第15話 諭吉万能説
また勉強会をすることになった。
提案したのは例のごとく芳樹だ。期末テストが近付いたことで危機感があおられたらしい。チャットアプリ越しに勉強会の日程を打診された。
俺に断る理由はない。
自宅に一人居ても余計なことばかり考える。それならいっそ、外の空気を吸って芳樹と勉学に励んだ方がマシだ。
懸念はある。
芳樹に指定された場所は、この前足を運んだ都立中央図書館だ。あの場所は勉強の場所として人気がある。奈霧が試験勉強の意図でおもむく可能性は否定できない。
俺は考えた末に遠目のファミレスを指定した。
かつて佐郷達と活用した少し遠めのファミレス。嫌なイメージしかない場所だけど、安全を期すためなら多少の不快さは許容できる。
俺は満を持して上体を起こした。スニーカーに足を通して、ぼんやりした頭を外気に晒す。
作業感が伴う歩行を経てエレベーターに乗り込んだ。浮遊感の洗礼を受けて視界が開ける。電子レンジを想起させる間抜けな音がお届けされた空気を醸し出して趣深い。
エントランスを介してコンクリートの地面に靴裏を付ける。
新鮮味を感じていた街並みはもはや日常。まぶしくて見ていられなかった他者の笑顔も、今は何の感慨もなく視界に入れられる。
慣れというのは恐ろしい。記憶として整理されれば、大抵の出来事は思い出という名の過去に変性する。
こんな陰鬱とした毎日も、いつか思い出に昇華されるのだろうか。
「あら、こんにちは」
いつぞやの貴婦人が街並みに溶けていた。マスタードイエローの上着が小洒落た雰囲気を漂わせている。
この前会った時はごみ拾いに適したラフな格好だっただけに、イメージがひっくり返って戸惑う。
「もしかして私のこと覚えてないかしら?」
「いえ、覚えています。こんにちは、今日はどちらへ?」
「ショッピングに来たの。人生百年時代、まだまだ若い子達には負けてられませんからねぇ」
お婆さんが楽し気に笑む。
少女が跳ねたような快活さだ。俺より若々しいんじゃないだろうか。
「ごみ拾いの時もハキハキ動いてましたよね。何か運動をしているんですか?」
「ダンスをたしなんでいるの。楽しみながら足腰を鍛えられて良い感じなのよ」
「それは健康的でいいですね。運動するとポジティブになると言いますし」
「そうねぇ。イルカさんだったかしら?」
「エンドルフィンですね。セロトニンも影響するみたいですよ」
「詳しいわねぇ。ところで今日はお洒落だけど、お友達と遊びに行くのかしら?」
「いえ、ファミレスで勉強です。友人が問題集に苦戦しているみたいなので、手伝いに行くんですよ」
「この前もお友達にお勉強を教えていたわね。その子には毎日教えているの?」
「いえ、普段はそこまで面倒を見ません。この勉強会自体、友人から頼まれてセッティングしたんですよ。期末試験が間近に迫って焦ったんでしょうね」
お婆さんが目を見張る。
「期末試験が近いのに、ボランティアに参加していたの?」
失言を悟った。
お婆さんの人生にも学校時代がある。期末試験の重要性はその身をもって理解しているはずだ。
生徒の本分は勉強。期末試験で良い点数を取ることとボランティアでは価値が違う。
「えーっと、違うんですよ。あの時は期末試験まで時間があったんです」
「あなた請希高校の生徒でしょ? 私の記憶が確かなら、あの時点で二週間前のはずだけれど」
今度は俺が目を見張る羽目になった。
「俺の学校を知っているんですか?」
「制服を着て歩く姿を見たことがあるからね。都内でも随一の進学校だし、何かと話題になることも多いのよ。そうそう、校内放送で大きな事を仕出かしたんですってね。結構有名よ? あなた」
表情を取り繕う暇も無かった。苦々しく口端がつり上がる。
