第144話 語るに落ちる
フローリングモップを握ってリビング内の床を踏み鳴らす。
廊下、自室。足を踏み入れそうな場所は片っ端から拭いて回る。
この土曜日は霞さんを自宅に招いた。何度か女性にスリッパを履かせた身だけど、やはり当日は緊張する。
奈霧相手ですら自宅デートをした回数は一回だ。それも掃除と膝枕をしてもらっただけで終わった。世のカップルはどうやって自宅デートを楽しむのだろう。
まさか霞さんに膝枕してもらうわけにもいかない。霞さんとは付き合っているけど、あくまで聡さんの脅しあっての関係だ。俺の気持ちはまだ奈霧にある。単純にデートを楽しむ気はない。
今日の目的は水族館に行った時と同じ。奈霧に親近感を持ってもらって、SNSで奈霧を擁護してもらう。先日はぎくしゃくしたし、今日は上手くやらないと。
跳ねるような電子音がリビングを駆け巡った。モニターで玄関前を視認して廊下の床をスタスタと言わせる。
ドアチェーンを外してドアノブをひねる。腕を引いて玄関に新鮮な空気を迎え入れた。私服姿の霞さんと挨拶を交わしてスリッパを勧める。
菓子折りを受け取って一足先に踵を返した。リビングに戻って菓子折りの箱でセンターテーブルの天板を飾る。
窓から差し込む光に負けない笑顔が室内を華やがせた。
「ねーねー何して遊ぶ? 映画? それともドラマ見る?」
「ドラマを見る発想はなかったな。自宅デートの経験あるのか?」
「ないよ。どうして?」
「すらすらアイデアを出してくれたからさ。俺は分からなくて事前に調べたよ」
「私のために調べてくれたの⁉ 嬉しい!」
純粋なあどけない笑み。心から喜んでくれたのが分かって胸の奥がチクッとした。
視線を逸らしたい欲求に抗って口角を上げる。
「霞さんは見たい映画あるか?」
「最近話題になったのあるでしょ? あれ見ようよ」
「どんなのだっけ?」
「実写映画。踊れ手の平の上で」
リモコンを握ってボタンを押し込み、表示された映画のタイトルを右へ流す。
「霞さんは何か飲むか?」
「紅茶!」
「今はダージリンしかないけどいい?」
「うん。映画は私が探しておくね」
「ありがとう。頼む」
リモコンを手渡してキッチンに踏み入った。電気ケトルの取っ手を握り、あらかじめ沸かしておいた湯をティーポットとカップに注ぐ。
アメリカで白鷺さんがやっていた淹れ方だ。何度か紅茶を振舞われてからというもの、淹れ方もこだわらないと満足できない体になってしまった。
容器を温める作業に並行して茶葉の重量を計る。満を持してカップ内の湯を捨て、入れ替わりざまに茶葉を放って湯を降らせる。
蓋を被せてスマートフォンの液晶画面をタップする。
「ところで白鷺さんとは仲直りできたのか?」
「まだ。もうちょっと長引くかも」
「何が原因なんだ? 俺で良ければ仲介するぞ?」
「いいよそんなの。すぐ仲直りできるし」
思わず霞さんに視線を送った。
霞さんの言葉とは思えない。霞さんと白鷺さんは境遇が似通っている。不貞の子かそうじゃないかの違いはあれど運命共同体と聞いた。喧嘩の一つや二つでほっぽり出せる関係じゃないはずだ。
「本当に大丈夫なのか?」
「大丈夫。ユウは何も心配しなくていいよ」
そう言われたらこれ以上口を挟めない。十年以上一緒にいる二人だし、何より今はデート中だ。口喧嘩に発展する事態は避けたい。
アラームの電子音を止めてカップの湯を捨てた。茶こしを添えてポット内の紅茶ををろ過し、クッキー用の皿と二人分のティーカップでお盆を飾る。
果樹園のそよ風にも似た芳香を漂わせてリビングに踏み入る。お盆の底でセンターテーブルの天板をコトッと鳴らした。
「ありがと」
霞さんの礼を背中で受けつつ、垂れ下がった布を引いて日光を遮断する。ソファーに腰掛けてテレビ画面に視線を注いだ。
街を背景に、俳優の靴がコンクリートの地面を踏み鳴らす。
踊れ手の平の上で。通称『踊平』はサスペンスものだ。
無念の内に命を絶った父親の仇を討つべく、少年が復讐対象の子女に接触するところから物語は始まる。腕を伸ばせば届く幸せを取るか、父の仇を取って無念を晴らすか。両者の間で揺れ動く切なさが人気の秘訣らしい。
