第109話 息子と父
そわそわしながら窓の向こう側に視線を向ける。
鉛色とまでは行かなくても薄暗い。晴れそうな、もう一降り来そうな、どちらとも言えない色合いの空。視界に映すだけで気分が沈む。
天気と人の営みは関係ない。精神統一して待っていると、室内に電子的な音が伝播した。
インターホンのモニターを視認して、廊下に繋がるドアを開ける。廊下の床を踏み鳴らし、ドアノブを捻って玄関と外の通路を繋げる。
「こんにちは」
生物学上の父。端正な顔立ちに浮かぶ微笑は、どこかぎこちない。
俺は挨拶を返して迎え入れる。客人が擦れ違った拍子にドアを施錠し、元来た廊下を戻ってキッチンに立つ。用意した茶葉をこして、お盆に二個の茶碗を載せてリビングに踏み入る。
「緑茶をどうぞ」
「ありがとう」
茶托を天板に敷いて、茶碗をそっと載せる。薄い緑色の液面に波紋が広がる。
「玉露か。釉は日頃から茶をたしなむのかい?」
「いえ、普段は玉露なんて飲みません」
仮にも伏倉家の当主。舌は高級品の味に慣れているはず。そう考えて、今日に備えて高級品を仕入れておいた。これで話がうまく運ぶとは思わないけど、無いよりはマシだ。
伸びた腕が茶碗を掴む。
「僕も一時期はまったよ。お義母さんが茶道の許状を持っていてね、百合江の実家を訪れるたびにご馳走になった。美味しかったなぁ」
生物学上の父が茶碗の縁に口を付ける。何のためらいもなく碗を傾けた。毒が入っているとは思わないのだろうか? いささか不用心が過ぎる。
「飲まないのかい? お茶は温かい方が美味しいよ」
「では俺も」
自身の茶碗を持ち上げる。
薄緑色の液体を口に含むなり、深みのある和の香りが鼻腔を駆け抜ける。甘みとコクのある味わい。遮光栽培された茶葉特有の覆い香だ。
「落ち着いたかい?」
「何のことですか」
「玉露にはテアニンが含まれている。リラックス効果やストレスの抑制効果が認められているんだ。知っているだろう?」
俺は静かに拳を固く握り締める。
さすがによく知っている。紅茶やハーブティーの類は露骨と思って避けたけど、逆に小賢しいと思われただろうか。
駆け引きを仕掛けても勝てる気がしない。これ以上は自分の首を絞めるだけだ。
俺は意を決して口を開いた。
「俺は、請希高校から移りたくありません」
「どうして? 今の学校を卒業した方が何かと有利だよ。奈霧さんがいるから請希高校こだわる理由は分かるけど、そういう依存じみた関係を彼女が望むかな?」
「望まないでしょうね」
「だったら、なおさら今の学校に転入するべきだよ。声を聞きたいならビデオ通話があるし、長期休みにでも帰国すればいい。そもそも請希高校を志望した理由は復讐だろう? 不健全だよ。二年生からでもフレッシュな場所で勉学に励むべきだと思うけどね」
「確かに、入学動機は褒められたものではありません。でも、良い友人ができたんです。幼馴染と仲直りできたし、相手と向かい合って話す大切さを学びました。いずれも請希高校に入ったから得られた経験です」
留学先の方が有利なのは理解している。マンションでの暮らしは快適だし、理事長とは強いコネがある。少なからず友人もできた。毎日新しいことを学べて飽きが来ない。
でもそれは請希高校だって負けていない。入学動機こそ間違っていたけど、あの場所で得られたのは本物だ。俺はあの賑やかな友人達と一緒に学びたい。
「学歴や地位の大切さは理解しています。でもあの学校でなら、もっと大切なことを学べる気がするんです。転入の件は、どうか考え直していただけないでしょうか」
お願いします。俺は告げて、上体を前に傾ける。
言いたいことは言った。後は生物学上の父が首を縦に振るまで、眼前の床とにらめっこするのみだ。
沈黙が、続く。
裁判の判決を待つ心持ち。左胸の奧がバクバクと鼓動を打つ。
「……いいのかい?」
永遠かに思えた沈黙が破られて、俺はおもむろに顔を上げる。
端正な顔に貼り付いていた微笑が鳴りを潜める。
「留学先には様々な環境が整っている。学閥があるから卒業後も有利に立ち回れるし、理事長には個人的な貸しがある。多少強引なことも僕の名前を使えば通せる。キャリアの積み上げがグンと楽になるよ?」
「承知の上です」
