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〈九月八日〉
「あぁ! 明日香! 本当に良かった……!」
そう言って涙を流す知らない女性。
「だから言ったじゃないか。これくらいのことで大騒ぎしすぎだって」
それを嗜めるような態度の知らない男性。
知らない声。知らない顔。知らない人。
今日は私の退院日だった。
「退院おめでとう! 今の君の心境を思うと嬉しくない言葉かもしれないけれど、これは定型分みたいなものだ。特に深く考えずにいてくれていいよ。また何か困ったことがあればいつでも連絡してくれ」
そう言ってドクターは数人の看護師と共に笑顔で私を送り出してくれた。
白い車が山道を下っていく。
私は小刻みにくる振動や、頻繁に訪れる慣性に身を任せながら車内の空気にどう対応していいかわからずにいた。
「明日香は俺たちのこと、覚えていないんだってな?」
ハンドルを握る男性はこちらを振り向くことなくそう尋ねた。
「……はい、すみません」
「そうかしこまるなって! 俺たちは家族なんだから、もっと軽い感じでいいんだぞ?」
「お父さん! 明日香は今自分が一番大変なんだから、あまり考えさせるのはやめてください!」
そんな声が助手席から聞こえてくる。
私は八人乗りの少しデカめの普通車で、最後部座席の左端に座っていた。
「そうか? こんなふうに話してればそのうち思い出してくると俺は思ってるけどな〜」
「…………」
「もう! あたしは明日香のペースに任せるのが一番だと思ってますからね! ……ねぇ明日香、本当に無理はしないでね。あせらずにゆっくりでいいんだから」
「はい、ありがとう……ございます」
やっぱり……思い出せない。
この人たちが私の両親らしいけれど、それらしい記憶を何一つ掬い上げることができない。それがどうしようもなくもどかしく、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
ふと引っかかるものがあり、尋ねてみる。
「あの……私には弟……がいるみたいですけど、今はどこにいるんですか?」
「あぁ、太郎は部活だってさ」
すぐに父……なのだろう男性から答えが返ってきた。
「薄情だよな。姉さんの退院日くらいサボればいいのに」
「お父さん! 太郎は来週末大会なんだから、それくらい大目に見てあげてください! それに家に戻れば会えるじゃないですか」
はいはい、と運転手は巧みなハンドル捌きで割と険しい山道を軽快に下っていく。
緑と茶ばかりだった視界が開けた。
やっぱり、知らない風景だ。
少し期待していたが、まあそうだろうなという気持ちの方が上回っており、それほど落胆はしなかった。
ガラス越しに見える景色は、田畑から次第に人工物を中心とした市街へと変わっていった。
知らないところ。
「ここが俺たちの家だぞ、明日香」
父は少し得意げにそう言った。
ただその気持ちは少し理解できる。住宅街の中にあって、目の前の我が家は控えめに言ってもかなり立派な部類に入り、家族の懐事情の大きさを伺い知ることができたからだ。
内装の充実度からもそれは十分に伝わり、どんな悪いことをすればこんな家が建つのだろうと邪推してしまった。まるで新築のようだ。
「あれ、もう帰ってきたの?」
新たな空気の振動が私の鼓膜を叩いた。
「もうちょっとかかるかなって思ってたのに。まあいっか。自主練はまた今度にするよ」
そう言って少年は抱えていたサッカーボールを床へ転がした。
「おかえりなさい、おねーちゃん」
ーー知っている。
私はこの少年――弟を知っている。
木崎太郎、十三歳。私と歳が二つ離れた弟。それはドクターから教えられた情報で、目の前の存在のパラメータに過ぎない。そしてその情報を私は覚えていない。
だけど知っている。
この矛盾をどう説明すればいいのだろうか。名前や顔や年齢などを飛び越え、記憶を失う前の私は確かにこの少年と繋がりがあった。
聞こえないはずの鼓動が、激しい頭痛が、嫌でもその事実を私に伝えていた。
「どうしたの? おねーちゃん。まだ具合悪そうだよ?」
その言葉を聞きつけた母はかなり焦ったようで――
「明日香! 今日はもう休みなさい!」
それから少し声の調子を整えている、ように思えた。……頭が痛い。冷静な判断ができない。
「……さっき帰ってきたばかりでしょ? 二階に明日香のお部屋があるから、少し寝た方がいいわ。夕ごはんは後で食べれるよう作っておくから今日は無理しないで。ね? お願い?」
言葉に甘えてそうさせてもらおう。正直この頭痛には耐えられない。記憶喪失っていうのはこんなことに悩まされるのだろうか。記憶を取り戻すきっかけに触れるたびにこうなってちゃ正直身体が持たない気がする。
「はい……そうさせてもらいます」
「それが一番よ。あ、お部屋は階段上がって右手の一番奥だけど、案内はいる?」
「……大丈夫です。一人で行けますので」
そう言い残し、振り返ることなく階段へと向かった。
踏み締める足から伝わる振動が脳を揺さぶる。眩暈までしてきた。早く横になりたい……。
壁に手をつきながらようやっとの思いでたどり着いた部屋のドアには「ASUKA」の丸文字プレート。けどそんなものに感想を抱く余裕はなくノブを捻る。
ザ・女子というものをちょうどいい塩梅に振り分けたような部屋だった。パステルピンクを基調としてそこから大きくずれることなく配色がなされている。かといって華美すぎるわけでもなく、例えばぬいぐるみなどの「カワイイ」を強調する類のものは一切置かれていない。せいぜい丸クッション止まりだ。本棚や学習机は白色で配置され、やれファッション雑誌やら参考書やらが所狭しと並んでいる。
本当に私はこんなものを読んでいたんだろうか。
けれどそんな疑問も一瞬で投げ捨て、本能に従うままにベッドへとダイブした。だってそうしないと身体が持たなかったから。
頭痛や心臓のバクバクは……さっきよりマシだ。
ドクターの言っていた通りだ。以前までと同じ日常の中に、私の記憶を取り戻すきっかけがある。これはその予兆に違いない……!
思っていたよりも、私が元の「私」に戻れる日は近いのかもしれない。そう思えたのは大きな一歩だ。
母は食事を用意してくれると言っていた。その言葉に素直に甘えるとしよう。今は……少し休みたいかな。
時計は……あった。時刻は午後四時。仮眠をとって、ご飯を食べて、それから…………
意識は次第に曖昧なものとなり、意思とは無関係に深く、深く沈んでいく。
結局私はこの日――九月八日中、目を覚ますことはなかった。