雑談を挟みながらクッキーにつまみ、ティーカップを傾けて口内に残った甘味をリセットする。
少年が背を向けて歩き去ったところでエンディングロールが流れた。流れゆく出演者の名前をよそに霞さんがん~~っと背筋を伸ばす。
「面白かったーっ! 久しぶりに映画見たけど、たまに見ると面白いね」
「霞さんは普段映画を見ないのか?」
「見ないよ。暇な時間があればデザイン画書いてたから」
驚きはない。霞さんが若くしてコンクールで賞を取ったことは知っている。積み重ねた試行錯誤も相当なものだろう。
デートの方向性は決まった。娯楽を遠ざけて過ごしてきたならエンタメに飢えているはず。今日は思う存分息抜きしてもらおう。
「次は何を見る?」
「座ってて疲れちゃった。次は別の趣向がいいなぁ」
「別って言うとドラマやアニメか?」
「それもなぁ……そうだ、ユウの部屋見せてよ」
「俺の部屋? そんなの見て面白いか?」
「好きな人がどんな部屋で生活してるのか興味あるの」
眩しい笑みを向けられて息を呑む。
そんな歯が浮くような台詞を何のためらいも無く。これがアメリカのお国柄なのだろうか。
微かな火照りを感じて背を向ける。
「分かった、ついてきてくれ」
告げてスリッパの裏を浮かせた。部屋を掃除した数時間前の自分を褒めてやりたい。
「ここだよ」
自室につながるドアを開け放つ。
細い足が部屋に踏み入った。華奢な体が腕を広げて駒のごとく一回転する。
「ユウは毎日ここで目を覚ましているのね! 素敵!」
スカートがひるがえって反射的に視線を逸らす。
「恥ずかしいから、あまり見ないでくれると助かる」
「えーっ、せっかくここまで来たんだから色々見せてよ」
「……少しだけな」
「やった!」
遠慮なんて欠片もない。 見る気満々の霞さんを前に苦笑する。
青い瞳が室内を見渡す。
ベッド、勉強机や椅子、本棚に並ぶ背表紙まで口角を上げて視線でなぞる。体の中身を見られているみたいできまりが悪い。
霞さんの足が止まった。
「どうしてこの季節にマフラーを置いたの?」
青い瞳が見つめる先には本棚。奈霧からもらった防寒具が本の背表紙を飾っている。
「ずっとしまってると湿気がたまるから風に当ててたんだ。これ奈霧の手製なんだよ。良い感じだろう?」
仄かに耳たぶが熱を帯びる。
妙に照れくさい。彼女からのクリスマスプレゼントを棚の上に置くなんて、まるで記念に飾っているみたいだ。重いと思われただろうか。
「……それ、捨てた方がいいよ」
「……何だって?」
聞き間違いかと思った。
霞さんがマフラーに人差し指の先端を向ける。
「だからこれ、捨てた方がいいよ」
「どうしてそんなことを言うんだ」
奈霧からの贈り物を捨てるなんてできるわけがない。その理由もないはずだ。
霞さんがポケットに腕を突っ込んだ。スマートフォンを引き抜いて親指を行き来させる。
「これ見て」
細い腕がスマートフォンをかざす。
液晶画面には奈霧のアカウントが映っている。高い評価を表していた星の輝きは見る影もない。レビューには盗作やパクリなど心無い文字が連ねられている。
「あの人盗作したんだよ? そんな人の作品を置いておくなんて縁起が悪いよ」
「知ってたのか」
小さな顔が縦に沈むのを見て、胸の奥がチリッっとした。
知っているなら、どうして奈霧を擁護してくれないんだ? 泉のごとく湧き上がった不満が口を突きかけて、寸でのところで言葉を呑み込む。
霞さんは奈霧が盗作したと思い込んでいる。そんな状態で弁解しても逆効果だ。
まずは誤解を解く。それから奈霧を助けてくれるように頼み込もう。
「実はそれデマなんだ」
「どうしてそう言い切れるの?」
「話題になったデザインよりも、ハンドメイドが出品された日にちの方が早いんだよ」
「それは証拠にならないよ。デザイン画は投稿する前から仕上がってたものだもん。きっとクラッキングでもしたんだよ。データを引き抜いたに決まってる」
「違う! 奈霧は服飾に関して本気なんだ。大体クラッキングツールなんて簡単に手に入る物じゃないだろう。霞さんのアカウントをフォローしてる人は多いよな? 擁護のコメントを打って奈霧を助けてあげてくれないか?」
