第134話 電話
シャワーを浴びてパジャマを身にまとう。パソコンの前に腰を下ろし、メモ帳を参考にしてレポート作成に取り掛かる。
美術館にて、奈霧は少しだけ元気を取り戻したように思う。
あくまで少しだけだ。霞さんは服飾のコンクールでいくつか賞を取っている。目利きじゃないにしても発言には重みがある。ましてや奈霧は霞さんのファンだ。憧憬の念を向ける相手に真っ向から否定されればショックを受けるのが人情だろう。
素人の俺にできることは、一ファンとしての言葉を伝えるところまで。後は奈霧が自分で乗り越えていくしかない。
レポートを終えてノートパソコンを閉じる。棚に並ぶ背表紙を視線でなぞり、数学の問題集に腕を伸ばす。
バイブレーションが室内の空気を震わせた。問題集との睨めっこを中断して腕を伸ばし、デスクの天板で振動する長方形の端末を握る。
考えた末に電話のアイコンをスライドした。
「こんばんは市ヶ谷さん」
挨拶を耳にして、親族の顔が脳裏に浮かぶ。
「こんばんは。どうして聡さんが俺の番号を知っているんですか?」
「秀正から聞いてね。それより聞いたよ。霞さんとぎくしゃくしているんだって?」
「ええ、まあ」
肯定して、疑問が頭をもたげた。
聡さんは、本当に父から聞いたのか?
だって明らかな嘘だ。父はすでに日本を発っている。霞さんとの一件は大したトラブルじゃない。わざわざ伝える必要性は皆無だ。
それでも可能性を挙げるとすれば白鷺さんだけど、白鷺さんと聡さんの仲は良好じゃない。少なくとも屋敷での二人には距離があった。聡さんに報告したと言われてもしっくりこない。
「嫌いにならないであげてね」
思考を中断して、聡さんの話に耳を傾ける。
「誰をですか?」
「霞さんだよ。君と奈霧さんは恋仲だし、彼女の味方をしたくなる気持ちは分かるけどね」
「別に贔屓したりはしませんよ。公正に物を見るように心掛けていますから」
誰が悪いかで言えば、霞さんと言わざるを得ない。
粗末と断じたのはまだいい。デザイナーの卵としてのプライドがあるだろうし、他人に評価を求めるというのはそういうことだ。頼み込んだ時点で奈霧には覚悟が必要だった。
だけど霞さんは、奈霧の作品をソファーの上に放った。
あの行動だけはいただけない。丹精を込めて作った品をあんな風に投げ捨てられたら、誰だってショックを受けて当然だ。白鷺さんが追い掛けていなければ、俺が玄関まで走って苦言を呈したかもしれない。
一方で霞さんを非難するつもりはない。いずれ奈霧に謝ってもらうにしても、俺がそれを促すのは卑怯な気がする。
だから今は何も言わない。
霞さんはアメリカで色々と助けてくれた。そんな従兄妹をただの悪者に貶めるのは抵抗を覚えるから。
「そうか、いやほっとしたよ。彼女根っこは悪くないからね。これからも仲良くしてくれると嬉しいな」
「それは大丈夫ですけど、どうして聡さんがそこまで気にするんですか?」
「どうしてって、伯父が姪を心配するのは当然じゃないか」
「本当にそれだけですか?」
「逆に聞くけど、それ以外に何かあり得るのかい? 私と霞さんの間で」
ノータイムで切り返されて口をつぐむ。
俺は聡さんのことを何も知らない。これ以上の言葉は難癖に堕ちる。
「そうですね。失礼なことを聞いてすみませんでした」
「分かってくれたならいいんだ。それじゃ私は仕事があるから、そろそろ切るよ」
「用件って本当にこれだけだったんですか?」
「そうだよ。じゃあね」
通話が切れてスマートフォンを下ろす。
口では謝罪を述べたけど、本心で悪いとは思っていない。
根拠はない。でも聡さんが霞さんを気にする光景は、どうやっても思い浮かばなかった。