第100話 次期当主
案内された部屋は、ダイニングルームと言うには広々とした場所だった。天井から吊り下がるシャンデリアが明かりを灯して、がらんとした室内に温かみを付与している。
中央に鎮座するのは、ドラマに出てきそうな長方形のテーブル。大きな天板の上には皿がズラッと並び、見慣れない銀色の丸い蓋が並んでいる。
「クローシュだよ。食べ物の温かさや鮮度を保つために用いられるんだ。給仕が開けてくれるから、それまでは談笑でもしているといいよ」
「それくらい知ってます」
耳たぶに熱を感じて足を前に出す。
黒白の衣装をまとった男性が腕を伸ばした。背もたれを握ってスッとチェアを引く。
俺は会釈して、チェアの背もたれに体重を預ける。
生物学上の父が隣のチェアに腰を下ろした。意図せず表情筋が強張る。
会話は生まれない。霞さんと白鷺さんさえも口を固く閉じている。マンションの室内を賑わせていたのが嘘のようだ。
才覇さんと聡さんのビジネスライクな会話を耳にすること数分。廊下に繋がる扉が音を立てる。
老人が現れた。燕尾服をまとった男性が靴裏で床を踏み鳴らす。髪こそ白く染まり切っているものの、胸を張って歩く姿は堂々としていて隙がない。
老人が一番奥のチェアに腰を下ろす。
上座。おそらくは豪邸の持ち主なのだろう。当主を自称した生物学上の父を差し置いた辺り、相応に力のある人物と推測される。
生物学上の父がチェアから腰を上げる。大学生じみた容姿からかしこまった言葉が発せられた。
いわく、今日は老人の誕生日らしい。才覇さんや聡さんは、老人の誕生日を祝うべく外国から駆け付けたのだとか。
聡さんはともかく、才覇さんが家族の誕生日に駆け付けたのは意外だ。赴かなかったら不都合があるに違いない。
「前もってお伝えした通り、本日は長男を連れて参りました。ご覧ください。これが私の息子、市ヶ谷釉です」
生物学上の父が緩やかに腕を伸ばす。
「え」
戸惑いが口を突いた。俺は反射的に老人を見る。
目が合った。威厳ある佇まいの老人が、品定めをするように俺を見据える。
あれが俺の、もう一人の祖父。
可笑しな話じゃない。母に両親がいるように、生物学上の父にも父親がいる。人間である以上は当然だ。
だけど父方の祖父がどんな人かなんて、今まで考えもしなかった。何を言うべきか考えがまとまらない。
戸惑っていると、背中を歩く叩かれた。
「ほら釉、立って祖父に挨拶を」
混乱していたせいもあって、迷うことなく腰が浮いた。お初にお目に掛かりますなんて、人生で初めて告げた気がする。
テーブルの向こう側でくすくすと笑い声が上がった。
声の源は才覇さんと聡さん。彼らの顔を見て、俺が小さい頃に二人と顔合わせした話を思い出す。
記憶になくても二人と会っていたなら、その時に祖父と対面していても不思議はない。失礼なことを告げた可能性に思い至って口元を引き結ぶ。
老人が気にした様子もなく口を開く。
「うむ。今日はよく来てくれた。儂ももう年でな、生きている内に孫の顔が見たくなったのだ。慣れない地で疲れているかもしれんが、今日は楽しんでいきなさい」
「ありがとうございます」
俺はそっと腰を落とす。上手く挨拶できた実感を得て、内心ほっと胸を撫で下ろす。
「息子の紹介も済んだところで、私から一つ重大な発表がございます。父上、私は次期当主にはこの釉をと考えております」
「……え?」
俺は反射的に生物学上の父を見上げる。
当主という言葉の意味は知っている。創作上の世界では、権力を持つ人物の代名詞だ。
今までその概念に触れたことはない。次期当主だなんて言われても全く実感が湧かない。
問い掛けの視線を向けても、血の繋がりがある男性は振り向かない。
「それはまた、急な話だな」
「急な発表になって申し訳ございません。ですが前々から決めておりましたし、そのための準備もして参りました。この場をお借りする形にはなってしまいましたが、どうかご理解ください」
「お待ちください父上」
反対の声が食堂内を駆け巡った。
口を挟んだのは才覇さんだ。心なしか、先程よりも声に力がこめられている。
「当主の座は、実績を元に選出される決まりです。秀正の告白は道理が通りません」
「私も才覇と同意見です。いささか当主の権限を濫用していると思われます」
才覇さんと聡さんが祖父に視線を送る。
老人が生物学上の父に向き直る。
「秀正。釉は長い間不登校だったと聞いている。元が優れていたとしても、年月の差は如何ともし難いはずだが」