桃色のくちびるが引き結ばれた。繊細な指がぎゅっと丸みを帯びる。
「どうして、私が奈霧さんを助けなきゃいけないの? だって奈霧さんは盗作したんだよ? 最低じゃん! 低い評価を受けて当然だよ!」
「だから誤解だって言ってるだろう! 奈霧は一生懸命服飾に取り組んできたんだ。このままじゃ奈霧が可哀想じゃないか!」
少し声が荒くなった。
機嫌を損ねたら協力してもらえないかもしれない。慌てて脳内で謝罪の言葉を組み上げる。
「……何で?」
非難するような鋭い目付きに見据えられた。
「何で私を信じてくれないの⁉ 何でいつも奈霧さんなの⁉ ユウと付き合ってるのは私だよ! 彼女が目の前にいるのに、ユウはいつも奈霧さんのことばっかり!」
「何だよ、急に何の話を」
「日本では一人の異性を愛するのが主流なんでしょ⁉ だったら私を見てよ! 奈霧さんのことばっかり話さないでよ!」
気圧されて言葉に詰まった。
確かに、今交際しているのは霞さんだ。親近感を持たせるためとはいえ、少しばかり奈霧の話題を出し過ぎたかもしれない。
「でも、盗作の件は本当にデマなんだ。今のままじゃ奈霧が報われない」
「報われないのは私だよ! やっと結ばれたと思ったのに、ユウは泥棒猫のことばかり気にしてる!」
「泥棒猫って、そんな言い方ないだろう」
「何が違うの? どうせユウが伏倉の長男だから近付いたに決まってる。聞いたよ? 奈霧さんはユウに振られて元気ない振りしてるんだよね。ユウは騙されてる。振った罪悪感で奈霧さんを気にする必要はないんだよ」
「別に罪悪感で気にしてるわけじゃ」
ない。そう断言できるだろうか?
奈霧の服飾活動を応援したい。そう思ってここまで来たけど、俺のこの気持ちは本物なのか? 本当は服飾なんてどうでもよくて、奈霧を傷付けた負い目と関係修復に備えたご機嫌取りをしているんじゃないか? だとしたらあまりに利己的だ。好きな人のためが聞いて呆れる。
分からない。俺は今誰のために動いているんだ?
「ほら、断言できないでしょ。でもユウは悪くないよ。全部奈霧さんが中途半端だから悪いんだよ。ハンドメイドだってそう! 少しいじるだけで良くなるのに、あんな出来で自信作って顔しちゃってさ。おかげでアンナと口論になっちゃったし、SNSに投稿したデザインもでき損ないを真似たから半端な出来になったし、もう散々!」
服飾のことが混じったからか、いつになく捲し立てられた。
場違いだけど、霞さんは本当に服飾が好きなんだなとしみじみ思う。奈霧の誕生日にハンドメイドを投げ捨てた時は思うところがあったけど、ささいな拙さも気になるくらい本気で服飾に向き合っているのだろう。
……待て。
霞さんは、今何て言った?
「でき損ないを真似たデザインって何だ? もしかして、あのデザイン画は意図して似せた物だったのか?」
霞さんがハッとした。右手がおもむろに口元を覆い隠す。
その態度はもう自白と同じだ。
告げられた内容から推測すると、霞さんは奈霧を嵌めるためにデザイン画を投稿したことになる。アイデアを盗んだ挙句に奈霧のアカウントを貶めるなんて、明らかに一線を越えた行動だ。
でも何でだ。霞さんが奈霧にそこまでする動機が分からない。嫉妬にしたって、子供の頃の恋慕だけで、こんな……。
ドアの開閉音が鳴り響いた。
我に返ると、室内から小さな体が消えていた。
「待ってくれ!」
思考を中断して廊下に踏み出した。小さくなる背中を見失うまいと、スリッパを脱ぎ捨てて玄関に向かう。
脱ぎ捨てられたスリッパを避けると同時に、玄関に外の光が差し込んだ。小さな体が外履きを残したままドアの向こう側に消える。
ドアノブをひねる時間も惜しい。締まりかけのドアにタックルして通路に足裏を付けた。目的の背中に駆け寄って腕を伸ばす。
あと一歩のところで一枚のドアに隔たれた。
「霞さん!」
呼びかけながらドアノブを捻る。
硬質な感触が返ってくるばかりでドアは微動だにしない。すでに鍵が掛けられたようだ。
「どうしてだ⁉ 何でそこまで奈霧を、霞さん!」
ドアに拳の底を叩き付ける。何度も声を張り上げる。
隣人にうるさいと怒鳴られるまで繰り返したけど、霞さんは俺と言葉を交わしてくれなかった。