第115話 終わったんだよ
「お茶どうぞー」
茶碗の載った受け皿がテーブルの天板を鳴らす。居間に煎茶特有の深みある香りが充満する。
俺達をもてなすのは母方の祖母だ。心の氷を解かすようなにこにこ笑顔が柔和な雰囲気を醸し出す。頑固な祖父と違って穏やかな人だけど、少々思い込みが激しい。
煎餅入りのお椀がテーブルの中央に据えられる。
「これもどうぞ。ささ、遠慮なく食べてね」
「ありがとうございます」
ぐいぐい勧められて、俺の隣で端正な顔が戸惑っている。お茶、菓子、ケーキ。色々並べられたテーブルの上はちょっとしたバイキングだ。はしゃぐ祖母が数十年若返ったように見える。
「まさか釉が、こんな可愛い彼女さんを連れて来るなんてねぇ。感慨深いわぁ」
小さい頃の俺を想起しているのか、優し気な顔立ちが恍惚とする。
意図せず頬が熱を帯びる。
「やめてくれ、恥ずかしいから」
似たやり取りをした覚えがある。いつ誰と交わしたんだったか。
「奈霧さんは、釉と小学校が同じだったのよね?」
「はい。その節は、釉さんにはお世話になりました」
釉さん。
聞き慣れない呼称だ。どうしてだろう、耳にすると妙にこそばゆい。
祖母が自身の頬に手を添える。
「思い出すわぁ。釉に小学校での話を聞くとね、決まって奈霧さんの名前を出していたの」
「お祖母ちゃん、俺は思い出話をしに来たわけじゃないんだよ。お祖父ちゃんのあれは何?」
「あれって?」
「玄関での仁王立ちだよ。父さんは分かってる感じの空気出してたけど、以前もああやってしごいてたの?」
「ええ。秀正さんが来訪する時は、いつも道場で組み手をしてたわ」
「知らなかったな。玄関で仁王立ちしてたし、何事かと思った」
「分かってあげて。きっと英男さんは不安だったのよ」
「不安って何が?」
「秀正さんは細身だし、百合江は病弱だったでしょ? 秀正さんが倒れたら、百合江一人で釉を養わなきゃいけない。もちろんその時は私達も手を貸すつもりだったけど、あの子は変な所で頑なだったからねぇ。事実一人でどうにかしようとして、私達より早く逝っちゃった。親不孝な子だよ」
朗らかだった表情に陰りが差す。
伏倉百合江は俺の母。
その一方で祖父母の娘だ。終わったこととはいえ、そう簡単に割り切れるものではないのだろう。
祖母がハッとする。
「ごめんなさい。せっかく奈霧さんが来てくれたんだもの、こんなお話ししたら暗くなっちゃうわよね」
「いえ。もしよかったら、百合江さんについてのお話を聞かせてください」
気を遣ったのか、それとも単なる興味か。
どちらにしても、雰囲気を戻すに足る言葉だった。俺達は祖母の話を耳にしつつ、煎茶の苦みで口内を満たした。
◇
思い返すと、母の話をがっつりと聞いたことはなかった。父は出禁をくらっていた上、祖父母はタブーのように母の話題を避けていた。
俺は俺で、心の傷を癒すのに時間が掛かった。立ち直ってからは、奈霧への筋違いな復讐に燃えて自己研鑽に努めた。両親のことを考える機会には恵まれなかった。
だから今日は来てよかった。母の話を耳にする機会に恵まれたし、父と祖父の体面は比較的穏便に済んだ。何だか得をした気分だ。
スタスタとした音が聴覚を刺激して、俺はオレンジ色の空から視線を外す。
「体が冷えるぞ」
足音の主は祖父だった。スリッパが俺の近くで止まる。
「隣いいか?」
「ああ」
祖父が廊下の床に腰掛けて、庭の方に脚を放り出す。
ひんやりとした風が髪を撫でる。四月前でも日が落ち始めると肌寒い。祖父は大丈夫だろうかと思ったものの、二人きりなこの状況は好都合だ。切り出すなら今しかない。
