第105話 お婆さんとの会話
俺は一人街に出た。
一応耳に装置は付けているけど居心地が悪い。
アメリカ人は知らない人にも積極的に挨拶をする。少なくとも東京の街を歩くよりは呼び掛けの声を聞く。
その際に浮かぶのは決まって笑顔。なるほど、これを見てアメリカ人に陽気な印象を抱く人が多いのも頷ける。
実態は気さくとは縁遠い。
アメリカは銃社会だ。誰がどこに銃器を隠し持つか分からない。
街中で銃声が鳴り響いても、過剰に反応する人はいない。それくらい銃声は人々の日常に溶け込んでいる。
今この瞬間にも、眼前の人がカウボーイのごとくハンドガンを抜くかもしれない。想像すると身震いするけど、恐れに負けて銃を抜けばそれこそ射殺される。
そこで挨拶が持ち出される。言葉を掛けて、反応が良好じゃなければ速やかにその場を立ち去る。誰にでもフレンドリーな態度は、突然の凶弾を警戒した自己防衛の手段だ。
降り掛かる探りに言葉を返しつつカフェに踏み入る。カフェラテを注文して奧へと進み、テラス席のチェアに腰掛ける。
湯気の立つ液体をぼーっと眺めて、カップの縁を口に付ける。
口内をほろ苦さで満たしても気分は晴れない。
白鷺さんには連絡を入れずに外出した。短期留学の間は使用人として傍仕えするって話だし、今頃は血眼になって探しているだろうか。
罪悪感はある。
それ以上に、白鷺さんと顔を合わせるのは気まずい。昨晩は霞さんに対しても声を荒げたし、マンションにいると誰かが訪問して来そうでそわそわした。
だから一人でカフェまで逃げてきたのに、このザマでは街をぶらついた意味がない。この場所にいられるのもラテを飲み終えるまでだ。この後はどうしよう。
「あら、市ヶ谷さんじゃない」
日本語。
視線を振った先に既知の顔があった。
「伏倉さん、こんにちは」
「こんにちは。今一人?」
「はい」
「駄目よーここは日本じゃないんだから」
「俺は男ですよ?」
「それでもよ。私達は子供に見られることも多いんだから。日本人男性が眠り薬飲まされてそのまま、なんて事件もあるんだからね?」
どうなったんだろうその人。聞きたいような、聞きたくないような。
やめておこう。色んな意味でアメリカの街を歩けなくなりそうだ。
「伏倉さんも一人ですか?」
「叱った私が一人じゃ示しが付かないでしょ。お友達があっちにいるわ」
伏倉さんの視線を追う。
離れたテーブルでひらひらと手が振られた。先日伏倉さんに同行していた人達だ。
「ボランティアに明け暮れていた頃みたいね」
「え?」
「あなたのことよ。凄く暗い顔してる。留学楽しくない?」
「いえ、留学自体は面白いです。日々驚きであふれていて飽きません」
カルチャーショックの概念は知っていたけど、聞くのと見るのじゃ全然違う。
傍から見れば歪な環境でも、人々の営みは成り立つ。それを肌で学べるのは現地だけだ。
「食事はどう? 日本人は日本の味が恋しくなって、一部の店舗に通い詰めるみたいだけど、今の食事は市ヶ谷さんの口に合ってる?」
「はい。食事の面は大丈夫です」
味が濃くてビッグサイズなファストフードがアメリカ式。
脂っこいのが好きな人にはたまらないんだろうけど、俺の口には会わなかった。早々にリタイアして、白鷺さんに和食寄りの食事を用意してもらっている。
「それは良かったわ。同席してもいいかしら?」
「友人はいいんですか?」
「ええ。話してくるって伝えてあるから」
「それならどうぞ」
「ありがとう」
伏倉さんが正面のチェアに腰を下ろす。
「話すだけならタダよ?」
直球に問われて、一瞬思考が漂白された。
確かに言葉として発するだけならタダだ。
でも俺の中では色々と擦り減る。伏倉さんに話したところで、生物学上の父が考えを改めるとは思えない。
後ろ向きに考えて、詮無きことと思い直す。