「確かに、息子の時間は悪意によって失われました。ですがそのハンデをものともせずに、多くのライバルを蹴落として、日本国内有数の進学校たる請希高校に在籍しております。昨年の期末考査では学年トップの成績を収め、文化祭で暴漢が刃物を振り回した際には、事を荒立てずに事を終息させました。この知力と胆力を以って、釉は次期当主に足り得ると判断いたしました」
告げられた内容は間違っていない。
間違ってはいないけど、言い方には少し疑問が残る。
期末考査の総合点数は二位と僅差だった。
文化祭の騒動に至っては偶々《たまたま》だ。以降の人生に佐郷を関わらせまいと一騎打ちを挑み、策がはまって勝利したからここにいる。一歩間違えていたら血が流れていた。
「釉さんは、可愛い顔して武闘派なんだね」
何が嬉しかったのか、聡さんが微笑を浮かべた。才覇さんに横目を向けられて、聡さんが苦々しく口角を上げる。
「勉学に長けた人材ならいくらでもいる。それに、暴漢を沈めたと言ったな? 美談と思っているようだが、それは一学生が収拾を付けるべき事案ではない。大局的視点が致命的に欠けているのではないか?」
生物学上の父が肩を竦める。
「まあ無謀ではあったかもね。単独での鎮圧を図った理由は知らないけど、釉は十代後半になったばかりだ。足りないものはあって当然だよ」
「それが足り得ない免罪符になると?」
「なるよ。足り得ないから人は欲し、学び、糧とする。釉が才覇くらいの年になる頃には、君以上に俯瞰した視点を持ち得ているよ」
「何を以って断言する」
「私が学びの場を用意する。釉の留学先には学閥があってね、卒業後は何をするにも優位に進められるんだ。進学のサポートも手厚いし、理事長には個人的な伝手がある。まずは釉を転入させて、アメリカで高校を卒業させるよ」
「待て! 何を勝手に話を進めてるんだ!」
俺は椅子を鳴らして立ち上がる。生物学上の父を射殺さんとばかりに睨み付ける。
俺は短期留学と聞いていた。三か月頑張って、日本に帰国するつもりでこの地を踏んだんだ。アメリカの高校に転入なんて、受け入れられるわけがない。
祖父が目をぱちくりさせる。
「秀正、釉に話していないのか?」
「ええ。私がこの話を持ち出したのは、本日この場が初めてですから」
生物学上の父が靴先を俺に向ける。
「取り敢えず落ち着きなよ。皆驚いているじゃないか」
「当たり前だ! 進路を勝手に決められて落ち着けるわけ――」
「奈霧勲」
小さな声で。おそらくは俺にしか聞こえない声が、恋人の父親の名を口にした。
「僕は、彼が運営する会社の筆頭株主なんだ。この意味は分かるよね?」
心臓を鷲掴みにされたような感覚に苛まれた。
勲さんの会社は、株式会社の形態を取っている。
株式会社の社長は選出された人間だ。資金を調達して事業を行い、利益を株主に配当しなければならない。
選ばれるという点では政治家や首相と似ている一方で、明確に違う点が一つある。所持する株式の量によって、行使できる権利の強弱が決まる点だ。
株式を持てば持つほど強い権限を振り回せる。場合によっては、社長を役職から引きずり下ろすことも可能だ。
生物学上の父が、どれだけの株式を有しているかは知らない。脅してきた辺り、保有量には相当な自信があるのだろう。
「社長って大変なんだよ。業績が悪化すれば頭を下げなきゃいけないし、倒産したら大勢の株主がお金を返せと要求してくる。そうでなくとも、せっせと積み上げた物が崩れ去るんだ。喪失感は相当なものだし、生半可な心じゃ耐えられない。勲さんは戻ってこれないかもね」
喪失感に押し潰されて、堕ちるところまで堕ちる。
そうやって破滅した奴を知っている。佐郷は俺の報復で居場所を失い、暴力的な世界に身を投じて堕落した。
勲さんが同じ末路を辿るとは思わない。
それでも奈霧の家庭は少なからず乱れる。関係が悪化して一家離散なんてことになれば、俺は彼らに合わせる顔がない。
息苦しい。室内の空気が凝固したみたいだ。
自分が呼吸を止めていたことに気付いた。意識して空気を吸い込む横で、生物学上の父が自身の席に戻る。
「お騒がせいたしました。釉も了承してくれたみたいです。料理が冷めてしまいますから、まずは夕飯をいただきましょう」
各自食器へと腕を伸ばす。
俺は働かない頭で考えて、椅子の座にぺたんと尻餅を付く。
「ところで秀正、珠の件はどうなっている?」
「現在は入国中のようです。居場所の特定については、もうしばらくお待ちください」
生物学上の父と祖父が、何やら小さな声で話している。
その内容を推測する余裕は、この時の俺にはなかった。