第110話 帰国
アナウンスが航空機の客室を駆け巡った。
俺はシートベルトをしてチェアに身を委ねる。後方へ流れ行く景色をぼんやり眺める内に、海水に浮かぶ地面が存在感を増す。コンクリートが迫るにつれて、胸の奥からそわそわしたものが湧き上がる。
僅かな振動に遅れて、掛かっていた慣性が沈黙に溶け消えた。
周囲の座席から人型がにょきにょき伸びる。俺もチェアから腰を上げて、ぞろぞろと動き出した背中に続く。数か月ぶりに母国の外気に身を晒した。
空港に踏み入ってペンを握る。検疫質問表に文字を連ねて、日本人用のカウンターに足を運ぶ。
同行者を待ってはいられない。入国審査を終えてキャリーバッグを回収し、中身の確認を終えて税関に臨む。
逸る気持ちを抑えて足を前に出す。
視界に絵になる立ち姿が映った。端正な顔立ちがパッと華やぎ、タイツで黒く染められた脚が前に出る。
胸の奧から込み上げるものを感じて、自然と足が速くなった。途中でキャリーバッグの取っ手を放り出し、迫る華奢な体を強く引き寄せる。
「ひゃっ!?」
柔らかさが腕の中でぴくっと硬直した。
びっくりさせたことを申し訳なく思いつつも、解放しようとは思わない。赤みを帯びていく耳すらも愛おしい。
「あの、皆見てるんだけど……」
「年が明ける前に自分がしたこと忘れたのか?」
「あれはその、厄除けと言うか、マーキングと言うか」
「じゃあ俺もそれだ」
「じゃあって、絶対今思い付いたよね」
口ではそう言いながらも、細い腕が背中に回る。
寂寥感を覚えていたのは俺だけじゃなかった。それが何とも嬉しくて、抱擁する腕に力がこもる。
「ひどいなぁ釉。僕を置いて行くなんて」
靴音が近付いて振り向く。
スーツ姿の父が苦笑いを浮かべていた。同じ便に乗っていたのだからこの場にいるのは当然だけど、たった今恋人が再開を喜び合っていたんだ。もう少し空気を読んでほしい。
大きな目が丸みを帯びる。
「あれ、理事長? どうしてこんな所に」
「釉と同じ便に乗っていたからだよ。そういえば、こうして君と話すのは初めてだったね。初めまして奈霧さん。僕は伏倉秀正、釉の父です」
奈霧が目をぱちくりさせる。俺と父の顔を見比べて、さらに目を瞬かせる。
「まさかとは思ってたけど、本当に肉親だったんだね」
「ああ。血は繋がってる」
「仲が良さそうに見えるけど、釉くんのお父さんって……」
気まずそうな響きが空気に溶けた。
奈霧は俺の母が亡くなった経緯を知っている。アメリカで情報がアップデートされた俺と違って、奈霧が知る俺の父は、伴侶と子を捨てた毒親だ。穏やかな心持ちではいられないだろう。
「奈霧、全部誤解だったんだ。後で説明するから、今は自然に接してくれ」
「そっか。分かった、後でちゃんと聞かせてね」
奈霧が微笑んで父に自己紹介を返す。
父も朗らかに口角を上げた。
「君達を見て安心したよ。これだけ視線がある中で抱き合うなんて、二人は相変わらず仲が良いんだね」
息を呑む音に遅れて、温かみがバッと離れた。
「ち、違うんです! これは、その」
「誤魔化さなくてもいいよ。君達がそういう仲になったことは知っているから。僕が言えた義理じゃないかもしれないけど、そうなればいいと思っていたんだ。おめでとうを言わせてほしい」
「……ありがとうございます」
栗色の瞳が気恥ずかしそうに逃げる。まるで婚約したカップルを祝うような物言いだ。俺まで面映ゆくなってくる。
父と視線が交差する。
「先に用事を済ませてくるよ。終わったら追って連絡する」
「土曜日を開けておけばいいんだよな?」
「うん、そうしてくれると助かるよ」
父が靴裏を浮かせる。年齢に似つかわしくない笑みを残して、スーツをまとう背中が人混みに消えた。
「随分距離が縮まったね」
「そうか?」
「そうだよ。日本を発つ前はすっごく嫌そうにしてた」
艶やかなくちびるが微かに弧を描く。
バツが悪くなって奈霧と擦れ違う。
靴音が迫り、視界の隅に亜麻色の長髪が映る。
「俺達も行こう。小腹が空いたし、どこか寄って行かないか?」
「私はいいけど、フライトで疲れてないの?」
「多少疲労は残ってるけど、談笑できないほどじゃないよ」
靴音が迫り、視界の隅に亜麻色の長髪が映る。
俺は恋人と肩を並べて空港の出口を目指す。