第138話 別れ話
カフェに踏み入る前は、せっかくだから銀座の街を巡って帰ろうと思っていた。
そんな浮ついた気分はとうに霧散している。水たまりをバシャバシャ言わせて寄り道せず帰途に就いた。
マンションの玄関で靴を脱ぎ、脇目もふらずベッドにダイブした。まぶたを閉じて枕に頭の重みを預ける。
頭がもやもやする。腹の底がチリチリする。
ぎゅっと枕を顔に押し付ける。時間をかけて感情の炎を鎮火させる。
こんな理不尽は何度も経験した。悪意に翻弄されて、時には涙したこともあった。ひどい目に遭ってきたからこそ、こういう時はどうすべきか体が覚えている。
勢いよく上体を起こした。スリッパにつま先蹴りを繰り出して足裏を床に押し付ける。
自室に足を運んでチェアに腰を下ろした。メモ帳を開いてペンを握り、その先端を白いページに押し付ける。
聡さんが勲さんの会社を乗っ取るかどうかは分からない。
そうなってからでは手遅れだ。脅迫は相手に守るべきものがある内は有効に働く。
勲さんが社長の座から引きずり降ろされても奈霧家の生活は続く。そこからさらに脅しを掛けられたら目も当てられない。
聡さんの要求を呑むしかない。
あくまで一時的の話だ。打開策に心当たりはある。
有力なのは父に相談することだ。連絡先は知っているし、何よりも優先すると言ってくれた。話を付ければ力になってくれるだろう。
その場合は聡さんがどうなるか分からない。
俺は伏倉家の長男だ。そんな俺にちょっかいを出すことは、伏倉家当主に喧嘩を売る行為に等しい。
父は次男を追放した。
何事も二度目はハードルが低くなる。母のこともあるし、俺が擁護しても裏で重い処分を下すかもしれない。少なくとも聡さんの失脚は高確率で実現する。
それは寝覚めが悪い。聡さんは霞さんの肉親だ。世界にたった一人しかいない霞さんの父親だ。
俺は父と仲直りできて嬉しかった。霞さんがどう思うかは知らないけど、親子として対面する可能性は残してあげたい。
おそらくこの思考は聡さんに読まれている。俺が父に相談できないのも見抜かれている。
こういう性として生まれた以上は仕方ない。悔しさをバネにノートの上でペン先を走らせる。
気持ちの整理がついた。ここから先は反撃の策を練る時間だ。
奈霧を切らないのは大前提。俺の勝利条件は、聡さんをこの一件から引かせることだ。
聡さんに設けられた期限は一週間。すぐにでも行動に移したいところだけど、それでは物分かりが良すぎる。
聡さんは体育祭の日に校舎を訪れていた。
ずっと中庭にいたとは考えにくい。生徒や教員から、俺の異名やそれにまつわる話を聞き出していてもおかしくない。
自分で言うのもなんだけど、以前の俺は少々熱量がありすぎた。ここまで奈霧に入れ込んだ俺が、話を持ちかけた二日後に別れ話を切り出すのは不自然だ。
反撃の牙を研ぐことは悟られてはならない。葛藤を経て奈霧と別れた演出が要る。そのためにやるべきことを書きまとめてメモ帳を閉じた。
土日は自宅で頭を冷やした。月曜日の朝を迎えて通学路の地面を踏み鳴らす。
聡さんは用意周到な人だ。口約束で済ませるとは思えない。見張り役の存在を意識して立ち回った方が賢明だ。
時折視線をずらして、普段目の当たりにしない人影を探す。
それができたのはほんの数分。人々の濁流を前にしたらもう駄目だ。毎日行き来する顔は俺の都合なんてお構いなしに進む。見張りをあぶり出すなんて不可能に近い。
校舎に踏み入っても油断はできない。俺は二回ほど盗聴に助けられた身だ。その影響力は経験で知っている。
世の中には小型の盗聴器があふれている。マンションの部屋、襟の裏、靴、カバンの中や教室内など仕掛けられる場所には際限がない。専門家でもない俺に突き止めるのは無理だ。
学校と自宅での会話は、全て聡さんに聞かれる前提で動く。
方針を決めて教室の床に靴裏を付けた。友人や恋人と挨拶を交わして自分の席に着く。可能な限り一人で時間を潰すように努めた。
案の定奈霧たちに心配された。
俺はぎこちない風を装って悩んでいるふりをした。友人を利用するのは後ろめたいけど、これは聡さんをあざむくために必要なプロセスだ。罪悪感を押し込めて憂鬱に浸った。
中間考査に向けて勉強しながら、周囲に思い悩む態度を見せつける。
そんな日々を送る内に週末がやってきた。中間考査を終えて、俺は奈霧と外出する約束を取り付けた。
Xデーの土曜日を迎えた。鉄と化したように重い足を浮かせて身支度を整える。
外履きに足を通す。外へ続くドアノブに腕を伸ばして、宙で縫い留められたように腕が止まった。
覚悟はしたつもりだった。これは必要なことだと何度も自分に言い聞かせたし、事が終われば事情を説明して頭を下げればいいと分かっている。奈霧なら許してくれると、半ば確信に近いものを感じている。
それでも、怖い。
打開策は本当に見つかるのか?
