第111話 浮気疑惑
本日は連続投稿となります
空港の外に靴裏を付けた。コンクリートの地面を踏み鳴らしつつ、奈霧に土産話を披露する。
懐かしき母国の空気を突っ切って、目に付いたシックな建物に靴先を向ける。
ドアの取っ手を引くなり鈴の音に歓迎された。香ばしい匂いの空間を突っ切って、奈霧と暗褐色の木製テーブルを挟む。
注文を終えて談笑の続きに洒落込もうとした時、奈霧が口元に手を当てた。長い睫毛が重なり、間の抜けた吐息がテーブル上の空気を震わせる。
「眠いのか?」
「うん……遅くまで作業してたから」
「作業?」
春休みの宿題を作業とは言わない。
他に作業と称するものを思い浮かべて、思い付いたワードを口にする。
「通信教育で課題でも出てたのか?」
「うん。たくさん宿題を出されちゃって、昨日まで掛かりっきりだったの」
「春休みはまだあるんだし、ハイペースで片付けなくてもいいんじゃないか?」
「それはそうだけど、約束したでしょ?」
「約束?」
「帰ってきたら、またデートしようねって。忘れたの?」
白い頬が小さく膨らむ。
胸の奥がぽかぽかとして、何となくテーブルの天板に視線を落とす。
覚えている。確かに出国前に告げられた。改めて言われると妙にこそばゆい。
しかしデートか。アメリカにいた頃は、英語と勉強に忙殺されていた。デートの行き先なんて考えたこともない。
さて、どこにしたものか。
「あれ、市ヶ谷さんと奈霧さん」
視線をずらした先に既知の顔があった。肩に届かない黒い髪、知的な印象を付与する眼鏡。今度は名前を覚えている。花宮生徒会長だ。
いや、元生徒会長か。すでに卒業しているだろうし、四月には大学生のはずだ。
「こんにちは花宮先輩。カフェで一服ですか?」
「うん、新商品出たから寄ってみた。二人はデート?」
「似たようなものです。帰国してすぐ帰るのも味気ないので、カフェで少し話そうかと」
「短期留学だっけ? いいなぁー私も行きたかった。あ、お邪魔じゃなければ同席していい?」
「いいですよ」
「ありがとう」
花宮先輩が靴裏を浮かせる。
奈霧の隣に座る――ことなくテーブルの横を擦れ違った。私服姿が俺の隣に腰掛ける。
奈霧の微笑が強張った。
「ど、どうして釉くんの隣に座るんですか?」
「さて、どうしてだろ。ね?」
花宮先輩が小首を傾げて上目遣いを向ける。
何だ、その意味ありげな態度は。奈霧に誤解されたらどうしてくれる。
「釉くん、説明して」
「俺は何もしてないからな?」
これじゃ本当に俺がやらかしたみたいだ。こんなしょうもない冗談で関係がこじれるのは勘弁してほしい。
隣で愉快気な笑い声が上がった。
「冗談冗談! 奈霧さんが心配するようなことは何もないって。私と市ヶ谷さんは、図書館でナポレオンを勧めただけの仲だよ」
「ナポレオンって、フランスの軍人の?」
「そ、ポナパルト。市ヶ谷さんが生徒会長の名前すら覚えてなかったから、ナポレオンがいかに人心を掌握したか教えてあげたの」
「別に会長の名前を忘れてたわけじゃないですよ」
「思い出せなかった時点で同じでしょうが」
レンズ越しに瞳が細められた。
もしや根に持つタイプなのだろうか。咎める視線を視界から消して、窓の向こう側を仰ぐ。
うん、今日もいい天気だ。
「とにかく誤解は解けただろう? 機嫌を直してくれ」
「私は説明してって言っただけだよ」
「その割に目がマジだったぞ」
「そう? 私は捨てられた子犬みたいに見えたなぁ」
「先輩はもう口閉じてください」
また愉快気な声が上がった。文化祭で二人きりにしてもらった恩義が無ければ、押しのけて席を立っていたかもしれない。
花宮元先輩が満足げに息を突く。
「菅田さんと波杉さんが言ってた通りだね。普段は凛としてるのに、おちょくるとこんなに可愛いんだ。知らなかった」
「やっぱりあの二人の仕業でしたか」
「他人事みたいに言わないの。釉くんが美人の先輩に弱いからいけないんだよ」
「それ理不尽って言わないか?」
あの二人には恩があるから強く出れないだけだ。容姿の良し悪しは関係ない。
一悶着の原因が呼び鈴を鳴らした。店員が元先輩の注文を聞き届けて背を向ける。
奈霧がむすっとしながら口を開く。
「先輩、遅れましたけど合格おめでとうございます」
「ありがとう。祝ってくれるなら嬉しそうに言ってよ」
「先輩が意地悪しなければそうしてました」
「それは残念。それでそれで? 市ヶ谷さんは短期留学で何を学んできたの?」
「強いて言うなら、価値観を砕いて再構成してきました」
「と言うと?」
「思ったより色眼鏡を掛けてたことに気付かされましたね」
都会のビル群は東京に勝る一方で、都市を離れると一気に不便さが増す。
食べ物は大きいし味が濃い。芳樹や佐田さんは大喜びで平らげそうだけど、俺の舌には合わなかった。あの国で自己破産する人の六割は治療費が原因と聞くし、色んな意味で極端な国柄なのだろう。
店員が足を止めてお盆に腕を伸ばす。皿の底がテーブルの天板をことっと鳴らし、ケーキの鮮やかな色合いが視界を飾る。
