第108話 息子と母
ホテルの一室に踏み入る。
無駄に広い絢爛とした内装。高い部屋なだけにセキュリティレベルも高い。お金を払わなければ、靴先を入れることすら叶わない。
人によっては、この場に踏み入ることを目標にする者もいるだろう。お金で手に入らない幸せがあるように、お金でしか手に入らない幸福もある。奇麗事を並べてもその現実は揺るがない。
だけど、僕にその価値観は合わなかった。預金通帳の増えていく桁を眺めても、胸にぽっかりと空いた穴は埋まらない。
ソファに身を投げる。まぶたを閉じて一息突く。
今日の予定は終わった。珍しく午後はフリーだ。
こういった暇な時間は創造力を高めると聞くけど、僕はこの時間が大嫌いだ。余計なことばかり脳内に浮かぶ。思い出したくもないことで、胸がきゅっと締め付けられる。
苦い記憶が脳裏をよぎって、たまらず腰を上げる。
やはりぼーっとするのは性に合わない。少し早いけどシャワーを浴びてワインを開けよう。酒に酔っている時と、睡魔に身を委ねている間は嫌なことを忘れられる。
着替えを準備するべく靴裏を浮かせる。
バイブレーションが鳴った。床を踏み鳴らしつつポケットに手を突っ込み、着替えの準備に並行して携帯端末を引き抜く。
通知の内容はメールだった。
社員からのものじゃない。何かと思って液晶画面をタップすると、『電話掛けるから出ろ』の文字が並んでいた。
匿名のメールが届くのはよくあることだ。僕の電話番号を知る人間はそう多くないけど、世に発信した情報は必ず漏れる。この手の輩を相手してもキリがないから、普段は無視を決め込んでいる。
でも今日は時間に余裕がある。応じれば暇潰しにはなるかもしれない。アイコンをタップして、コンパクトな長方形を耳に当てる。
「もしもし」
「私だ」
シャワールームへと歩を進めかけた足を止める。強烈な呆れと虚脱感が言葉に乗って口を突く。
「母さん、こんな真っ昼間から何してるの? というか今どこ?」
「アメリカよ」
「知ってる。州は?」
「内緒」
ため息をこらえて身を翻し、元来た床をたどってソファーに腰を落とす。
「父さんが会いたがってるよ?」
「あの人が謝るまで戻りません」
「相変わらず頑固だね。連絡先までブロックしちゃって、子供じゃないんだから」
「それはあなたもでしょ。釉を次期当主に指名したんですってね? あの子の意思を無視して」
「どうしてそれを……」
口では問いを投げつつ思考を巡らせる。
才覇や聡がもらした可能性を考えて、秒で破棄した。良好とはいかないまでも、二人とはある程度の距離感を確保している。優峯を僻地に追放した件もある。表立って僕に敵対するとは思えない。
では霞さんと白鷺さんが明かした?