「知ってて黙っていたんですね。存外に意地が悪い」
「まあ! 嘘を付いた挙句に意地が悪いだなんて、悪い子ねぇ」
何となくおもちゃにされている感覚がある。話題を逸らさないとお婆さんがお叱りモードに入りそうだ。
そうはさせない。話題を逸らす意図で口を開いた。
「悪評はすぐ広まるものなんですね」
「そうよ。ニュースでも、大半の番組は悪いことばかり報道するでしょう? 世の中そういうものなの」
「世知辛いですね」
「そうねぇ。ところで非行に走る子は悩みを抱えているものだけど、あなたはどんな悩みを抱えているの?」
「え」
予想外の問いかけを受けて変な声がもれた。
思考停止する間もなくお婆さんが二の句を紡ぐ。
「さあさあ、お婆ちゃんに話してご覧なさいな」
向けられたのはにこにこ笑顔。
朗らかなその表情は、逃がさないわよ~~とでも言いたげだ。お茶目さの中にガシッと抱え込んできそうな包容力がある。
きっと血迷ったのだろう。くちびるの内容物がヘリウムガスと化したかのごとく浮き上がった。
「知り合いとの間で色々ありまして、縁を切ることになったんです」
「あら、それは残念ね。そのお友達が何かしたの?」
「いいえ。全面的に俺が悪いんです」
「そう。じゃあ、そのお友達に絶交と言われたのね」
「いえ、違います」
お婆さんが小首を傾げて眉を顰める。
「どういうこと? まさか、あなたから縁を切ったの?」
「はい」
「それで悩んでいるって、まるで意味が分からないわ」
「そうですよね。簡単に言えば、俺がやっちゃいけないことをしたから身を引いたってことです」
「どうしてあなたから身を引いたの!」
声のトーンが上がった。今日一番の驚きようを前に、一瞬思考が吹き散らされる。
「あの、何でそんなに驚くんですか?」
「そりゃ驚くわよー! 被害者が絶交を口にするなら分かるけど、加害者の方からそれを言うのはおかしいでしょう。相手の子は、あなたとの仲直りを願ってるかもしれないのよ?」
「俺にその資格はないですよ」
「だから、何であなたが決めるのよ。誰かがそう言った? あなた自身がそう決め付けているだけじゃないの?」
「それは……」
意図せず語尾が濁った。
お婆さんが口にしたことは大体合っている。誰かに奈霧と縁を切れなんて言われた覚えはないし、別れを切り出したのも俺だ。決め付けていると言われれば否定の仕様がない。
だけど俺にだって思うところはある。
目の前のお婆さんは部外者だ。何も知らない、うわさを聞いて俺をやべー奴だと知っていただけの一般人だ。
俺が何に悩んで、何をしてしまったのか全く知らない。
そんな人が何を言うかと思えば、俺が奈霧に嫌われたと決め付けているだって? 少しは考えて発言をしてほしい。
俺は奈霧のロッカーに気色悪い手紙を入れた。靴を盗んで焼却炉に放り込んだ。
奈霧は気が強いから平然と登校しているけど、どちらも人によっては相当なトラウマになる。不登校になる可能性だってあった。
俺がやったのはそういうことだ。嫌われていないだなんて、そんな考えは楽観が過ぎる。
噴き上がりそうな鬱憤を抑えていると、お婆さんが合点したように手を打ち鳴らした。
「分かった! あなた、その子に面と向かって拒絶されるのが怖いのね!」
俺はきょとんとした。目をぱちくりさせて、言葉の意味を噛み砕く。
「俺が、怖がってる?」
「だってそうでしょう? 悪いことをした。罪悪感もある。だったら普通謝るじゃない。それで絶交を言い渡されたなら仕方ないけど、あなたの言動を見た限りだと謝罪はしていない。違う?」
「そんなこと――」
ない。そう告げようとして口が止まった。
俺は奈霧に、一言でも謝っただろうか?
