第132話 SNS裏アカウント
部屋に戻って湯を沸かした。連続するインターホンを無視してバスルームに踏み入り、熱々の湯を浴びて身を清める。
アメリカの空気は湿気が少ない。静かにしていれば汗はかかないから、シャワーを浴びるのは早朝や出かける前くらいだった。
日本に来たら、お風呂に浸かる日々を送ると決めていた。張ったお湯に入浴剤を入れて体を洗い、満を持して湯を溜めた浴槽に体を沈める。
鼻腔をくすぐるラベンダーの香り。肌をひり付かせるような湯が、私の雑多な思考をとろけさせる。まぶたを閉じてぼーっとする。最近はこの時間がお気に入りだ。
ほんわかした心持ちで腰を上げる。ふかふかのバスタオルで水滴を拭き取り、ラフな衣服に袖を通す。
ヘアターバンで髪をまとめ、チェアに腰を下ろして擦筆を握る。
ちょっとやり過ぎたかなとは思う。
でも仕方ないじゃん。まだ気持ちの整理がついてないのに、奈霧さんがハンドメイドを見てくれって言うんだもん。釉は見てやってと言わんばかりに視線を送って来るし、今は無理とか言えないよ。
むしゃくしゃをペン先に乗せて線を引く。いつもは羽毛のごとく軽い手なのに、今日に限って分とせず止まる。
暇な時はいつもデザイン画を描いてきた。どんなにむしゃくしゃしたことがあっても、擦筆を握ればもやもやは頭の片隅へと追いやられる。私だけの時間に逃げ込むことができた。
なのに今日は駄目だ。擦筆を握ってもデザインの世界に逃げ込めない。胸の奧で渦を巻くもやもやが集中を妨げる。
「ああ、もうっ!」
苛立ちが口を突いた。擦筆を手放してベッドに身を投げる。ふかふかした感触に身を委ねてスマートフォンを握る。
毎日デザイン画を描いてSNSに投稿している。連ねられている文字の多くは、私のデザイン画を絶賛する声だ。
才能を切り売りしてるみたいで気に食わないけど、このネットワーク社会においてビジネスはSNS抜きじゃ成立しない。時折話題を提供する必要がある、というのはアンナの言だ。
アンナはいつも私に尽くしてくれている。父親は同じなのに、母が不倫相手だから私よりも下の立場に置かれた。伏倉の名字を名乗ることも許されなかった。
なのにアンナは私に当たらない。嫉妬を露わにすることなく、黙々と使用人の立場を受け入れた。紅茶やテーブルマナーの資格を取得するだけじゃなく、私のスケジュール管理も完璧にこなしている。
同性の私から見ても格好良いアンナだけど、私相手にはめったに声を荒げない。甘えてだらだらしても苦笑して応えてくれる。
その理由には、私と境遇が似ていることが関係している。一族から疎まれる身の上。その出自から私とは運命共同体だ。明確な味方は互いだけ。突き放したら孤独に落ちる。アンナもそれが分かっていたから、年甲斐もなく甘える私を突き離せなかったのだろう。
そんなアンナに、人生で初めて叱られた。
割と強めに抗議された。私を味方するのは当然だと思っていたのに、もう最悪の気分だ。
指の腹に苛立ちを乗せて文字を紡ぐ。心の呟きを文章にして世に放ち、指先で液晶画面をタッタッと叩く。
電子的な文字を上へ押しやる内に通知がきた。
いつも私を応援してくれるアカウントだ。ただの愚痴でもすぐに反応して私の味方をしてくれる。
SNSに貼り付いていると考えたら不気味だけど、私に迫ろうとしたことは一度もない。むしろ特定に気を付けるよう忠告されたこともある。私にとってはアンナとユウに次ぐ味方だ。
今となっては一番の味方。エゴサを中断してアイコンをタップする。
電子的な文字に視線を走らせると、毎度のごとく私に同調してくれていた。文章の中にはちょっとした提案も含まれている。
「ちょっとくらい意地悪しても罰は当たらない、か」
両腕をだらんと伸ばして天井を眺める。
意地悪ってなんだろう。それをすれば、この胸のもやもやは解消されるのかな。
脳裏に奈霧さんの顔が浮かび上がる。胸の奥がキュッと締め付けられて、丸まった指がシーツにしわを作る。
あの人は服飾に熱を上げていた。意地悪をするなら、それに関するアクションが最適だ。
一般生徒のレベルがどれほどのものかは知らないけど、私の作品と比べればあのブレスレットは粗末だった。アイデアはユニークでも腕が追い付いてない。あんな物を私に見せるだなんて大胆にもほどがある。
胸の奧がチリッとする。どうして私がこんな思いをしなきゃいけないの? 私は何も悪いことをしてないのに。
考えたらむしゃくしゃしてきた。衝動に任せて、スマートフォンを顔の前にかざす。液晶画面に指の腹を叩き付けて新たな文字を紡ぎ出す。
裏アカウントを介した愚痴の発信。褒められた行為じゃないけど、私だけ嫌な思いをするのは不公平だ。
それは軽はずみな気持ちに任せた悪戯。この程度のやんちゃは、世界のどこかで日常的に行われている。
だから軽く考えていた。スマートフォンを手放して、ちょっとした満足感に浸ってまぶたを閉じた。
自分の行動が、どんな結果を招き寄せるとも知らずに。