三章 その⑤
「この度は愚息のあなた方に対する行い、なんとお詫び申し上げてよいか」
ベッドの上で、上体を起こしたオーモンド氏がエルシーにゆっくりと頭を下げかける。
「あ、まだ無理なさらないでください。私なら大丈夫ですので」
エルシーは慌ててオーモンド氏の動きを止めに入った。
今、部屋にいるのは、彼を含めて、エルシー、アーネスト、そしてヴィンスの四人のみ。その他の医者と使用人たちは退室を命じられた。それから、エルシーとヴィンス、双方から話を聞いたオーモンド氏が真っ先にしたのは、エルシーへの謝罪とヴィンスへの叱責だった。
「ヴィンス、お前はっ……! 何ということをしたのだ」
「でも、夫妻は喜んでいたんだ、これは人助けだ」
「人の道理に外れるということがどういうものか、理解できていないとはいい大人が聞いて呆れる。お前にはまだまだ聞くことはありそうだ。一旦席を外しなさい。それと今から証拠隠滅を謀っても無駄だぞ。必ずいずれどこかで発覚する」
ヴィンスは苦悶で表情を歪めたが、父に眼光鋭く見据えられると青ざめた様子で部屋から出ていった。
部屋が静かになると、オーモンド氏はエルシーとアーネストに椅子を勧めた。
「重ね重ね、これまでのことお詫びします。こんなことを言うと擁護しているように聞こえるでしょうが、ヴィンスは元来真面目な性格でして、私も安心して事業を任せられると思い、経営学やら何やら、いろいろ伝授しました。あの養護施設にいる一部の子供が特殊能力者だということをヴィンスに教えたのも私です。息子にはゆくゆくは施設の運営を任せるつもりだったので、そういう事情も把握しておいてほしかったんです」
「ヴィンスさんの話では、父がそういう能力の子供たちを探して集めていた、とのことでした。ということは……あまり考えたくはないのですけれど、父が能力者の子供をどこかに送るために造られた施設なのでしょうか……?」
エルシーはグッと唇を噛み締めた。知るのは怖いが、絶対に避けて通れない道だというのも理解している。
「いいえ、とんでもない」
オーモンド氏は即座にかぶりを振った。
「私がお父上であるウェントワース侯爵と初めてお会いしたのは、仕事関連の場でした。侯爵は気さくな方で、平民である私にも対等に話してくださり、大変素晴らしい方でした。その侯爵から、養護施設を引き継いでくれる人を探している、と聞かされました。しかし、当時私も仕事が忙しく、それだけなら名乗り出ていませんでいた」
「では、どうして……?」
「ああ、それは……。申し訳ありません。ここの一番上の引き出しを開けていただけますか?」
言われた通り、エルシーはベッド横のチェストの引き出しを開けた。しかし数枚の白い紙が入っているだけで、特別なものは見つからない。
「それは二重底になっていましてね。そこの窪みを持ち上げてください」
エルシーは底に小さな窪みを見つけ、指を引っ掛けて上げてみた。すると、そこには小さな木箱が入っている。
それを受け取ったオーモンド氏は、中から折り畳まれた古い紙を取りだし、エルシーに差し出した。
薄茶色に変色しかけた紙をゆっくり広げると、懐かしい文字が並んでいる。忘れもしない父の筆跡だ。
それに視線を走らせたエルシーの瞳が大きく見開かれる。
「何度かお会いするうちに、侯爵は、恐れ多くも私というしがない男を高く買ってくださっていたようなのです。養護施設にいる〝声の能力者の子供たち〟のことを話してくださいました。侯爵は、世間から日陰に追いやられている子供たちを少しでも救いたい、という信念をお持ちで、私はいたく感銘を受けました。それで、引継ぎを受ける決意をした次第です」
オーモンド氏が紙の内容の補足をする。
そこには――こう記してあった。
『すべての子供たちに明るい未来を。自信を持って前を向いて歩けるように』と。
「では、父は……他所に斡旋するために子供たちを集めていたのではなかったのですね?」
「もちろんです。それに侯爵は、自分がそういう信念を持つようになったのは娘の存在が大きい、とも話してくださいました」
「私……がですか?」
オーモンド氏の話によると。
『娘は声が聞こえる能力を持って生まれたが、まだ世間の目が厳しいゆえに私も方法がわからず、つい抑え込むような強い口調になってしまう。世間の誤った認識がなければ、神聖で尊い力なのに。しかし、娘はまだ親である私がいるが、守ってもらう者のいない子供たちは行き場を失っている。そんな子供たちを助けたいと思えるようになったのも、娘が同じ力を持っているからだ、他人事とは思えない』と、ウェントワース侯爵は語っていたという。