悪いことをしたとは思っている。頭は下げたし罰を受ける覚悟も伝えた。その一方で謝罪の言葉は発していない気がする。
正直、今さら謝罪をしたから何だって話ではある。展望台で自白してから一日や二日じゃないんだ。奈霧の前に立ったところで何を今さらと軽蔑されるだけだろう。
左胸の奧がキュッとして、俺は見せびらかすようにスマートフォンを取り出す。
「あ、もうこんな時間だ。約束に遅れるので行きますね」
「あ、ちょっと!」
駆け足でその場を去った。その足で目的地のファミレスに踏み入り、鈴音の出迎えを受けて店内を一瞥する。
「おーい、こっちこっちー」
芳樹が腕をしならせた。
今回は約束の時間を守ったようだ。お婆さんとの会話を心の奥底に封じ込めて芳樹の正面に座す。
「すまんちょっとトイレ」
芳樹が席を離れた。
数分して俺の視界内に戻ってきた。改めて問題集とノートを広げる。
「それで、どの問題が分からないんだ?」
「そう焦るなって。せっかくだし美味しいもん食いながら勉強しようぜ」
ファミレスに来た以上は俺もそのつもりだ。
料理の写真を吟味してブラックコーヒーとチョコケーキを注文した。ブラックとか気取っちゃってーと茶化す芳樹を受け流して、少々難しめな問題の解き方を教える。
芳樹の眉がハの字を描くこと数分。後方でドアチャイムが鳴り響いた。膝蓋腱反射のごとく入店者に横目を向けて、再度芳樹に向き直る。
俺はガバッと振り返って二度見した。とっさに尻を滑らせてテーブルの下に隠れる。
奈霧だ! 奈霧がいる! たおやかな人影が床に靴裏を付けている! 何で? どうして? まるで意味が分からない。
ファミレスを訪れた理由は察しがつく。どうせ期末試験に向けた試験勉強だ。
でも手頃な飲食店なんて他にいくらでもある。校舎から無駄に離れたファミレスに足を運ぶなんて、一体どんな気まぐれだ?
「なーにやってんのお前」
芳樹が呆れた顔でのぞき込む。
まずい。芳樹は俺唯一の友人として知られている。俺の存在が奈霧にばれてしまう。
「もしかして、そこからパンツ見える?」
「見えん!」
慌てて口元を手で押さえた。都立中央図書館での出来事が鮮明によみがえって、耳たぶがとろけ落ちそうなほど熱を帯びる。
ここは駄目だ。芳樹がいると思考が乱される。ひとまず策を考える場所と時間が欲しい。
芳樹にお手洗いに行く旨を伝えて腰を上げた。テーブルの天板に頭突きして頭を抱える。
脳天を手でさすりながらトイレに逃げ込んだ。
「どうする、どうすれば」
腕を組んでお手洗いの中を歩き回る。
俺のプリン頭は知られている。知らぬ存ぜぬを突き通すのは無理だ。
店の外へ逃げようにも、俺達が使っているテーブルは店の奥にある。奈霧の目を盗んで外に出るのは不可能に近い。
……ある意味、これはチャンスかもしれない。
さっきお婆さんに気付かされた通りだ。俺は奈霧に謝っていない。ごめんなさいを告げるにはこの場がベストだろう。
いや待て、何がベストなんだ? 罪悪感に耐え兼ねたから謝罪するだなんて、そんなのは自己満足の極みだ。奈霧のことを何も考えちゃいない。
俺が佐郷や壬生の顔を二度と見たくないのと同じだ。加害者なんて視界に入れたくもない、それが被害者の心情ってものだろう。
やはり脱出するしかない。
でも、どうすれば……。
「ふいーっ、すっきりしたー」
目の前をマッチョが横切る。ニット帽に革ジャン、そしてサングラス。少し怖い雰囲気を放っている。
ひらめくものがあった。手洗いを終えた男性に向けて腕を伸ばす。
「ま、待って下さい!」
でかい図体が足を止めた。振り向きざまに鋭い視線と目が合う。
「待てって、俺に言ったの?」
反射的に足を引きそうになる。
声を掛けた以上は引き下がれない。俺は財布から一万円札を引き抜く。
「そ、その帽子……と革ジャンとサングラス、諭吉で買った!」
もう何かノリで、勢いで。男性に対してひたすらに購入意欲をさらけ出す。
男性の表情が歓喜に染まった。
「え、いいの⁉ まじで⁉」
「まじまじ」
「全部合わせても五千円もしなかったのに、まじでいいの?」
「ま……じまじ、大まじ」
テンパって変な応答をしてしまったけど、取引は無事成立した。
思ったよりノリのいい人で助かった。諭吉を代償に趣味じゃない衣服を入手し、プリン頭をニット帽で覆い隠す。サングラスで目元を誤魔化し、私服も革ジャンでイメージチェンジする。
何食わぬ顔でお手洗いを後にした。左胸の奥でバクバク鳴り響く鼓動を無視して店内を脱出する。
店内と外を一枚のドアで隔てた。
安堵のため息が口を突いた。スマートフォンでチャットアプリを起動し、芳樹に会計を任せる旨を伝えて足早にビルを離れた。