俺の手で、霞さんと聡さんのあり得た未来を壊すことになるんじゃないか?
奈霧は本当に許してくれるのか? 俺を待っていてくれるのか? 縒りを戻してくれるのか?
ブンブンとかぶりを振って疑念を振り払った。決意が鈍らない内にドアの取っ手を握りしめて玄関に外気を迎え入れる。
ドアを施錠して足早に通路を突き進む。エントランスを介して外の地面に足を突き立て、外気を身に浴びながら集合場所へと歩を進めた。
奈霧と合流を果たして街を歩いた。ウィンドウショッピングを経てファミレスで昼食を摂り、レジャー施設に立ち寄って体を動かした。
後ろめたさを抱えてのデート。
一年生の時も同じことをして奈霧を傷付けた。二度と傷付けまいとしてきたのに、俺はまた咎を繰り返そうとしている。
奈霧も奈霧で元気がない。いつものはつらつとした笑顔に陰りが見られる。バッティングセンターでホームランを打っても、ボーリングでストライクを出しても、以前はニッと覗かせていた歯の白さを拝めなかった。
やはりハンドメイドの件を引きずっているのだろう。マーケットの低評価爆撃は収まっても、陰った評価星と定着したアンチは健在だ。事が終息しても元通りにはならない。
こんな状態の奈霧に別れを切り出して大丈夫だろうか。自暴自棄になって塞ぎ込んだりしないだろうか。
ない、と思いたい。気の強さは健在だし、芳樹を始めとした良い友人もいる。彼らならさりげなく慰めてくれるはずだ。
今さら引くに引けない。
夕暮れを背景に、この前足を運んだ公園に立ち寄った。
「釉くん、今日はありがとね」
「迷惑じゃなかったか?」
「全然。むしろ連れ出してくれて助かったよ。一人でいると余計なことばかり考えちゃうから」
弱々しい笑みを前に口元を引き結ぶ。
俺はこれから、恋人の弱っている心に追い打ちを掛けなければならない。
俺達を取り巻く運命は相も変わらず残酷だ。小学生の時も、中学生の時も、高校生になってすら変わらない。苦難を乗り越えても別の苦難がやってくる。
俺と奈霧が何をした? どうして普通の生徒生活を送らせてくれないんだ。
終われない。このままお別れなんてあり得ない。
必ず乗り越えてみせる。苦難がやってくるなら、そのたびに打ち勝って穏やかな日々を享受するまでだ。
「どうしたの? 思い詰めたような顔をして」
「そんな顔してるか?」
「してる。別れ話でも切り出そうとしてるの?」
奈霧が冗談めかして笑った。図星を突かれて思わず息を呑む。
弱々しい笑い声が空気に溶けた。笑い飛ばすような笑みがぎこちなさを帯びる。
「え……違う、よね? だってほら、最近の釉くんは違うんだって言ってばかりじゃない? 今回も違うんだって言う、よね?」
栗色の瞳が心細そうに揺れる。
否定したい。こんな冗談は絶対言わないけど、冗談だよと言って微笑みたい。
それができるならこんなに思い悩んでいない。どこに聡さんの間者がいるか分からないんだ。俺の反意を悟らせてはいけない。
これは奈霧のためだ。拳を硬く握りしめて、自分に強く言い聞かせる。
「釉、くん……」
怯えるような震え声を耳にして、俺は地面から視線を上げる。目を逸らしたい衝動をこらえて視線を交差させる。
今の俺にできる、微かでも誠意を伝えられる方法。
目を見合わせるだけじゃ俺の意思を伝えられない。縒りを戻せるかどうかは、今までに積み重ねた信頼と俺の頑張りに委ねられる。
深く空気を吸い込む。
気を落ち着けて口を開いた。
「奈霧、俺と別れてくれ」
うるんだ目が見張られた。繊細な指が丸みを帯びてスカートにしわを刻む。
そよ風が静寂をかき乱した。栗色の瞳が重力に引かれたように落ちる。
「……うん、分かった」
永遠かに思えた沈黙が肯定の言葉で崩れ去った。
俺は奈霧に背を向けて靴裏を浮かせた。土の地面に靴跡を刻み、公園を出て横目を振る。
ぽつんと佇む華奢な人影は、風に吹かれれば飛んでいきそうなほど儚く映った。