「お父様の、私の力に対する厳しい態度は……私を想ってのことだった、と……」
「親というものは、我が子を愛するあまり、どうしても厳しく接してしまうものです。しかし……それを話してくださったのは、この家を訪問していただいた時なのですが……陰でヴィンスに聞かれていたようです。私の落ち度です。申し訳ありません」
オーモンド氏は頭を垂れた。
「その紙は、侯爵が亡くなってから施設を整理している時に見つけました。王都に出向く用件がある時にお訪ねしてお渡しようと、大切に保管していたのですが、その矢先、階段から落ちまして。その紙もずっと我が家に留まったままでした。ですが数日前、目が覚め、なぜだかご家族に今すぐお渡ししなくては、という使命感に駆られました。しかし身体は動かせず、こうしてご足労いただいた次第です。侯爵のお考えも直接お伝えしたかった。……今にして思うと、侯爵が私の目を覚めさせてくれたのかもしれません」
エルシーは大事そうに紙をそっと胸に当てた。そこから父の温かい想いが流れ込んでくるような気がして、目を閉じる。
(お父様……ありがとう。私のような子供たちの“お父様”になってくれて)
その目からゆっくりと、透明な雫が零れ落ちていった。
「アーネスト様……上手く説明できないんですけれど、私……ようやく本当の自分を受け入れられるような気がします」
「ああ……」
アーネストは短く答えると、エルシーの肩をそっと抱き寄せた。
それから二日後。
エルシーとアーネストは王都にまだ戻っておらず、セルウィン公爵家の領主屋敷に留まっていた。
原因は、アーネストの静養である。オーモンド氏と話をしたその日の夜、屋敷に戻ったアーネストはそのまま寝込んでしまったのだ。エルシーは心配のあまり、心臓が止まりそうになったが、久しぶりに使った魔力の放出が原因とのことだった。家令によると、アーネストが風の魔力を最後に使ったのはもう十年以上前になるという。本来なら、魔力保持者は専属の教育を受けるが、アーネストはそれを放棄し、あえて騎士の道を選んだ。しかし、身体の芯にある力そのものはずっと潜在し続けていて、今回はそれを無理やり叩き起こすように使ったため、身体に影響を及ぼすのは必然だという。
エルシーは毎日アーネストの世話を買って出たが、しばらく静養すれば元通り元気になると聞いて、ホッと胸を撫で下ろした。
その間、オーモンド邸には調査団が入り、行方不明になった三人の子供も地下室から無事に見つかった。ヴィンスは親から引き継いだ事業が順調に進むうちに慢心して、新しい仕事に手をつけたが、畑違いの分野であることが災いし、借金を重ねるようになった。それで、ケレット夫妻に近づき子供を斡旋し、見返りとして多額の資金を得るようになった。さらに調べによると、エルシーの母の宝石を盗むよう使用人のロブをそそのかしたのもヴィンスだと判明した。
三人の子供は、またどこかに〝需要〟がありそうな場所へ送ろうと、ヴィンスは計画を立てていたようだ。しかし、その証言により国外の人身売買の商人が絡んでいる疑惑が浮上。国を挙げての大捜査が水面下で始まっている。
アーネストも巻き込まれた当事者の一員として、今すぐ捜査隊に加わりたかったが、何せ力の反動で、自分の意思とは関係なく、突然睡魔が襲ってくるのである。この調子では到底職務にも戻れない。
仕方ないので、その旨を国王と第一騎士団に書簡で伝えた。
それでも自分の不甲斐なさに精神が押し潰されそうで、少しでも身体を動かそうとアーネストが剣術の稽古を始めようとしていたところで、運悪く、彼を探していたエルシーに見つかってしまった。
「もう、アーネスト様、じっとしていてください!」
こうしてエルシーに部屋へ送還され、ソファに座らされている。
「三人の子供の引き取り先にケレット夫妻が再び名乗り出ているそうですね。……あ、そういえば、ひとつ気になっていたんですけど」
午後のお茶の用意をしながら、エルシーは尋ねた。
「オーモンド邸の昼食で、とてもゆっくり食事なさっていましたよね?あれは何か意味があったのですか?」
「ああ、それは……」
アーネストはおもむろに口を開いた。
「毒味だ」
「ど、どくっ……?」
エルシーは驚きのあまり、持っていたティーポットを落としそうになる。
「ロブをそそのかした男の正体は、もしかしたらヴィンスかもしれないと思った」
「どうしてですか……?」