「それだけじゃない。伏倉家の当主になれば財界にも名を連ねられる。社会において資産は力だ。気に食わない相手を法に触れることなく潰すこともできる。百合江を捨てた僕が憎いだろう? 許せないだろう? 僕から全てを奪える最短ルートだ。引導を渡す機会を棒に振って、釉は本当に後悔しないのかい?」
寂し気な瞳に見据えられて、俺は思わず目を見張る。パズルのピースが噛み合ったみたいで、しっくり来る感覚があった。
この人は、奈霧と和解する前の俺と同じなんだ。罪の意識があって、苦しくて、なのにどうすれば罪を贖えるか分からない。
だから霞さんや白鷺さんを救ったのだろう。屋敷で耳にした会話のおかげで、彼女らの父と因縁があるのは知っている。言ってしまえば仇の子だ。追い出そうと考えるのは自然なはずで、手段はいくらでもあった。
でも眼前の男性はそうしなかった。
情けや憐れみはあっただろう。それ以上に贖いの面が強かったのは想像に難くない。この人の時間も、俺の母が亡くなった時から止まっていたんだ。
すーっと胸の内から何かが抜ける。自然と口元が緩んだ。
「後悔するかどうかは、正直よく分かりません。俺はあなたを憎んでいました。今も思うところはあります。でも請希高校での日々で、人は年齢問わず間違えることを知りました。赦すことの強さを、憎悪とは無縁な生活の心地良さを知りました。まあ、掻い摘んで言うとさ」
俺は口角を上げて、眉をハの字にした顔に微笑みかけた。
「もう、誰かを憎むことに疲れたんだよ。父さん」
視界内で二つの目が見開かれる。
請希高校に入学した当初は、奈霧と言葉を交わしただけで強い虚脱感に苛まれた。
佐郷や壬生の悪事を暴露してからは、長い間悪夢にうなされた。
人を憎むのは疲れる。脳の容量を埋め尽くされるあの感覚は鬱陶しくて仕方ない。あんなものに振り回される人生は二度と御免だ。
父の瞳がまぶたで覆い隠される。
沈黙を経て、おもむろに目が開かれた。
「そうか、嫌と言うなら仕方ないね。転入の件は取り下げるよ。時に、釉は百合江の墓がある場所を知っているかい?」
首を傾げそうになった。
墓石の場所は知っている。母方の祖父なら父に墓の場所を伏せてもおかしくないけど、伏倉家の資金力があれば暴くのは簡単だ。父が知らないのは道理が通らない。
もしや俺に案内して欲しいのか? 墓参りに行くなら、息子と一緒でなければと自戒していたのだろうか。
推測して、苦々しい笑みが込み上げる。
俺の面倒くさい性格は父譲りだったらしい。繋がりが感じられて、胸の内がくすぐったくなる。
父が目をぱちくりさせた。
「僕は、何か面白いことを言ったかな?」
「いや何も。墓の場所だったな。言葉じゃ分かりにくいだろうし、同行して案内するよ。予定が空いてる日はある?」
「三月の後半なら空きはあるけど、それ以降はスケジュールが埋まっているね」
「それなら三月最後の週の土曜日にしよう。市ヶ谷の家にも顔を出して、祖父としっかり話をしようよ」
眼前にある顔が引きつった。
「またお義父さんに殴られそうだなぁ。あの人の拳、年甲斐もなく痛いんだよね」
思わず目を見張る。
凄いな祖父。伏倉家の大きさは知っていただろうに、よく喧嘩を売るような真似ができたものだ。向こう見ずと言うか何と言うか。
唖然としていたことを自覚して、俺は言葉を募らせる。
「どうせ事情を事細かに説明してないんだろう? この際だし、誤解は全部解いておくべきだ。必要のない自罰なんて周りが迷惑するんだから」
奈霧が追いかけっこして感情を発露させたように、全ての被害者が加害者の破滅を望むとは限らない。赦したいと願う人だっているんだ。勝手に堕ちて行かれるのは寝覚めが悪い。
「でもなぁ」
「でもじゃない、やるんだよ!」
意図せず口調が強くなった。
中性的な顔立ちが苦々しく口角を上げた。
「分かった、分かったよ。やっぱり百合江の子だね。こういうところはそっくりだ」
「誉め言葉と受け取っておく」
「僕は褒めたつもりだけどね。じゃあ短期留学明けになって悪いけど、墓参りの際は案内を頼むよ」
「ああ。任された」
互いに微笑を交わす。母方の祖父は頑固だけど、一度は父に母を託した。ちゃんと話せば分かってくれるはずだ。
視界内が明るさを帯びて、俺は窓の向こう側に視線を向ける。
天から降り注ぐ光のカーテンが、鉛色の雲を割いて青空を覗かせていた。
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