第142話 クラゲ
「ユウ! 次はどこに行く?」
弾けんばかりの笑顔が街並みを華やがせる。ナチュラルな金色の髪がさらっと流れて、道行く人の視線をかき集める。
小柄な肢体を包むのはラフな格好。休日の外出を楽しんでやるという意気込みであふれている。
数日前までは、視線が交差するたびに逃げられた。
関係性が変わるとここまで違う。その現金さに意図せず苦々しい笑みが込み上げる。
「えいっ!」
視界が微かに揺れる。
細い腕が俺の腕に絡み付いていた。
「どうしたんだ急に」
「だってユウ上の空なんだもん。何考えてたの?」
「次は霞さんとどこに行こうかなって」
「気持ちは一緒だね! 嬉しい!」
小さな顔が白い歯を覗かせる。恋する乙女の表情を見ていられずに顔を逸らす。
俺にこの笑顔を受け止める資格はない。そっと足を前に出して距離を取る。
「水族館に行かないか? 結構居心地良いんだ」
「じゃあ昼食もそこで食べようよ」
「そうだな。水族館の中にカフェがあるから、そこにしよう」
靴先の向きを変える。
一度奈霧と歩んだルート。
スマートフォンで場所を調べるまでもない。記憶にあるルートを歩き切って薄暗い空間に踏み入る。水槽で身をくねらせる魚やエビを見ながら歩を進める。
途中カップルと擦れ違った。仲睦まじげな様子が尻目に映って、胸の奥が微かにざわつく。
「ちょっと気になったんだけどさ」
「ん?」
「ユウってどうして奈霧さんと別れたの?」
息が詰まった。蒼穹のような瞳がまぶたで見え隠れする。
「反りが、合わなくなった」
「ちょっと意外。仲が良さそうに見えたのに」
俺もそう思う。聡さんの横槍さえ無ければ、今頃俺の隣には奈霧がいたはずだ。
やりきれなくなって靴裏を浮かせる。霞さんが悪いわけじゃないけど今はその話に触れたくない。
「恋愛って難しいんだよ。上手くいってるつもりでも、予想外の方向から茶々が入るものなんだ」
「ユウと奈霧さんは人気あるもんね。クラスメイトもよくその話で盛り上がっててさ、うるさくて困っちゃうよ」
「霞さんがうるさいって言えば黙るんじゃないか?」
「かもしれないね」
言い回しに違和感を感じて振り向いた。
「静かにしてって頼まなかったのか?」
「うん。何されるか分からないし」
「その程度でどうこうする生徒は請希高校にいないと思うけどな」
告げて、霞さんがアメリカに在住していたことを思い出す。
あの国は難しい所だ。ちょっとした発言で体格の良い男が隆々とした腕を振りかぶる。霞さんもトラブルに巻き込まれたことがあるのかもしれない。
「一人で言いにくいなら、白鷺さんに相談したらどうだ?」
青い瞳が逃げた。
「うーん、ちょっと喧嘩してるから頼みにくいなぁ」
「喧嘩?」
「うん。あ、気にしないで! 別に深刻なやつじゃないから!」
「それならいいけど」
白鷺さんとは図書室で会ってから顔を合わせていない。霞さんと彼女が仲違いしたなんて知らなかった。
霞さんと白鷺さんがマンションを訪れた当初は、霞さんから朝食や夕食を一緒に食べようと話を持ちかけられた。白鷺さんが諫めて週一回に定められたけど、最近は三人で食卓を囲っていない。
皆擦れ違ってばかりだ。悪いことが伝染してるみたいで気味が悪い。
「この話はやめやめ! せっかくデートに来たんだもん、もっと明るいこと話そうよ!」
「明るい話題か」
話題を求めて室内を視線で薙ぐ。
予定調和のごとく先程のカップルが映って、ふと口を開く。
「デートって言えば、何で君は俺を好きになったんだ?」
「私を見つけてくれたからだよ。一緒に遊んでくれて嬉しかったし」
足を交互に出す作業を繰り返す。
言葉が続かないことを察して、俺は思わず足を止める。
「それだけ?」
「それだけって何? 私はとっても嬉しかったんだよ? ユウのために綺麗になろうと思って、一生懸命デザインの技術を磨いてきたんだよ?」
「いや、だって」
子供の頃の話だろう? 言いかけた言葉を呑み込む。
もっと何かあると思っていた。これだけ好いてくれているんだ、情熱的なエピソードの一つや二つあって然るべきだろう。
告げたところで、霞さんにとっては良い記憶だ。指摘したところで怒られるのは目に見えている。
いまいち釈然としないけど、わざわざ怒らせる必要はない。
「あ、クラゲだ!」
小さな体が小走りで床を踏み鳴らし、細長い水槽の前で足を止める。
膝に手を当てた霞さんの前には、骨格のない生き物がふわふわと漂っている。ライトの光を浴びて鮮やかな色を帯びていた。
「綺麗だね。可愛いーっ」
感想を耳にして去年の光景が想起される。俺と肩を並べて、色鮮やかな遊泳体を仰ぐ笑顔。
チャンスがやってきた。俺は霞さんの元に歩み寄って肩を並べる。
「可愛いよな。奈霧も好きなんだ。ライトに照らされて泳ぐ姿がアイドルみたいでお気に入りなんだってさ」
どうも霞さんは奈霧を良く思っていない節がある。SNSでの擁護をお願いしても断られるリスクがある。
だからまずは、好きな物を共有させて奈霧に親近感を持たせる。
「ふ、ふーん」
霞さんが思い立ったように腕を伸ばした。
「私お腹減った! カフェに行こうよ!」
「え、あ、ああ」
戸惑いながらもカフェに立ち寄ってフロートを注文した。
奈霧と来た時はクラゲのフロートだったけど、今回の氷はペンギンの形をしている。透き通った水色にプカプカと浮かぶ氷を眺めると、南極をよちよち歩く瞬間を捉えた視覚芸術に見えてくる。
霞さんがスマートフォンをかざした。既視感のある仕草を前に口元が緩む。
「霞さんはここ初めてか?」
「うん。これ飲みにくいね。口にくっついてくる」
小さな手がストローを握ってペンギンを遠ざける。眉間を寄せる姿があどけなさで満ちていて微笑ましい。
「ストローで押しながら傾けると飲みやすいぞ」
「ほんとだ。でもちょっともったいないね」
「どうして?」
「だってこんなに綺麗なんだもん。彫刻品みたいなのに、少しずつ形が崩れてきちゃうし」
「彫刻品か。同じ反応してたなぁ」
「誰が?」
「奈霧だよ。あの時はクラゲーのフロートだったんだけど、彫刻品みたいって言いながら撮影して……」
口を閉じる。
眼前の笑みがスッと色褪せた。椅子を引く音が沈黙をかき消す。
「水族館飽きた。モール行こう」
「飲み物は?」
「歩きながらでいい」
小さな背中が遠ざかって、俺は慌てて追いかける。移動の間を繋ぐべく話題を振って盛り上げようと試みる。
霞さんは振り向かない。短く返事を返すだけで、手に握ったドリンクの中身を黙々と吸い上げる。
ショッピングモール内に足を踏み入れるまで、霞さんの顔に笑みが戻ることはなかった。