第104話 僕と百合江と新しい家族
百合江との生活は幸せだった。実家からの援助はないから慎ましやかな生活だけど、それなりに稼いで一軒家を購入した。
写真撮影の対象は百合江になった。同じ被写体でも、背景や角度を変えるだけで違った一面が映ることに気付かされた。自宅で撮影に向いた場所なんて庭くらいだけど、綺麗な百合江は植物に水をやるだけでも絵になった。
僕達に子供が生まれた。男の子だ。
名前は以前から考えていた。名の由来は釉薬だ。美術品たる陶磁器を美しく飾り付け、より頑丈にして汚れにくくする。僕達の結婚生活を、より楽しくしてほしいという意味合いを込めた。
完全に僕達のエゴだ。釉に名前の由来を問われたら何て答えようか。百合江と苦々しい笑みを交わす羽目になったものの、きょとんとする釉を眺めていると屁理屈をこねるだけでも楽しかった。
釉の首が座ったのを機に渡米して、百合江を連れて伏倉家の屋敷を訪れた。
父は喜んでくれた。相変わらず百合江との結婚には首を傾げていたけど、母の牽制もあって態度を表に出すのは自重してくれた。
想像通り優峯は来なかった。以前から僕を嫌っていたし、釉の出生を歓迎したくはなかったのだろう。
意外だったのは、気性の荒い才覇が釉の誕生を祝福してくれたことだ。子供は苦手と告げて距離を置いた聡とは対照的に、口角を上げて釉のほっぺをつんつんしていた。意外と子煩悩なタイプなのかもしれない。
帰国した次は、百合江の実家に足を運んだ。
正直お義父さんには苦手意識を持っている。空手の道場を経営していることもあって、訪問の度に空手の稽古を付けられる。
きっと不安なのだろう。百合江は体が弱い。もしもの時は、僕一人で釉と百合江の面倒を見なければならない。僕のひょろっとした体形を見て、頼りないと不安に駆られるのは無理もないことだ。
自覚はしている。だから体力の付く物を口にしているし、ジムで体を鍛えている。
体はシュッと引き締まって着痩せするけど、ムキムキマッチョになれなくても体は動く。日が落ちるまでは社の長として資金調達に駆け回り、帰宅後はできる限り家事を手伝った。釉が大きくなってからは、百合江と川の字を作って床に就いた。
ただ健やかに育ってくれればいい。
そう思っていたのは最初だけだった。幼稚園の先生いわく、釉は周囲に関心を持つタイプではないようだ。
積極的に他の園児と絡まず、図書室で絵本に目を通して時間を潰すことが多い。鬼ごっこや駆けっこで遊んでいる最中でも、お気に入りのアニメが始まる時間帯になるとテレビの前で尻餅を付くのだとか。
関心を持ったことに熱中する反面で、興味を持てないものには関心を抱けない。
親としてはちょっと不安だ。やりたくないことを強制するつもりはないけど、最低限コミュニケーションが取れないと周りから排斥されるかもしれない。
少しずつでいいから、人との付き合い方を学んでほしい。
そう思って、釉を色々なイベントに参加させた。スイミングスクールやスキー教室など、同年代と触れ合える場を設けさせた。
僕達の努力もむなしく、釉の立ち振る舞いは小学校になっても変わらなかった。通知表に記される数字は良かったものの、友達と出掛けたり自宅に呼ぶこともない。僕と百合江が外に連れ出さないと、紙の本を開くだけで休日が終わることも珍しくなかった。
そんな日々に変化があった。
僕がそれを知ったのは、お酒を口にしている時だ。土ぼこりにまみれて帰宅した次の日から、釉の帰宅が遅くなった。仲良くなった同級生と放課後の時間を潰しているらしい。一度目の当たりにした百合江いわく、天使のように可愛い女の子なんだとか。
百合江は前々から女児も欲しがっていた。体のことがあるから断念させたけど、本心ではまだ欲しいのだろう。女の子の話をする時は、まるで娘ができたように楽し気だった。釉には、いつでも自宅に呼んでいいよと遠回しに催促していた。
呼ばない。
どうして?
どうしても!
そんな問答が日常風景になった。年不相応に静かな釉も、その時ばかりは感情を表に出して声を張り上げる。微笑ましくて口元を緩めたら釉に怒られた。むきになった釉の顔は、りんごのように真っ赤だった。
これから先も、この賑やかで平穏な日々が続いていく。僕はそう確信していた。
あまりに幸せだったから思考停止していたんだ。
平穏が壊れるのは嫌だから。そんな可能性なんて、想像もしたくなかったから。