「父さん、玄関前まで来たことあったんだな」
「ああ」
「責めるつもりはないけど理由を教えてくれ。どうして黙ってたんだ?」
「釉は、当時自分が何をしていたか覚えてるか?」
問いに問いを返されて戸惑った。意味のある問い掛けと信じて答えを探す。
「どうだろう、ぼーっとしてた気がする」
「そうだ。ずっと空ばかり眺めていた」
祖父が空を仰ぐ。
「目の前に庭があっても、小鳥がさえずっても、晴天雨天関係なく空模様を眺めていた。儂らには、釉が百合江の元に行きたがっているように見えたんだ。嵐が来たら、そのまま飛んで行ってしまうんじゃないかって、本気でそんなことを考えていた」
復讐を誓ってからのことは、今でも鮮明に思い出せる。
逆にその前の記憶は朧げだ。母が亡くなった。父は母の葬式に来てくれなかった、いじめで心に負ったダメージが残っていた。いくつかの要因が重なって、脳の処理能力がオーバーフローを起こしていたのかもしれない。
「だからな、釉が元気になった時は嬉しかったよ。勉強や空手に興味を示して、これで安心だと思った」
「それは」
「分かっとる。復讐を考えて再起したんだろう? 儂に教えを請わず、わざわざ通信教育で空手を習ったんだ。察するまで時間は掛からんかったよ」
祖父の言は全部合っている。戦化粧として母譲りの黒髪を染めたように、祖父から習う空手を復讐に使いたくなかった。
それでも武器が欲しかったから通信教育に手を伸ばした。祖父は師範の資格を持っている。教えを請わない俺の動きは、さぞ不自然に映ったはずだ。
「釉の目的を悟った時は悩んだよ。致命的な事態が起こる前に、秀正と会う機会を設けるべきかとな。だが儂も婆さんも言い出せんかった。復讐対象を失ったら、釉はまた空を眺める日々に戻ってしまうんじゃないか。そんな予感がして怖かったんだ。今考えると、勇気を出して打ち明けるべきだったのかもしれん。黙っていてすまなかった」
祖父が向き直って頭を下げる。
正直、ちょっと困惑した。
「お祖父ちゃんは、俺が父さんに復讐すると思ってたのか?」
「違ったのか?」
「あ、いや」
俺は苦笑いで誤魔化す。
言えない。父さんを恨むどころか、奈霧への報復を考えていただなんて。義理の息子とよその子女では話が違う。祖父に真相を打ち明けても、余計な負い目を担わせるだけだ。
奈霧には赦してもらった。初恋は実って恋仲に落ち着いた。終わり良ければ全て良しだ。
「とにかく顔を上げてくれよ。その件に関してお祖父ちゃんは悪くないんだ。罰せられるべき人は父さんが放逐したし、俺も過去の因縁にケリを付けた。もう全部終わったんだよ」
いじめの扇動者は警察にしょっ引かれ、父を潰そうとした叔父は僻地に消えた。
失われたものは戻らない。
その一方で取り戻せたものもある。喪失感に心を痛めるよりは、手の中にある幸せに思いを馳せた方が建設的だ。
「釉くん、こんな所にいた」
質素な廊下に華やかな立ち姿が付加された。
俺は口角とともに腰を浮かせる。
「悪い、探させたみたいだな。準備はできたのか?」
「できたよ。防寒対策もばっちり」
「なら行くか」
俺は祖父に向き直る。
「じゃ出掛けて来るよ」
「もうそんな時間か。夜道は暗い。懐中電灯やヘッドライトは持ってるか?」
「全部準備してきた」
「なら問題ないな。彼女さんと楽しんで来なさい」
祖父が口元を緩める。眩しい物でも見たように双眸が細められた。
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