内部事情を打ち明けても同じだ。俺自身、屋敷での出来事にはいまだに現実味を欠いている。伏倉家とか次期当主とか、他人も同然のお婆さんが鵜呑みにするはずもない。
先輩や勲さんに話を聞いてもらった時も、少しは気が楽になった。今回も言うだけ言ってみよう。
「これは友人の話なんですけど」
「え? ええ」
「その人には生物学上の父がいるんです」
「生物学上って、随分面白い言い方をするのねぇ」
「その父はろくでなしなんですよ。友人が小さい頃に、父親の義務を放棄してどこかに消えたんです。なのに友人の女友達は、父のことを悪く言うなと怒ったんです」
「それはまた、どうして?」
「分かりません。理由を聞く前に走り去ったみたいですから」
「それはまた勝手な話ね。その子、お友達の事情を知らないんでしょう?」
「はい。でも気持ちは分かるんですよ。友人の父はその女友達を娘みたいに扱っているので、彼女にとっては大事な存在なんだと思います」
「娘ねぇ。あなたのお友達から見たその二人は、相当仲が良さそうに見えたのね」
「そうみたいですね。二人が接するところを見て、微かに胸の奥が疼いたみたいですから」
きっと不整脈だ。慣れないアメリカの地、不慣れな授業形態、味方のいない屋敷での孤独感に苛まれて、弱っていた心が悲鳴を上げたに違いない。
注目すべきは、白鷺さんと霞さんが生物学上の父を慕っていることだ。
俺が知るあいつの人物像には、誰かから慕われる要素がない。俺の知らない、誰かに好かれそうな一面があるのだろう。
「疼いた、か」
「何か?」
「いいえ。そのお友達は、生物学上の父を憎んでいるの?」
「はい。いえ、嫌いなのは間違いありませんけど、憎悪かと言われると正直よく分かりません」
生物学上の父が理事長に就任する前は、顔を合わせる事態なんて想定もしなかった。
理事長室に踏み入る前は緊張した。屋敷に連れて行かれて驚いた。
それだけだ。罵声を浴びせるどころか、母を捨てた理由についても聞き出せていない。
憎悪をぶつけるだけなら簡単だ。佐郷と壬生相手にやったみたいに、さりげなく弱味を聞き出して暴露すればいい。いくら権力とお金があっても、世間体を気にする人達からは敬遠される。伏倉家の資金運用には大きな影響が出るはずだ。
にもかかわらず俺は実行していない。する気も起きなかった。今後機会があっても実行しない確信がある。
胸の奥で渦巻く何かは憎悪じゃない。おそらくもっと別のものだ。
「話は分かったわ。それで、そのお友達はどうしたいの?」
「どうしたい、とは?」
「生物学上の父がろくでなしなのは分かったけれど、そのお友達がどう思っているかは口にしていないでしょう? あなたは何か聞いてない?」
「それは……聞いてません」
どうしたいも何も、俺に何ができるって言うんだ。
第三者に愚痴るわけにもいかない。俺は感情を内側に留める。
「じゃあそのお友達に伝えてちょうだいな。一度でいいから、生物学上の父と二人きりで話してみたらって」
「無駄ですよ。それをして何か変わるんですか?」
「変わらなかったら、あなたはやらない?」
返答の代わりに口を閉じる。
愚問だった。無駄に怯えていたら何もできない。徒労に終わる可能性があるように、努力が実る可能性だって有る。諦めない姿勢が道を拓くなんて、この一年で散々学んできたことなのに。
いつの間にか弱気になっていた。
これじゃ駄目だ。話をしても無駄かもしれないけど、落ち込んだところで結果は変わらない。俺が取るべき択なんて初めから一つだった。
俺はラテを飲み干して腰を上げる。
「伏倉さん、ありがとうございました」
「もういいの?」
「はい、考えがまとまりました。友人にはちゃんと伝えておきます」
「そう。頑張ってね、応援してるから」
俺は一礼して身を翻す。足早にカフェを後にした。