5
〈九月六日〉
目覚めて最初に見たのは知らない天井だった。
使い回された表現としてのそれではなく、文字通り知らないベッド、知らない場所に私は仰向けに寝かされていた。
全く状況が飲み込めない。
とりあえず身体を起こそうと試みるがそれも叶わなかった。
両腕には強固なギプスのようなものが取り付けられ、それがベッドの両脇に固定されていたのだ。身体拘束もいいところだ。私の人権とやらはどこにいったのだ。
しばらくガチャガチャとやって人力では無理だと悟り、状況の変化を待つことにする。何もこのままずっとこんな拘束状態だということもないだろう。何かしらの意図があって私はこのような状態に置かれているのだ。ならば時間の経過と状況の変化を待つしかない。
そのように考え、ある程度自由に動く頭で周囲を見渡した。
とても広い部屋だった。しかし殺風景に過ぎる。
やたら広い空間の中央には私が寝ている(拘束されている)ベッドのみが位置し、その周囲には点滴のような医療機器が必要最低限置かれている。今気付いたが、そこから出ている一本の管は、私の左手ギプスにつながっている。
ということはここは病院なのか。
しかし、その考えに至るにはいささか疑問がある。まずこの部屋には窓が一個もない。採光など難しいことはわからないけど、普通に考えてこれは病室としておかしいはずだ。
私の記憶にある病室なんかは――
脳内に強烈なノイズが走った。頭の中の雑音は動く鉄条網のように思考の詮索を遮断する。
記憶……病院……なんかは……。
そこまで思考を巡らせてようやく気付いた。私は何故ここにいるのかがわからない。いや、百歩譲ってそれはいい。突然倒れて担ぎ込まれた可能性だってある。より重要かつ致命的だったのは――
私は――「私」が誰なのか分からない。
記憶喪失。
その単語自体は頭の中にある。大丈夫。整理しよう。私は全てを忘れたわけじゃない。一部分ぽっかりと抜け落ちているだけのようだ。
「――木崎明日香さん?」
突如聞いたことのない男性の声が部屋に響いた。いや、これも私が忘れているだけで本当は知っている声なのかもしれないけれど、考えてもどうしようもないことなのだ。
その声の主はいつの間にか部屋のドアを開けて中に立っていた。装いを見るに……医師である。年の頃は三十、四十辺りだろうか。ドクターとしてはかなり若く見える。わたしが今までかかってきた病院の先生は――
――今まで? ……ダメだ。記憶に蓋がされていて断片的な情報しか拾えない。
「良かった。お目覚めのようだね。これで心身共に問題なさそうだ」
実は大ありなのだけど。
「……それは私のことでしょうか?」
素直に尋ねることにした。
「そうですが……何か間違ってましたか?」
「いえ……実は、自分のこととか色々思い出せなくて……名前とかも……」
「――――」
医師の顔に一瞬妙な色の表情が走った。しかし、それもすぐに消え失せ、彼は柔らかな表情を浮かべていた。
「そっか……なにせ大きな事故だったからね。一時的にそのようなパニック状態になるのも無理はないよ」
彼はベッドの横にあった椅子に腰掛けて話を続けた。
「――君は学校で階段から落ちたんだ」
「足を滑らせ三階の階段から二階へと続く踊り場まで。しかも頭から。覚えてないかい?」
「いいえ……すみません」
「君が謝ることじゃないよ。運が悪かっただけで事故は誰にでも起こりうるものだ。たまたま貧乏くじを引いたというわけだね。しかしまあ命に別状がなくて良かった」
「あの……この両腕は……」
「ああ! 申し訳ない。今日意識が戻るまでの間、君は酷くうなされていたんだ。それこそベッドから落ちるくらいに。かと言って栄養を摂らないわけにはいかない。そういうわけで軽い身体拘束を行った上で栄養剤の投与を行っていたんだ」
そう言って彼はベッド傍から鍵のようなものを取り出し、カチャリという音を立てて私の両腕は若干の痺れと共に自由となった。
