第113話 市ヶ谷宅へ
玄関に朝の空気を迎え入れて、通路と玄関を一枚のドアで隔てる。エレベーターを経てエントランスのチェアに腰掛ける。
英単語アプリに目を通すこと数分。視界に映るドアが左右に退く。
「おはよう奈霧」
「おはよう。日本の時間には慣れた?」
「ああ。時差ぼけはもう克服したよ」
スマートフォンをポーチの中に収めて、隣に腰を下ろした恋人と談笑に励む。
集合時刻の十分前になって、もう一度自動ドアが音を立てた。
俺はチェアから腰を浮かせる。同じタイミングで奈霧も立ち上がった。
俺達は母の墓参りに行く。それだけなら奈霧が同行する意味はない。
一方で市ヶ谷宅は田舎にある。都会と違って、夜空を突き上げる人工的な光が少ない。ハロウィンの日に交わした約束を果たすには都合が良い。
軽く挨拶を交わして、父が奈霧に向き直る。
「両親からは許可をもらったって話だけど、本当に大丈夫?」
「はい。きちんと話は通しました」
「驚きだね。勲さんは君を溺愛している節があるし、お泊りと聞いたら反対すると思っていたよ」
「私の父を知っているんですか?」
「ああ。ここだけの話、勲さんの会社に融資したことがあるんだ」
「そうなんですか? 初耳です」
「僕は変装をしていたし、伏倉姓を名乗らなかったからね。勲さんが気付かないのは無理もないよ」
仮に伏倉秀正の名を耳にしても、勲さんが俺の父と看破したかどうかは怪しい。勲さんも父の名字に覚えはあるだろうけど、伏倉の名は界隈で広く知られていると聞く。その子息が一般的な学校に在籍しているだなんて想像する方が難しい。
三人でマンションのエントランスを後にする。
車の前にはアメリカで見た運転手が立っていた。質素な車体の外装に相応しく身なりも私服。目立つことを良しとせず、カメレオンのごとく溶け込むことを重視している。
俺は会釈して後部座席に乗り込む。全員乗り込んだのを機に、車窓から見える建物が目尻へと消える。
「対話を提案した身だけどさ、市ヶ谷家に顔を出して本当に大丈夫なのか?」
「大丈夫だよ。釉と和解したことは伝えたし、不法侵入で通報はされないと思う。少なくとも鉄拳以上のことはされないよ」
「え、鉄拳?」
奈霧が目をぱちくりさせる。
俺も初めて聞いた時は驚いた。どんなに非のある相手でも、社会は人を殴ることを良しとしない。当時は父が自罰を望んだから穏便に済んだだけだ。今度そうなったら俺が止めなくては。
「釉は市ヶ谷家に身を置いていたんだよね。戻るのはいつ以来だい?」
「入学式前に出発して以来だな。父さんは婚約の挨拶か?」
「いや、釉を引き取ったと聞いて赴いた時以来だよ」
「俺の様子を見に来てたのか?」
父が目を丸くする。
「あれ、言ってなかったっけ。玄関前で殴られた話をしたと思うんだけど」
「玄関前で殴られたのかよ」
初耳だ。父が様子を見に来たなんて聞いたこともない。祖父が意図して伏せたのか? 何のために?
思考を巡らせる内に慣性が止まる。
パーキングエリアに到着した。飲食物を購入し、再度車に乗り込んで背もたれに体重を預ける。
小休憩を挟みつつ移動すること約三時間。車窓に緑がちらついた。開けた窓から土と樹木の芳香が雪崩れ込み、比例して窓の向こう側を占める緑の割合が増える。
途中で父と席を交換した。言葉や指先を用いて車の進行ルートに指示出しする。
車体に掛かる慣性が止まった。窓を閉めてドアノブを引き、再度車内に外気を迎え入れる。土の地面に靴裏を付けて、自然あふれる景観を見渡す。
変わらない。一年しか経っていないのだから当たり前だけど、郷愁の情が泉のごとく湧き上がって止まらない。
「釉、百合江の元まで案内を頼むよ」
「ああ」
奈霧と父を連れて墓地に足を踏み入れる。並ぶ墓石を視界の隅に追いやって、奥へ奥へと歩を進める。
「ここだ」
長方形の墓石前に立つ。祖父や祖母が定期的に通っているためか、墓石周辺は比較的綺麗だ。
花束と火を付けた線香で墓石を飾る。蝋燭を立てて火を灯し、三人で一礼する。
「二人とも、少し百合江と二人きりにしてくれるかな?」
微笑の下方で、父の指がボトムにシワを寄せる。
俺は身を翻す。
「奈霧、行こう」
元来た道を辿る。靴裏を浮かせて、飛び石の上に足を乗せる。石面を踏み鳴らす途中で振り向くと、父が瞳をすぼめて口を開閉させる。
何を語り掛けているのだろう。三人で暮らした頃の記憶が朧げな俺には知る由もない。