第102話 プロポーズ
『好きです』が口を突いて、桃色のくちびるから裏返った声がこぼれた。艶やかな髪がどんどん小さくなる光景を、僕はへたり込みながら見送った。
出会いはこんなだったけど、僕達は一か月も経たない間に交際を始めた。
奥ゆかしいと見せかけて、百合江は凄く頑な人だった。病弱な体なのに、僕が気を遣うとむくれる。周りの制止も聞かずにマラソンの大会にエントリーして、スタート前に倒れたこともあった。
何だこの人、病弱なのに何言ってるんだ?
そんなことを思ったのは一度や二度じゃない。修道院で女神像に祈りを捧げていそうな雰囲気なのに、引かない時はとにかく引かない。実体は僕が抱いたイメージとかけ離れていた。
理想と現実のギャップで幻滅する。そうやって百年の恋から冷めた同級生を、僕は何人も知っている。
僕もそうなるかと思ったけど、それは杞憂に終わった。
幻滅なんてとんでもない。百合江と言葉を交わすたびに驚きがあって、僕はそのギャップに夢中になった。この人と肩を並べて人生を歩みたい。本気でそう考えた。
そのビジョンを現実にするのは難しい。
僕は伏倉家の長男。一族存続のために子を残すことは義務だ。病弱な百合江との結婚はリスクが高い。父に反対されるのは日の目を見るより明らかだった。
駆け落ち。そんな言葉が脳裏をよぎった。
物語を華やがせる要素だけど、伏倉家の影響力は身に染みている。自ら縁を切るメリットは皆無だし、子が跡継ぎ問題に巻き込まれるリスクもある。将来を考えると駆け落ちに踏み切れない。
どこから聞き付けたのか、父に百合江との縁を切れと指示された。名家の令嬢との縁談を持って来たらしい。これを機に別れさせる腹積もりのようだった。
僕は初めて父に楯突いた。
理知的な父に感情論は通じない。始めた事業が上手くいっている内は、僕達の仲に干渉しないでほしいと頼み込んだ。交渉が難航して、僕はつい声を張り上げてしまった。厳格な父だ、この時ばかりは勘当を覚悟した。
予想に反して、父は首を縦に振った。小さい頃から反抗しなかった僕が、面と向かって怒声を上げた事実に感じ入るものがあったらしい。
手掛ける事業が失敗したら百合江と別れる。そんな約束を取り付けて可能性を繋いだ。
交わしたのは口約束。
されど約束。父はビジネスパートナーに裏切られてから、約束と言う概念には非常に厳しい価値観を持っている。僕が成果を出す内は干渉されない確信があった。
僕は満を持して百合江にプロポーズした。
喜んでくれると思っていた。会えない日はスマートフォン越しに言葉を交わしたし、デートのたびに花のような笑顔を見せてくれた。好かれている自信はあったんだ。
期待とは裏腹に、百合江の返事は否だった。プロポーズは嬉しい。でも私は病弱だから、伴侶としての務めを果たせない。そんな拒絶の文言を淡々と連ねられた。
僕との婚約を、心の底から嫌がってくれたなら納得できた。
愛している人に我慢を強いてまで一緒になろうとは思わない。プロポーズすると決めた時から、涙を飲む覚悟はできていた。
だけど去り際の百合江が見せたのは、悲しみに沈んだ顔だった。
これじゃ諦めるに諦め切れない。その日はひとまず解散して、どうするのが最善なのか考えた。
百合江は頑固だ。僕が言葉を尽くしても、首を縦には振らない予感がある。
ましてや彼女が意固地になる理由は、僕の立場を考えてのことだ。自身の気持ちにはいくらでも蓋をする。僕の知る百合江はそういう女性だ。ちょっとやそっとの覚悟じゃ伝わらない。
僕は考えて、悩んで、思い悩んだ。
その末に思い至って腰を上げた。勉強机に向かい合ってメモ帳を開き、ページの上でペン先を走らせた。
次の日から計画を進めた。別れるにあたっての話し合いを隠れ蓑にして、百合江の予定を聞き出した。並行して結婚式の準備を進めた。友人は面白がって快く協力してくれた。
決行当日。僕は白スーツを身にまとって、百合江が働く職場に踏み込んだ。羞恥心に苛まれながら足を前に出して、驚愕と戸惑いの視線を突っ切った。
目的の人物は事務室にいた。
百合江が目を丸くした。大きな目をぱちくりさせるさまは、珍獣でも目の当たりにしたような反応だった。
説明してあげたいのは山々だけど、口論に発展するのは分かり切っている。
僕は呆然とする百合江を抱き上げた。胸元で上がった悲鳴をよそに、元来た廊下を靴裏で辿った。無断退社にはなるけど、日頃から百合江をいびっていた職場だ。キャリアを望むなら僕の会社に移ればいい。
再び日の下に出ても、腕の中の百合江は大人しかった。視線を落とすと、綺麗な顔がお風呂でのぼせたように真っ赤になっていた。
華奢な体を助手席に置いてハンドルを握った。車での移動を経て、悠々と教会の床を踏み鳴らす。
もう僕達を邪魔する者はいない。友人や家族に見守られながら、ウェディングドレスに着替えた百合江と永遠の愛を誓った。




