4
〈九月七日〉
この部屋に目覚まし時計やアラームなるものはないのだけれど、記憶を失う前の私の身体は、割と健康的な生活リズムを刻んでいたようだ。
現在時刻午前六時半。
点滴のパックは……もう尽きている。これが私の食事代わりなのだ。なくなっては困る。
何かあったら押してね、と昨日ドクターにはコールボタンの位置を教えてもらっており、点滴のホルダーごと慎重に移動しボタンを押した。
向こうから聞こえた声はドクターのものではなく、これまた聞き覚えのない女性のものだったけれど、こちらの要件を伝えるとすぐに行くと承諾してくれた。
数分後、ドアが開いた。
この部屋に来客を知らせるようなものはないんだな、と思う。もしくは必要がないのか。
初めて見る顔の女性は、予想通り看護師の服装であった。ドクターの装いから類推しただけで別に推理も何もあったもんじゃない。ここは病院のような施設なんだろう、とあたりをつけていたのだ。
「じゃあ栄養剤と……ついでに針も取り替えますね」
「はい、お願いします」
看護師(仮)さんの手際はものすごく良かった。針などいつ刺されたのかもわからないくらい上手だった。
テキパキとやることを次々に行っている彼女であったが、それでも私には見逃せないものがあった。
――恐怖の色。しかも明確に態度と表情に表れている。
注射をミスることに対して? それはないだろう。だってあんなに上手かったんだから。恐らく上司だろうあのドクターに対して? それはあるかもしれない。もしかしたらすごく怖い人なのかも。
でも多分そのどれとも違う。もっと大きな「何か」に対してこの人は怯えている。震える手が、声が、嫌でも私にそれを伝えてきていた。
「それでは失礼します。何かあればまたボタンで呼んで下さいね」
そう言い残して彼女は去っていった。
「うーん……」
あまり呼びたくはないなぁ、あの感じを見ると。理由はわからないけれど申し訳ない気持ちになる。
多分ドクターも来るはずだし、その時に一緒にお願いしてみよう。
その予想通り、彼は今日もやってきた。少し疲れて見えるのは気のせいだろうか。
「調子はどう? 木崎さん」
「昨日とあまり変わりません。あの……木崎……っていうのが私の苗字なんですか?」
「うん、そうだよ。木崎明日香、それが君の名前だ」
「そうですか……」
自分の名前さえ思い出せないなんて情けない。どこか懐かしさを感じる、となればまだ救いはあったけれど、今の私には初めてに聞こえる音の並びだった。
「無理はしないように。少しずつだよ」
「はい、ありがとう……ございます」
その言葉は明日から日常は戻るという不安に対して何よりの救いだった。
「今日は明日からの生活に備えて、最低限必要な記憶、つまり今は忘れているけど知っていないといけないことを教えておかなくちゃと思ってね」
「はい、お願いします」
それは本当に必要なことだ。先程の名前も含め、私には知っていないといけないことが絶望的に抜け落ちている。少しでも補完しておかなくてはいけない。
復習になるけど、まず君の名前から――
そこからは少しずつ、私が噛み砕いて理解するのを待つように、ゆっくりと情報が伝えられた。私の名前、生年月日、住所、通っていた学校名とクラス、そして家族構成が主であった。
どうやら私には両親の他に弟もいるらしい。木崎太郎……言ってはいけない気もするが安直すぎやしないだろうか。どうしたんだ、私の両親。私が生まれた後にネーミングセンスが先祖返りでもしたのだろうか。
「――以上が、今君が知るべき情報だ。何か質問はあるかい?」
「はい、特には……あ」
「ん?」
「その、私の家族は、私がこんなことになってるのを知っているんでしょうか?」
「もちろん、昨日君の状態がわかってからすぐに連絡を取らせてもらったよ。付け加えるなら学校にもね。言ったでしょ? 任せておけって」
「はい、それは有難いんですが、受け入れてもらえるのかなって心配が……」
「『娘のことを第一に考えています』だってさ。良いご両親じゃないか」
「……はいっ……! ありがとうございます!」
声が掠れてしまったかもしれないけれど、それでも構わなかった。そんな風に想ってくれる人たちとなら、私はきっと上手くやっていける、そう思うと胸の奥底から込み上げてくるものがあったのだ。
「じゃあ僕からは一つだけ」
居住まいを正して彼は真剣な口調で語りかけてきた。
突飛な話になるんだけど、と前置きした上で――
「この部屋は少し特別な作りになっていてね。過ごした人たちはしばらくの間『磁力』を帯びてしまうんだ。説明するよりは実践した方が早いよね。あ、磁力はわかるかな?」
「はい、何となくは……磁石とかのあれですよね」
「そうそう。N極とS極のあれだね。君はもう中学三年生だし習ってて当然か」
多分、勉強はしていたのだろう。漠然とした知識として頭の中に存在するのはわかった。しかし原理を問われると無理だ。せいぜい反発するか引き付け合うかしかわからない。……この辺りの知識も飛んでくれて一向に構わなかったな。
「簡単に言うとこの部屋で過ごした人たちは人間磁石のようなものになるんだよ。ああもちろん常にじゃない。そうだったら即死だろうからね」
よく分からないけどそうなんだろうか。
「磁力を帯びているモノを任意で引き付けられる、と言えば分かりやすいかな。例えばここにちょうどいい鉄製のボールペンがある。距離にして二メートル弱。これを手に取ってごらん」
いや、そんな簡単に言われても困る。エスパーか私は。
「ボールペンに片手で狙いを定めて『来いっ』て感じで念じるといいよ」
そんなまさか――が起きてしまった。
言われた通りやってみただけなのだ。一瞬のうちにドクターの手元にあったボールペンは私の手の中に収まっていた。タネのないマジックだ。私はこの一芸で食べていける……!
「この部屋を出て少しの間はその体質が続くかな。心配しなくても一週間くらいで消えてしまうから大丈夫。元の体質に戻るよ」
少し、いやかなりがっかりした。
「さて、ここからが本題だ」
また彼は真面目な口調へと戻っていた。
「この体質を人前で披露するとどうなると思う?」
「……不思議がられますかね?」
「それで済めばかなりマシな方だね。出る杭は打たれるこの国で特異体質は致命的だ。人間社会からつまみ出されてしまうよ?」
……まあそう来るかなとは思っていた。
「人前でその体質を使わないこと。これが僕にできる最後のアドバイスだ。せっかく明日には元の生活に戻れるのに台無しになってしまう。」
「……一週間の我慢だよ。それだけでいい。自己顕示欲の強さは人それぞれだけど、有るなら有る、無いなら無いことに慣れるのも人間の性質さ。今の君には無い方がいいものだ。間違いないよ」
「……わかりました」
説得力のある言葉だ。マイナスからのスタートを切らなくてはいけない私にとって、さらなる重しを背負うことになるのは避けなくてはならない。
「うん! 僕からは以上だ。他には何かあるかい?」
「はい、今朝点滴の栄養剤を取り替えてもらったんですけれど……何故か看護師さんを怖がらせてしまったようで…………できればこの後の交換は別の方にお願いしたいな、と思っているんですけど大丈夫でしょうか?」
「…………」
「……あの、先生……?」
「――あぁ申し訳ない。変な気を使わせてしまったみたいだね。そのように取り計らっておくよ」
ドクターの言葉に対し、私は何も返事を返すことはなかった。その必要がなかったからじゃない。
ーー彼の顔には押し殺しきれていない「怒り」の色がはっきりと浮かんでいたからだ。