第143話 絶望するのはまだ早い
重い足を引きずって通学路をたどり終えた。電子錠を開けて玄関を視界に収める。
さすがに両親の靴はない。スニーカーを脱ぎ捨ててスリッパに足を差し入れた。廊下の床をスタスタ言わせてスリッパの先端を右に向ける。
普段は洗面所で手洗いうがいをするところだけど、今はそんな気分じゃない。上階へ続く段差に体重をかけて手すりに手を添える。
階段を上り切って自室のドアを開け放つ。通学カバンを手放してベッドに身を投げ出した。ブレザーを脱ぎ忘れたことに気付いて上体を浮かせるものの、すぐに力を抜いて布団に身を委ねる。
寂寥感に駆られて枕を抱き寄せる。
中間試験の手応えは芳しくなかった。試験勉強には集中して取り組めなかったし、今回の順位は二桁になりそうだ。
最近はやること為すこと上手くいかない。ハンドメイドもSNSで炎上してから全然売れなくなった。買われてもないのに評価の星が日に日に陰る。
材料費に回せる資金も底が見えてきた。将来を考えると貯金には手を出せない。いよいよ本格的にアルバイトを探すしかなさそうだ。
やるべきことは分かってる。インターネットで検索して、都合の良い条件を探して応募するだけ。
たったそれだけのことを実行できずにいる。頭の中がよく分からないものでパンパンだ。こんなに精神の安定を欠くのは釉くんに罪の告白をされて以来かもしれない。
釉くんは霞さんと付き合っているらしい。見ず知らずの下級生から聞かされた時は、頭の中が真っ白になって返答もおぼつかなかった。
私と別れてから一か月も経ってない。新しいパートナーができるには早すぎる。
きっと別れを告げる前からそういう仲だったんだ。霞さんは可愛いし、釉くんにとても懐いていた。短期留学中に仲を育んだに違いない。
私だって少なくない時間を釉くんと過ごした。過去の因縁にケリを付けてドラマチックに結ばれたし、クリスマスにはちょっと喧嘩したけど自宅デートをした。
初詣には一緒に行けなかった。バレンタインの日にはチョコを渡せなかった。それでも彼女らしいことをしてきた自負はあった。
それは気のせいだった。
私が積み上げてきたものは、三か月の短期留学であっさりとひっくり返された。その事実が悔しくて、今も振られた現実を受け入れられずにいる。
「どう、して」
枕を握る指に力がこもる。
私と過ごした時間は、そんなにつまらなかったかな。それとも私が何か、釉くんに嫌われることをしちゃったのかな。
もしかして、空港で口付けを交わしたのがいけなかった?
そうかもしれない。積極的過ぎて引かれた可能性は大いにある。
上手くできた自信はあった。リップクリームはちゃんと塗ったし、キスの際に歯と歯は当たらなかった。恥ずかしくて一目散に身を翻したけど、釉くんも嫌そうな表情はしてなかったと思う。
勇気、出したんだけどな。
目頭が熱くなって枕に顔を押し付けた。口元を引き結んで喉の震えだけは押し殺す。
釉くんは何も悪くない。一緒にいるための努力が足りなかったんだ。
小学生の時だってそうだった。私に恋心と向き合うだけの強さがあれば、釉くんが手を離すまでもなく悲劇は起こらなかった。それどころか想いが通じ合って、もっと早くに結ばれていたはずだ。
釉くんが転校した後もそうだ。当時のことを引きずるくらいなら、自分の足で探し回って会いに行くべきだった。
でも私はそうしなかった。憎悪の眼差しを向けられるのが怖くて、私は過去の事件から目を逸らした。拒絶を恐れずに向き合っていたら、釉くんが自罰衝動に苦しむこともなかったのに。
高校生になってからも、私は釉くんに助けられてばかりだ。
成長がない。前に進んでいるようでいて、大事なところは何一つ変わってない。環境の変遷に私が取り残されている。
もう置いていかれたくない。喉の震えをこらえて、すーっと深く空気を吸い込む。
意を決して上体を起こした。スリッパの先端につま先を入れて、勢いよくベッドから腰を浮かせる。
中間試験は終わった。釉くんとはもう彼氏彼女の関係じゃない。あれこれ悩んでどうにかなる時間はとっくに過ぎた。
堂々巡りをするくらいなら一枚でも多くデザイン画を描こう。アルバイト先も今月中に探そう。そっちの方がずっと有意義だ。
人生は何が起こるか分からない。釉くんとの一件でそれを学んだ。いつ何のチャンスに巡り合うか分からない。機会を逃がさないための握力が欲しい。
まずは傷ついた心に整理を付けろ。未熟なところは少しでも磨け。
そうすれば自信を持てる。大好きなお友達の前で、心配かけてごめんねって言えるようになる。
絶望するのはまだ早い。
邁進の果てに、釉くんがまた私のことを想ってくれるかもしれないんだから。