香ばしい匂いに誘われてコーヒーカップに手を伸ばす。
「花宮先輩は奈霧と仲良いんですか?」
「ええ。もう大親友よ。あなた達二人は時の人だったし、放っておく理由がないでしょ」
「何だ、それが理由ですか」
「おや、露骨に落胆したね」
「きっかけとしてはつまらなかったもので」
湯気の立つ液体を再度口に含む。
ブラックを飲まなくなって久しいけど、こうして口にすると美味しい。アメリカでの一件が俺を成長させたのだろうか。
ブラックが飲めるから成長しただなんて、発想がちょっと子供っぽいか。
「きっかけなんてつまらなくていいと思うけどね」
「そういうものですかね」
「だって、取っ掛かりがないと何も始められないじゃん。娯楽にはいくつも種類があるし、その中からやりたいこと見つけるのは大変だよ? 市ヶ谷さんだって、理事長が変わらなかったら留学しなかったでしょ」
「そうですね。日本を出ることはなかったと思います」
アメリカでやりたいことはなかった。貴重な機会を得たから身を投じただけだ。仮に父が介入しなかったら、俺がアメリカの地を踏むことはなかったと断言できる。
「私さ、大学出たら国外で働きたいんだよね。絶対今年の内に留学する」
「早稲田に進んだのもそれが理由ですか?」
「うん。留学に強い大学だから丁度良かったよ。留学って言えば、留学を推進した理事長と君は凄く似てるよね。ひょっとしてお兄さん?」
「違います」
「ふーん」
瞳をすぼめられて、俺はそっと視線を逸らす。
嘘じゃない。俺は父の息子であって弟じゃないんだ。虚偽は一切述べてない。
「先輩は理事長に興味あるんですか?」
「そりゃ伏倉秀正って言えば、投資家の間じゃ有名だからね。一度話を聞いてみたかった」
「話せなかったんですか?」
「うん。あの人すぐどっか行ったからね。個人的な興味もあったし、挨拶の後ですぐ突撃するんだった」
視界の隅で何かが揺れる。
奈霧がまぶたを閉じていた。長い睫毛を一つにして安らかな寝息を立てている。
「奈霧さん寝ちゃったか」
「道理でさっきから会話に入ってこないわけですね」
俺もカフェインを摂ってなかったら危なかった。奈霧は紅茶に手を付けてないし、それが命運を分けたのかもしれない。
「市ヶ谷さんは奈霧さんの趣味知ってる?」
「服飾でしょう? 通信教育の先生から多めの課題をもらったとか」
「そこまで知ってるんだ。、ならフォローはしなくてもいいよね」
「フォロー?」
「ほら、私達が話してる途中で寝ちゃったからさ。変な誤解されたら可哀想でしょ?」
「そんなこと思いませんよ」
空港で抱き締めた時にシャボンの芳香がした。わざわざお風呂に入ってから迎えに来てくれたんだ。そこを誤解するほど鈍感じゃない。
「そりゃ良かった。奈霧さん、君が渡米してから元気なくてさ」
「そうなんですか? ビデオ通話で話した時は平然としてましたけど」
「男が自分を高めようって国を発ったんだよ? さすがにそんな姿見せられんって。君が帰国する日をずっと楽しみにしててさー、もう可愛いのなんのって」
「また怒られますよ?」
呆れ半分、嬉しさ半分。先輩が苦笑する間に頬の熱を引かせようと試みる。
空港では思わず抱き締めたけど、今日を楽しみにしていたのは俺だけじゃなかった。その事実に胸の奥がほっこりして、そっと恋人の寝顔に横目を向ける。
「女の子の寝顔、あまり見ちゃ駄目だよ?」
「見ませんよ」
いや見るけど。無防備に寝息を立てるさまは少しドキドキする。
こんな機会はめったにない。宿泊研修では俺の寝顔を撮られたし、奈霧の寝顔をまぶたの裏に焼き付けても罰は当たらないはずだ。
「んじゃ、お邪魔虫はそろそろ退散しますよーっ」
「もう行くんですか?」
「うん。弟の面倒みないといけないから」
「弟いるんですね」
「いるよ。ちょっと前まで小生意気なお子様だったのに、最近女の子を自宅に連れてきやがってさー。子供の成長は早いねぇ」
「先輩も未成年ですよね」
先輩がからからと笑って腰を上げる。
「本当に行くんですね。さっき注文したコーヒーはどうするんですか?」
「君にあげるよ」
「いらないんですけど」
「じゃ奈霧さんの寝顔代ってことで」
「出血大サービスですね」
「じゃ諭吉ちょうだい」
「調子に乗らないでください」
先輩が悪戯っぽい笑みを残してカウンターへ向かう。
店の外に消える背中を見送って、再度あどけない寝顔に視線を戻す。
「コーヒーお持ちしました」
バッと振り向いて応対した。店員から寝顔代金のコーヒーを受け取り、微かな背徳感とともにカップの取っ手を握る。
しばらく寝かせてあげよう。せめて店内が混むか、カップ内のコーヒーが枯渇するまでは。
俺は携帯端末を顔の前にかざす。店内の様子を気にしながら時の流れに身を任せた。
お読みいただきありがとうございます。
面白いと思っていただけたなら、下の☆☆☆☆☆から作品への評価をしていただけると励みになります。
ブックマークしていただければ更新が分かりますので、是非よろしくお願いします。