「もちろん、ご両親に身体拘束の許可はとってあるよ。……確認するけど君の家族のことは思い出せるかな?」
思い巡らす思考の手は雑音の網によって阻まれる。
「……いえ、全然」
「そうか……ちょっと失礼」
そう言ってドクターは持参していたのであろうタブレット型PCを広げた。
「ちょっとした現状の確認だ。君が何を忘れ、何を覚えているか確認する必要があると思ってね」
素直に答えて欲しい、と彼は言った。
「君の名前は?」
「……わかりません」
「生年月日は?」
「わかりません」
「住所は?」
「わかり……ません」
「繰り返しで申し訳ないんだけど、家族構成は?」
「わかりません……」
「君が通う学校名は?」
「わかり……ません……」
繰り返される似たような質疑応答の中、嫌気がさしてくる。もちろん自分に対してだ。
どうして私は大切なことを何も覚えていないんだろう。どうやら言葉や道具の名称、用途といった部分に落ちはないようだが、肝心なことが揃ってすっぽ抜けている。これじゃあ私が何者なのかすらわからないじゃないか。
「オッケー、大体わかったよ。起きてすぐに大変なことに付き合わせてごめんね」
「いえ……」
「どうやら一時的なショックから、直近の記憶と身近な物事に対しての記憶を拾えない状態みたいだね」
「心配しなくても、それらの記憶は消えてしまったわけじゃないよ。あくまで思い出せないだけ。時間や何かしらのきっかけが解決してくれるさ」
「あの……これから私はどうすれば……」
「何かしらのきっかけ、と今僕が言ったように、今まで君が置かれていた環境でなるだけ近い生活を送ること。それが記憶を取り戻す一番可能性がある方法だ」
「もう君の身体に問題はないし、意識が戻った以上、ここに留まる必要性もない。そうだね……具体的には明後日には君が暮らしていた元の生活に戻ってもらうことになるかな」
そんな急な。この状態で心の準備も何もできていないのに……。
「残念ながらこの部屋も特別枠みたいなものでね。他にも空きを待っている人たちがいるんだよ。それに現状を整理できたのは良いことだ。現状に落ち込むのは大いにわかるけど、プラスに考えていかないと何事も進展しない。大丈夫、明後日までには家族の元に戻れるよう僕が完璧に手配しておくよ」
任せておいてくれ、と胸を叩くジェスチャーと表情から、本当にそのようになるんだ、との自信が垣間見える。
「はい、わかりました。よろしくお願いします……」
「うん、オッケーだ!」
その後、この部屋の使い方をレクチャーした後、白衣のドクターはさわやかな笑顔で出ていった。食事は……多分今の心境だと喉を通らないので続けて点滴でお願いすることにした。
人工的な光しか存在しないこの部屋では時計しか時間を知る手段がない。今は夜の九時。普段の私は何をして過ごしていたんだろう。
重要な情報を拾い上げようとするたび、その都度走るノイズに阻まれ、いつした私は過去の自分について考えることを諦めていた。
ふと見上げた左腕の関節辺りから伸びたチューブの先には馬鹿でかい点滴パックが吊り下げられている。これだけの水分が身体に入れば夜に催すことも十分考えられるな。
不安。それしかなかった。
一体私はどこの誰で、どのように成長し、どんな生活を送っていたんだろう。
自分のことなのに何もわからない。
これから先、私はどうなってしまうのだろう。あの医師の言うように、元の生活に戻れば記憶も戻るのだろうか。あるいは……」
どうしてもマイナスに傾く思考は歯止めが効かず、もし〜だったら、など考え出してはキリがない。
……寝よう。
それが今の私が負のスパイラルから抜け出す唯一の方法だ。眠れるかはわからないけれど、目を閉じているだけでも違うかもしれない。
明後日には元の生活に戻れるのだとドクターは言った。なら明日は……どんな……一日……なの…………だろ………………う。
目を瞑ると不思議と抗えない微睡みへと意識は落ちていった。