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三章 その④

(そんな……お父様が……私を疎んで……?)




『それを口に出してはならないと、その歳になってもわからないのか』


 エルシーの頭に甦る、父との最後の会話。厳しい声と険しい表情、そして、振り払われた手。


 その手をつなぐことは、永遠にできない。


(お父様にとって、私はいらない子だったの……?)


 本当は、薄々自分でも気づいていたのかもしれない。それを認めたくなくて、目を逸らし続けていたのかもしれない。父亡きあと、懸命に働いてきたのは家族のためではあるが、本当は、こんな自分でも少しは父に褒められるはず、と心のどこかで自分自身を慰めていたからなのかもしれないーー。


 エルシーの心の糸がプツンと切れて、全身から力が抜けたその時。


「エルシー、しっかしろ」


 アーネストがエルシーの腰を抱き寄せ、かろうじて身体を支えた。


「ヤツの戯言には耳を貸すなと言っただろう」


「で、でも……お父様が……」


「エルシー、俺を見ろ。今、君の瞳には何が映っている? あいつに作り出されたまがい物の父親の姿か、それとも実在する俺か」


 エルシーは顔を上げてアーネストを見つめた。彼の黒い瞳はいつも通り凪いでいて、そのままでいると、自分の中で渦巻く暗い感情ごと何もかも、吸い込まれてしまいそうだ。しかし、その瞳の奥には、エルシーを信じる芯の強さと全てを包み込む温かな灯が見える。


(……そうだったわ……。アーネスト様がいてくださるだけで安心できるのは、ありのままの私を受け入れて認めてくださっているからだわ……!)


 エルシーの瞳に再び光が宿るのを感じたのか、アーネストがゆっくりと口角を上げる。それを見て、エルシーも微笑むとしっかり頷いた。そして、ヴィンスに視線を戻す。


「あなたがなんと言おうと、私は私よ。何も恥ずべきことはないわ。過去に後悔はあるけど、これは私の問題。あなたなんかに踏み入らせないわ」


「くっ……なんだ、いきなり」


 エルシーの意志のこもった強い眼差しに気圧されるように、ヴィンスが低く呻く。


「と、とにかく、あなた方のせいで、これからのケレット夫妻からの援助金は期待できない。余計なことをしてくれた」


 ヴィンスは机の引き出しを開けると大きな呼び鈴を取りだし、力任せに振った。するとそれが合図だったかのように、書斎の扉が開き、数人の男たちが雪崩れ込んできた。皆、剣や太い棒、斧などを手にしており、屈強な体格をしている。


「我が家の護衛も兼ねた使用人たちですよ。おとなしく捕まってください」


「私たちをどうするつもりなの?」


「公爵様には消えていただいて、エルシー様はその力でどなたかの役に立ってもらいましょうか。実はね、その力を神聖視している辺境の国もあるんですよ」


 もうヴィンスの世迷言などに翻弄されるエルシーではなかった。むしろ、彼を不憫に思い始めていた。自分たちが忽然と姿を消せば、王立騎士団が総出で捜索を始めるだろう。ヴィンスが捜査線上に上がり、捕らえられるのは時間の問題。そういう発想には至らないのだろうか。


「我を失った人間は突拍子もないことを思いつく天才になれるらしい」

「同感です」


 アーネストの呟きにエルシーが頷く。こんな状況でも落ち着いているふたりが癪にさわったのか、ヴィンスが苛立ち気味に「やれ」と男たちに指示を出した。


 アーネストはエルシーの腕を引いて、バルコニー側へと移動した。部屋の入口はふさがれているので、逃げ道はここしかない。しかも、本日アーネストは騎士団長ではなく一貴族として出発したため、佩剣していない。状況的には明らかに不利だ。


 相手が国内でも名高い凄腕の騎士団長だと知っているのか、男たちはじりじりと間を詰めてはくるものの、いきなり斬りかかったりしてこない。


「アーネスト様……どうすれば」


「少しの間、辛抱してくれ」


 アーネストは後ろ手にガラス扉を開くと、エルシーをバルコニーへと連れ出した。夕刻の風がエルシーの長い髪にまとわりつく。


 すると、アーネストは突然エルシーの身体を抱きかかえ、バルコニーの手すりに向かって助走し始めた。


「えっ、な、まさか飛び降りるつもり──」


 心の準備など与えられなかった。エルシーの言葉が切れたと同時に、彼女を抱きかかえたアーネストの身体が手すりを飛び越える。


「きゃあああ!」


 エルシーは悲鳴を上げながら、アーネストの首にしがみついた。


 ここは二階だ。飛び降りれば確実にふたりとも無事ではすまされない。


(ここで人生終わり……? でもアーネスト様と一緒なら)


 そう思ったところで、エルシーは違和感に気づく。とっくに地面に叩きつけられてもいいはずなのに、その衝撃が襲ってこない。


 不思議に思い、恐る恐る目を開けて――エルシーは息を呑んだ。


 自分たちの身体全体を包み込むように、風がぐるぐると渦巻いている。まるで小さな竜巻の中にいる感覚だ。その風に守られてゆっくりとふたりの身体が下りていく。そして、地面に足が着いた瞬間風は消え、視界が開けた。


 鬱蒼とした木が立ち並ぶ向こうに、オーモンド邸を取り囲む塀が見える。


 「アーネスト様、今のは一体……」


 エルシーが声を発したところで、頭上から「落ちたぞ!」という男の声が聞こえてきた。


「あの塀まで進むぞ」


 アーネストはその問い答えることなく、エルシーの手を引いて駆け出す。


「あの向こうに、セルウィン公爵家の騎士たちが待っているはずだ。朝、出発前に、もし夕刻までに俺たちが戻らなければオーモンド邸の近くで待機しろ、と指示を出してきた」


「そうだったんですか……あっ!」


 エルシーの言葉の途切れる。アーネストが突然足を止め、がっくりと膝から崩れたのだ。


「アーネスト様⁉」


 慌てて傍にしゃがみ込むと、アーネストの額がうっすらと汗で滲んでいるのが見えた。珍しく少し息も上がっている。


「どうなさったのですか⁉ まさか着地時にどこか痛めて……」


 そこまで言いかけて、エルシーにふとある考えがよぎった。


 不自然なあの風……誰かが“起こした”のだとしたら……?


