第121話 惚気ですか?
始業式は入学式の後日に控えている。二年生の俺は自宅で待機だ。机に向かってノートのページにペン先を走らせる。
帰国するなり学校からお土産をもらった。始業式まで暇しないための宿題と、短期留学で得た知見をまとめるレポート。俺からすればいい迷惑だ。口内を香ばしい苦みで満たしながら作業に勤しんだ。
そして迎えた始業式の早朝。久しぶりに請希高校の制服に袖を通した。外履きに足を挿し入れて、気恥ずかしさを胸に抱きつつドアを開ける。
金銀の少女が制服をまとって佇んでいた。
「市ヶ谷さん、おはようございます」
声を上げたのは隣の少女。微笑を浮かべる白鷺さんに挨拶を返して、改めて金髪の知り合いに目を向ける。
きりっとしている白鷺さんとは対照的に、霞さんの方はむにゃむにゃしていた。
「霞さんは眠そうだな」
「昨晩は夜更かしして――」
言葉は最後まで続かなかった。霞さんの口がふわぁーと口が開きかけて、白鷺さんが手をかざす。
「霞、市ヶ谷さんの前だよ」
「眠いんだもん」
「だから寝た方が良いって言ったのに」
「だっていいアイデア浮かんだんだもん」
「簡単に書き留めればよかったじゃない」
「それじゃ駄目なのー。すぐに取り掛からないとモチベーションが下がっちゃうのー」
伸びた語尾が澄んだ空気を震わせる。霞さんが駄々っ子みたいだ。
「二人ってどっちが先に生まれたんだ?」
「わたしぃー」
「意外だな。白鷺さんの方がお姉さんだと思ってたよ」
「それどういう意味?」
適当に誤魔化してエレベーターに乗り込む。ドアが左右に分かれるなりエントランスを突っ切る。
霞さんの目が覚めた頃合いになって、通学路に華やかな立ち姿が付け足された。
「おはよう釉くん」
小さな顔に微笑が浮かぶ。それもつかの間、奈霧の視線がスライドする。
どこかで見た反応。奈霧が何を考えたのか想像するのは容易い。
「違うんだ」
「市ヶ谷さん、その反応は誤解されます。堂々といきましょう」
白鷺さんが状況説明を口にして視線をスライドさせる。
霞さんが目をぱちくりさせた。頷いて口角を上げる。
「初めまして、伏倉霞です。先日新一年生として請希高校に入学しました」
「伏倉って、もしかしてこの子も?」
奈霧に視線を振られて頷く。
「ああ。二人とも俺の従兄妹なんだ」
「二人って、白鷺さんもなの? 釉くんって外の血縁者多いんだね」
平静に努めているものの、奈霧の表情は微かに強張っている。
気持ちは分かる。霞さんと白鷺さんの顔付きは全然違うし、髪の色だって金と銀だ。入り組んだ内情を察するに余りある。
「これからよろしくお願いしますね、先輩!」
にこっ。花のような笑顔がぎこちない空気を吹き飛ばした。
「先輩……っ!」
桜色のくちびるから呟きがもれた。微かに興奮を帯びた声に違わず、恋人の顔が歓喜に染まる。
歓喜の色がスッと消えた。
「分からないことがあったら何でも言ってね? 試験の問題も、私が覚えてる範囲なら傾向を教えられるから」
頼りがいを醸し出す先輩モード。頼られて嬉しいと言わんばかりの反応だ。恋人の名誉にかけて、俺は口元を緩めないように努める。
「可愛らしい方ですね」
いつの間にか、白鷺さんが近くに立っていた。
「ああ。自慢の彼女だよ」
「惚気ですか?」
「ただの事実だって」
「仲睦まじいのは結構ですが、人前では控えてくださいね。これまで以上に」
「それはどういう意味だ?」
返答はない。白鷺さんが背を向けて距離を取る。背中越しに察して、俺は前方に意識を戻す。
改めて通学路の地面を踏み鳴らす。三人には従兄妹の関係を伏せるようにお願いした。伏倉の名は良くも悪くも影響力がある。友人の前では市ヶ谷でありたい。
三人の了承は得られた。談笑する内に清潔感のある校舎が見えて、どこか郷愁にも似た感情が泉のごとく湧き上がる。
学び舎の門をくぐって昇降口に踏み入ると、廊下に設置されたボード前に人溜まりができていた。
今日は対面式に始業式も兼ねている。三年生にクラス替えはないものの、二年生はクラスメイトが変わる。
緊張が走って背筋が伸びる。
友人が同じクラスにいるかどうかは、これからの学校生活に大きく関わる。俺は口元を引き結んでポケットに腕を突っ込み、スマートフォンの画面に貼り紙を映す。
「風情がないね」
横目を振った先で、奈霧が瞳をすぼめていた。
「クラスを確認する作業に風情はあるのか?」
「あるよ。皆でわくわくしながら見るのが楽しいのに」
「そうなのか。経験したことないから分からないな」
「反応しにくいこと言わないでよ」
繊細な指が俺の手首を握って軽く引っ張る。
「未経験なら今やろうよ。二人とも、ちょっと待っててくれる?」
「はい」
「いってらっしゃーい」
引っ張る力に身を任せて足を前に出す。
離れた指の感触を惜しみつつも、人が減った箇所に体を入れる。ボードを見上げて連ねられた名前を視線でなぞる。
腕に指の感触が戻ってきた。
「あった! あったよ釉くん!」
華奢な体がぐっと近付く。柔らかさに遅れて爽やかな香りが鼻腔をくすぐった。
「どこ?」
「三組!」
三組の貼り紙に視線を向ける。
あった。市ヶ谷釉に奈霧有紀羽。俺達は同じクラスだ。
「これから一年間よろしくね」
「二年間じゃないか? 三年に進級する際はクラス替えしないし」
同じクラスになった生徒とは長い付き合いになる。一時期はクラスメイトなんてどうでもいいと思っていたのに、何だか不思議な気分だ。
また人口密度が上がったのを感じてボード前を後にする。どうせクラスメイトとは教室で顔を合わせるんだ。他の面子はお楽しみに取っておこう。
二年生と一年生では教室のある階層が違う。新一年生の二人と別れて階段に足を掛ける。
新たな教室が見えてきた。プレートに記された三の数字を見て気を引き締める。
ドアを開けた先には、これから二年間を共にするクラスメイトがいる。
人間最初が肝心だ。俺はドアの取っ手に指を掛け、自然を装って腕を引く。
「あ、市ヶ谷さんおはよーっ!」
しなやかな腕が上がる。満面の笑みに歓迎された。