それも違う。釉は、僕とあの二人が仲睦まじげに話す様子を見ている。釉があの二人を信じて打ち明けるとは思えないし、二人は僕の潔白を信じるはずだ。
であれば可能性は一つしかない。
「さては、釉と会ったんだね?」
「ええ。お祖母ちゃんだもの。言葉を交わす権利はあるでしょ」
「それはそうだけど」
「そうそう聞いたわよ! 釉ったら、文化祭で奈霧さんに公開告白したらしいじゃない。親子ねぇ」
「僕は公開告白なんてしてないよ」
「職場まで百合江さんを攫いに行ったじゃない。罪悪感から奉仕活動に手を出すところもまんま。悪いところばかり似ちゃってまぁ」
思わず口元を引き結ぶ。
僕だって非常識とは思っていた。後で警察の人に事情を説明する羽目になったし、色んな人に迷惑を掛けた自覚はある。
でもあれは百合江が悪いんだ。あんなに好き好きオーラを出しておいて、別れましょうと告げられて首を縦に触れるものか。僕だって別れたくなかったんだ、あの状況で身を引く男がどこにいる。
「それで、何で釉に意地悪するの? 独り身が寂しいのか知らないけれど、媚びを売ってるつもりなら逆効果よ。仲直りしたいなら直接話しなさい」
「それは無理だよ」
「無理なものですか。いい? あんたは釉の前で腕を広げなさい。後は息子よ! って抱き締めるだけでいいの」
「それができるのは母さんだけだよ。それに、釉は和解なんて望んでない。僕は罪を贖おうとしているだけだ」
「だったら釉に殉じなさいよ。自分に酔ってんのか知らないけど、あんたの勝手な都合に私の孫を巻き込まないでくれる?」
「でも釉は」
「まだ言うか馬鹿息子! 現在進行形で父親できてないくせに、どの口で息子を語ってんだい!」
「分かってないのは母さんの方だろう! 伏倉家の金と力があれば、釉は間違いなく幸せになれる。でも僕がいると、釉は心の平穏を得られないんだ! だから!」
「復讐させてすっきり爽快だって? 寝言は寝てから言いな馬鹿たれが! 釉は一度でもあんたに消えてくれと頼んだかい? だったら消えな、息子のために去ね! でもそうじゃないなら最低だ!」
「父親が息子の幸せを願って何が悪いんだ!?」
「だったらどうして百合江さんと結婚した!?」
思わず口をつぐんだ。意図しない方向からの問い掛けを受けて、一瞬思考が漂白される。
母がなおもまくし立てる。
「権力とお金があれば幸せになれるんだろ? それならどこぞの令嬢を迎え入れれば良かったんだ。でもあんたはそうしなかった。お金と権力で得られる幸せはたかが知れる。それを知っていたからじゃないのかい?」
お金や権力で得られる幸せは、常に快適さと繋がっている。
百合江との同棲を始めてからは、一般的な生活を前にして戸惑った。屋敷での生活は快適だったと思ったのも一度や二度じゃない。
それでも僕は、百合江と歩む人生を取った。
その理由は、母が口にした言葉そのままだ。億や兆の金を持つ幸福が、百合江と紡ぐ日々に勝るとは思えなかった。
実際百合江と過ごした時間は幸せだった。釉が生まれてからは賑やかさを増して、童心に帰った気持ちにさせられた。
掛け替えのない時間だった。伏倉家当主の僕がそう思っているんだから間違いない。結果的に不幸になったと言えばそれまでだけど、あの日々を否定する言葉なんて僕には吐けない。
お金と権力を叩き付ければ釉は幸せになる。その価値観を掲げた僕にとって、母の指摘は猛毒だ。
「あれから何年も経ってるんだ、いい加減自覚しな。あんたは誰かに自分を裁いてほしいだけなんだ。 自罰衝動を満たすために息子を利用すんじゃないよ!」
そこまで言われては、もう俯く他にない。
釉のために事を進めたはずだった。お金も権力も無いよりは有った方が良い。今よりも幸福に近付ける。
一方で、釉を利用していないのかと問われたら自信を以って頷けない。
食堂で次期当主を指名した時、釉は明らかに抗議の意思を示した。話のスケールに戸惑っただけだと思ったけど、実は違ったのか? 釉なりに思い描いていた進路が別にあったのだろうか?
だとしたら、僕が今までやってきたことは……。
「釉が言ってたよ」
ハッとして通話に意識を戻す。
語る母の声色は平静さを取り戻していた。
「霞さんとアンナさんに接する態度は親子みたいで、胸の奥が疼いたって。この言葉をどう受け取るかはあんた次第だよ。父親として息子にどう接するべきなのか、ちゃんと考えて答えを出しな」
通話が切れる。
広い部屋の中、僕は釉からの着信があるまで固まっていた。
次の話で四章は完結となります。
計50話以上と長い章になりましたが、ご愛読ありがとうございます。