「最初昼食に誘われた時点では俺たち三人だった。だが、突然のケレット夫妻とアンナの訪問で急きょ六人で食事することになった。その割にはすぐに食事が運ばれてきたから、最初からヴィンスはそのつもりだったんだろうな」
「そんなことで……?」
「おそらく、俺たちがオーモンド邸を訪問した際、使用人をケレット家に向かわせ、俺たちの来訪を知らせた。そこへ偶然を装って彼らは登場したんだ。訝しがられず、ごく自然に君と繋がりを持つために。彼らが欲しかったのは君だ。だから、いざとなった時、邪魔なのは俺だと踏んだんだ」
「用心が徹底してらっしゃるんですね……。とにかく、アーネスト様の害になるものが混入してなくてよかったです」
ティーカップをテーブルに置きながら、職業柄それぐらい用心して当然なのかもしれない、とエルシーは思った。
「だが、思わぬとことで不意打ちを喰らうこともある」
「そうなんですか、意外ですね……あっ!」
アーネストのとなりに座ろうとしたエルシーは、急に腕を掴まれ引っ張られた。そのまま彼の膝上に乗せられる。
いきなり視線が近くなったこの状況に驚いて離れようとするが、自分を捕らえた腕はしっかりと身体に巻きついて、びくともしない。
「あ、あのっ……」
「そんなに恥ずかしがることもないだろう。この前は君の方からキスをしてきて、俺の頭を胸に抱いたくせに」
熱い視線に見つめられ、エルシーの心臓が一気に高鳴る。
「あ、あれは咄嗟の衝動だったというか……思い返すと恥ずかしいです」
あんなに大胆な自分がいたなんて、今でも信じられない。
屋敷に戻ってからアーネストはそのことには触れなかったので、エルシーもそのまま平静を装い、やり過ごそうとしていたが……見逃してはくれなかったようだ。
「いつもの君からは想像もつかないからか……ますます君を知りたくなった」
「は、恥ずかしいので、も、もうおっしゃらないで……!」
エルシーは真っ赤になった顔を両手で覆う。普段楚々としてしっかりしている分、そういう風に初心な反応を見せるのは、ますます男を煽情するだけだ、とアーネストは教えてやりたくなった。しかし、あまり意地悪をして、本気で拗ねられては困る。
アーネストは渋々といった風にエルシーを解放すると、彼女を横に座らせた。
「もう……お戯れがすぎますと、いつまでも回復しませんよ」
エルシーは咎めるように眉を寄せてアーネストを見たが、その頬はまだ赤みが抜けていない。無性にそれが可愛くて、アーネストは彼女を抱きしめたい衝動をぐっと抑え込んだ。
「あ、お花が……」
ふと、エルシーの視界に、窓際に飾られている花瓶が映る。大輪の色とりどりの花が挿してあるが、そのうちの花びらが何枚も窓際に落ち、小さな絨毯を作っていた。
「私、片づけてきますね」
そう言って窓辺に近づく。
本来なら使用人の役目だが、侍女精神が骨の髄にまで染みわたっているエルシーである。誰かに頼むより自然と身体が動き、花びらを拾い上げようとかがんだ、その時。
風もないのに、突然、落ちている花びらが全部、ゆっくりと浮き上がった。そのまま一本の細い帯状となり、開け放たれたバルコニーへと抜けていく。
「あ……」
エルシーは慌てて後を追った。花びらはそのままくるくると風に乗って、遠く青い空へと消えていく。
その不思議な光景に、幼い頃の記憶が重なる。自分専用の花壇の花びらが、遠く昇っていったのと、全く同じ――。
『昔、君の家を訪問した際、庭でひとりで誰かと話している幼い君を見た』
同時に、以前のアーネストの言葉も思い出した。
(確かに、小さい頃の私はよく庭で〝声たち〟と話していたわ。アーネスト様は、昔、私の家に来たことがある、っておっしゃっていたわよね……。もしかして、あの日、アーネスト様がたまたまうちにいらしていて、私がそれに気づかず庭に出ていたのだとしたら……)
記憶の断片が、新しい仮説を導き出していく。
「もしかして今のは、アーネスト様の風の魔力ですか? それに、昔こんな感じで私の花壇の花びらも――」
エルシーは急いで部屋に戻ったが、すぐに言葉を切った。
アーネストがソファに座ったまま、目を閉じている。
(眠ってしまわれたの……?)
ゆっくり近づくと、規則正しいかすかな寝息が聞こえてきた。力の反動の影響で、彼が急に眠りに陥ってしまうことはエルシーも理解しているので、驚くことなく、その横に腰かける。
(ゆっくり休んでください、アーネスト様)
エルシーはアーネストに顔を近づけると微笑んで、そっと頬に口づけた。
真相を尋ねるのは、また今度にしよう。ふたりの時間は、これからもずっと長いはずだから――。
次は新章です。