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〈九月九日〉
私は明日から学校生活へ戻るそうだ。
正直、不安しかない。
家族のことはおろか、自分の名前すら思い出せない状態で学校へ戻って満足に過ごせるはずがないじゃないか。
ただ、これも治療の一環とのこと。父からの又聞きによると、以前と同じ環境で(以下略)によって記憶が戻る可能性があるということで、そう言われては仕方がない。このまま無為に日常を過ごしていても、元の「私」に戻れる可能性は低いらしい。
そんなことを思いながら、私は今日という日をごろんと横になって結局無為に過ごしているのだった。
「……何すればいいんだろう」
両親からは「今日はゆっくり休んで明日に備えなさい」的なことを言われたけれど、そもそも何に備えりゃいいのかわからない。
挨拶? 友人? 気持ちの整理? それらをひっくるめた学校生活に対して?
明日の朝、急に記憶が戻る、なんてことが起こらない限り、私が覚悟しておかないといけないのは、結局のところ明日から経験する全てのことに対してだ。
不安しかない。どう考えても思考はそこに戻ってきてしまう。その不安を紛らすものすら今の私は持ち合わせていない。
一体いつもの私はどんなふうに過ごしていたんだろう。どんな友達がいたんだろう。何か趣味みたいなものはあったんだろうか。
記憶は未だ固く閉ざされていて、開く兆しはない。
現状、唯一の手がかりだと思う弟の存在は大きいが、かといって昨日みたいにダウンしてしまっては元も子もない。
無理はしないように、少しずつ……。
思い出されるドクターの言葉を噛み締め、一呼吸置いた。
そうだ。私から無理に行動する必要はない。そう言い聞かせた言葉は、どこか言い訳じみているな、と自分のことながら複雑な気持ちを抱かせるものだった。
とは言えこんなふうに腐っていては何も進展しないのもまた事実であり、今の私にできることを考えた。
やおら立ち上がり、室内を物色する。
ここは私の部屋なのだが、そんな気持ちは全くしない。知らない人の部屋を間借りしているようで申し訳ない気持ちになってくる。実は本当の住人は別にいます、と言われても、今の私なら一つ返事で納得するだろう。
それでも……やれることは少しずつでもやるべきだ……!
思い浮かべたのは過去の私の私物。写真などの物的証拠が出てくれば、この部屋の住人であった「私」が今の私とイコールであるという安心感を持てる。そう考えたのだ。
しかし、物事はそう都合良くは進まない。
まず手にかけたのは本棚。並んでいたのは、主要五教科の参考書や問題集に参考書や問題集。
過去の「私」は勉強熱心だったんだろうか……。それらは今の私に拒否反応を起こさせるに十分な代物であり、自然と足が遠ざかる。
ならば、とクローゼットを開いてみた。
一番期待していたのはアルバムや家族写真といったものが出てくること。もしそこに「私」が映っていれば、現状を知る大きな手がかりになること間違いない……!
しかし、そこに並んでいたのはいかにも「流行りです!」をアピールしている洋服類の数々。ハンガーにかかっていたそれらの下にも衣類ケースが敷き詰められており、季節ごとに整理されているようだった。
「こんなの着てたの……? 私……?」
サイズ的にはピッタリだったのだが今の私の琴線に触れるようなセンスのコーデではない。
ため息一つ、肩を落として開いたものを元に戻した。
その日の夕食は豪勢な中華だった。
「明日香が頑張ってくれればと思ってな! 行きつけの店に頼んでもらった!」
そう得意げに父は言っていた。
味がしない。
味覚がないという意味ではない。多分美味しい料理なんだろう。ただやっぱり慣れないのだ、この環境が。
家族全員揃っての団欒。客観的に見れば理想的で微笑ましい光景のはずなのだけれど、私にとってこの人たちは、昨日会ったばかりのほぼ初めましてに等しい対象だった。
慣れない上に、気を遣わせてしまっているようで申し訳ない気持ちになる。自分の家だと思い込もうとしているけれど、それでも無理なものは無理だった。居候のようで、これまたいたたまれない気持ちが自然と生まれてくるのだ。
「ごちそうさまでした」
「明日香、もういいの? まだたくさん残ってるのよ?」
「はい。……あ、うん。ちょっとまだ調子悪くて……。もう休むね。明日も緊張しそうだし……」
「姉ちゃんらしくないなぁ。じゃあ余ったやつ、僕がもらうね」
「うん、いいよ」
即答した。正面に座って薄く笑っている弟(と話すたびに、何かが私の頭の中で反応しているのがわかる。
しかし、迷惑なことにそれは頭痛という形となって現れるため、私は彼を避けていた。
席を立ち、空になった分の食器を片付ける。
「そのままでいいのよ。あとはあたしがやっておくから」
「ありがとう。……おやすみなさい」
「はい、おやすみなさい。明日はあたしが学校まで送っていくから、少しだけなら寝坊しても構わないわよ?」
「うん」
階段を上がる背中越しに聞こえてくる楽しげな声。世間話でもしているのだろうか。それとも私のことだろうか。……どうでもいい。
少しでも早くこの場を離れたい。嘘偽りない本心だった。
いくら家族と言われても「はいそうですか」と一つ返事で納得できない。階下の三人は今の私にとって他人だ。そんな人たちに囲まれて楽しく過ごせるはずがなかった。
今のところこの部屋だけが唯一気を休めることができる場所だ。ここも記憶にはない場所には違いないが、あの人たちの干渉を避けられるという一点において安息の地だ。
……まだ寝るには早いと思う。だけど、それしかやることがないのだ。
私の部屋には学習教材以外、時間を潰すようなものが置かれていない。一体全体「私」はどんな生活をしていたのか。勉強漬けの毎日……それは考えただけでイヤだ。娯楽的な何かはゼロ。そんな生活は今の私には耐えられない。
ふと、残っている知識から一つの考えが浮かんだ。
思い立ったが吉日。部屋を出て階下へ顔を覗かせ尋ねる。
「あの……あたしのスマートフォンってありますか?」
数秒の無言の後、両親は顔を見合わせ――
「明日香が階段から落ちた時に一緒に壊れて今修理中。二、三日で直る、だってよ」
「……わかりました。すみません」
「気にすんなって。代わりのケータイもクラウド? とやらで使えるらしいけど、明日香が前のやつ気に入ってたみたいだからさ。明後日くらいには直ってるんじゃないか?」
お礼の言葉を投げて、私は再び部屋へ戻った。
また手がかりを失ってしまった。
客観的に見て、私は急いでいるように思えるかもだけど、事実そうなのだ。早く全部思い出して、今の状況から抜け出したい! それが全てだった。
……寝よう。明日は多分、もっと大変な一日になりそうだから。
ぐるぐるとせわしなく回転し続ける脳内とは対照的に、私の意識が落ちるのは一瞬だった。