのも酷だ。奈霧にそんな真似はさせたくない。
「行こう」
言葉で促したものの、華奢な体は動かない。栗色の瞳はじっと霞さんを見詰めている。
「奈霧?」
「先に行ってて。霞さんと話があるの」
「今はまともに話せないと思うぞ?」
「かもしれないね」
「だったら」
そっとしておいてあげなよ。
それを言葉にする前に、さらっとした亜麻色が左右に揺れた。
「釉くんが言いたいことは分かるけど、やっぱり今だよ。冷静になったら、霞さんは胸の内を話してくれない気がするの。私は霞さんに全部ぶつけたい。そのためにも、霞さんには全力でぶつかって来てほしいから」
真剣な瞳に見据えられて、俺は二の句を紡げなくなった。
どんな相手にも真正面からぶつかる。小学生の頃から変わらない在り方を前にして意図せず口元が緩んだ。
「形だけ謝るかもな」
「その時は叱るよ」
「逆ギレされるかもしれないぞ?」
「覚悟の上だよ」
「分かった。一応ここで待機してるよ。全力でぶつかってこい」
「ありがとう釉くん。行ってくるね」
華奢な体がすれ違った。すらっとした脚が霞さんに向けて歩を進める。