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〈九月十日〉
「そんなわけで、木崎さんは無事、みんなのところに戻ってきました! はい拍手〜」
予想外の音量と目の前に並ぶ面々の笑顔に少し気圧される。私はそんなに人気者だったのだろうか。
「でも〜 昨日みんなにはお話ししたように、木崎さんはちょっとショックを受けて色んなことを覚えていません。あたしだったらぴえん、だよ。あれ? もう古い?」
随分と独特な喋り方の担任だった。いや……私の緊張をほぐそうとしてのあえて、かもしれないけど。
「木崎さんの席はちゃ〜んと前と同じトコにしてあるから安心してね?」
最前列。しかも教卓のド真ん前だった。
ともかく、こうして学校生活復帰第一日目が始まった。
みんな親切だった。みんな優しかった。
女子生徒を中心に、今までの私のこと――どんな感じの性格であったとか、何の委員会に入っていただとか、そんな色々を一度に伝えられ、あまりの情報量に目を白黒させてしまった。
整理する時間が欲しい。
お昼休みに私を中心に形成された集団に対してそう伝え、何とか注ぎ込まれるインフォメーションにストップをかけることに成功した。親切心は有難いんだけど、一度に三十近い人の名前なんて覚えられるか!
せっかく母が作ってくれたお弁当の味も覚えていなかった。
昼食後、五時間目の授業時に頭を整理する。目の前の先生には申し訳ないけれど、これは私にとって重要なことだ。……少し言い訳じみているかもだけど。
まず私は非常に模範的、人畜無害、人間関係良好な生徒だったらしい。与えられた情報を鵜呑みにすれば、だけど、クラスメイトと話す内容がおおよそ一致していることから、この推測に大幅なズレはないだろう。
成績には触れられることがなかったので正確なところは分からないけど、今この瞬間、目の前から聞こえてくる先生の言動が「イミフ」とならない以上、そこそこ勉強もできたようだ。まぁあんな参考書だらけの色気のかけらもない部屋で暮らしていたのならそれも分かる。
何とかやっていけそうだ。
はっきりとした根拠は見つかっていないけれど、記憶を失う以前の「私」は良い環境に置かれていたようで、それは今の私が受ける印象と変わりない。
加えて周りはみんないい人だ。こんな私に対してとても優しく接してくれている。記憶喪失という腫れ物に触るような扱いを受けてもおかしくない人物に対し、私が不安定にならないように配慮してくれる。
ゆっくりでいい。
ドクターの言う通り、このまま、時間をかけて「私」を取り戻していこう。そう決意させてくれるのには十分な一日だった。
下校時刻となり、周りの生徒の行動もバラバラになる。部活動に精を出す人もいれば、私のように帰宅部の人もいる。自宅直帰組の中でも、この学校は結構辺鄙な場所に位置しているため、家族が車で迎えにくる人もいるようだ。
そして私もその一人で、今日だけは、と心配して母が迎えにきてくれていた。
小走りで来客用の駐車場へと向かう。
「……学校はどうだった? 大丈夫だった?」
おずおずといった様子で母は尋ねてくる。その質問はある程度予想していた。
「うん、大丈夫だったよ。みんな優しかったし、色々教えてくれた」
私の答えに母は心底安堵したようで、それは長く深い息となって表れた。
「……夕ご飯、何か食べたいものある?」
「そんなに毎日記念日みたいにされると困っちゃうよ。いつも通りの生活を、ってドクターに言われたし、何でも大丈夫」
「……そうよね。明日香の言う通りだわ。でも退院に向けて色々買い込んじゃったから、少し豪華になっちゃうけどいい?」
「もちろん」
振り返り、これからもお世話になるだろう校舎を見上げる。夕陽に照らされたそれは、白磁を思わせる美しさに輝いていた。
一見して、建てられてそんなに時間が経っていないだろうということ以外は白を基調とした普通の校舎である。――時を刻んでいる針の上、ちょうど屋上にあたる部分以外は。
地上からでも見える大っきい銀色の球体、バルーンのような何かがそこに鎮座していた。
最初に気付いたのは当たり前のように登校中。車内からでもはっきりと見え、素人目にも校舎に不釣り合いなデカブツだと思った。
その時母に聞いても「分からないから学校で聞きなさい」とのことだったので、素直にそうした。
あっさりと答えてくれたクラスメイト曰く、アレは文化祭の出し物に使う装置らしい。明後日に迫る本番に向けて準備が進められている、とのことだった。
それを聞いて納得した私は、以降特に深く考えることもなく一日を過ごした。校舎の中からは見えないしね。
「帰ろうか……お、お母さん」
以前の「私」が母に当たるこの人をどう呼んでいたのかはわからない。けれど、少しずつでも未来へ踏み出そう。いつも通りに過ごす、とは、イコール何もしなくていいわけじゃないはずだ。それだけで記憶が戻る保証はない。だったら、私もできる限りの行動をしないと……! この時の私はそんなプラス思考であり、頑張りに頑張って絞り出された答えがこの言葉だったのだ。
「――――」
母は驚いた表情をしていた。しかし、それだけだった。私の期待していたような反応は返ってこなかった。
「……そうね、早くご飯の準備しなくちゃ。お父さんたちも帰ってきちゃうし」
母の車は静かな音を立てて動き始め、私は助手席から外を眺めていた。
……少しは喜んでくれてもいいじゃない。
抱いた複雑な心境は発車の慣性と共に置き去りにしたかったが、しっかりと、ちくりと胸に残っていた。
田園を抜けて住宅街へと車は走る。
それを射抜くように見つめる駐車場からの視線に、私は終ぞ気付くことはなかった。