「……あの風は、アーネスト様が……? まさか、風の……魔力……?」


 アーネストが息を整えながら、わずかに頷く。


「そう、だ……。他に手段がなかった。……悪い」


「いいんです、それより初耳です……!」


「……ああ、だが長く使っていなかったら、自分の中で上手くコントロールできるか、俺自身にもわからなかった。その程度で、風の魔力の保持者だと、名乗るわけにはいかない」


 きちんと会話が成り立っているので、意識ははっきりしていそうだ。しかし久しぶりに力を放出しすぎたせいか、立ち上がるのは困難なようだ。


 その間にも、「こっちだ」という男たちの声が近づいてくる。


「エルシー、君だけでも逃げろ」


「そんな、嫌です! アーネスト様を置いていくなんて」


「俺なら大丈夫だ。必ず抜け出してみせる。惚れた女を最後まで守り切れないなんて、騎士としても男としても情けない話だが」


「嫌です! ここであなたを置いて行ったら、女がすたります!」


「そんなこと言っている場合か。とにかく早くーー」


「私の気持ちもわかってください!」


 突如、エルシーはアーネストの襟をつかむと、ぐっと引き寄せた。そして彼の唇に自分のそれをぎゅっと押し付ける。


 あまりの出来事に、アーネストは何が起こったのかすぐには理解できず、思考も身体も固まってしまった。


 しかし、草を踏み分けて近づいてくる足音が耳に届き、どちらともなく身体を離した。途端に、エルシーの頬が熱を帯びる。


「ア、アーネスト様、こっちに……!」


 ごまかすように呟くと、アーネストの腕を支えて立ち、太い木の幹の陰に身を潜めた。姿勢を低くし、辺りの様子を窺う。


(ああ、私にもっと力があれば、何か切り抜けられる方法を見つけられるかもしれないのに……!)


 エルシーはアーネストの頭を包むようにして胸に抱きしめた。アーネストひとりだったなら、正面から男たちの包囲網を突破するのは容易だっただろう。しかし、そんな乱闘に自分を巻き込むまいとして他の手段に出た結果、彼にとんでもない負荷を与えることになってしまった。なんとか助けたいが、エルシーにはその力がない。あるのは、声なき者の声を聞く能力だけ。その声たちも、今のエルシーに対して何も伝えてこない。


(……当然よね。これまで散々遠ざけておいて、都合のいい時だけ手助けしてほしい、なんて願ってはいけないわ)


 エルシーは自分の非力さに唇を噛み締め、さらに腕に力を込めた。





「もう大丈夫だ」


 どれくらいそうしていたかわからないが、アーネストがエルシーの背中をトントンと軽く叩き、合図を送ってきた。


「そろそろ離してくれないと、俺も限界が近い」


 エルシーはパッと離れる。


「あ、ごめんなさいっ、苦しかったですよね」


「そうじゃないが……」


 アーネストは顔を逸らし、邸の方へ視線を向けると「やっぱりな」と呟いた。


「人が近づいてくる気配が消えた」


「え……?」


「その代わり、屋敷の方が少し騒がしくなっているようだ」


エルシーも彼同様、そちらへと意識を集中させる。確かに、少しだが人の声と邸内を走る音が混ざって聞こえてくる。


 何かあったようだ。


「今なら抜け出せるかもしれない。行こう」


「でも、アーネスト様のお身体が」


「もう回復した。さっきの口づけと、君が胸に抱いてくれたおかげで」


 さらりと言ってのけて、アーネストが口元を少し緩めた。それを見て、エルシーは無我夢中だったとはいえ、先ほどの自分がいかに大胆な行動を取っていたか、改めて認識した。


 羞恥で全身が固まっているエルシーを立たせると、アーネストは塀伝いに進む。そして壊れかかった鉄柵を見つけると思いきり蹴飛ばして、敷地内からの脱出に成功した。


 アーネストの発言通り、少し離れた雑木林の近くにセルウィン公爵家の騎士団員が二十名ほど、待機していた。ふたりが姿を現した瞬間、軽装的な革の胸当てを身につけた彼らが一斉に、恭しく一礼する。


「エルシー、君はここで彼らと待っていろ」


「え、アーネスト様はどちらに?」


「まだヴィンスに聞きたいことが残っている。問いたださなければ」


 アーネストはそう言う間にも、数人の騎士を選んでいる。向こうには護衛役も務める屈強な使用人たちがいる。こちらも万が一のため、態勢を整えて、再度屋敷に乗り込むつもりなのだろう。


「でしたら、私も行きます。取り返しのつくうちに、三人の子供を救出しなくては。それに、ヴィンスさんが言っていた言葉も気になります。あの養護施設は一体何なのか、私には知る権利があります」


「だが、再び危険な目に遭うかもしれない」


「たとえそうだとしても、真実を知らなければ、私は前に進めないんです」


 エルシーはアーネストの袖を強く握りしめた。しばらくふたりは無言で見つめ合っていたが、強い決意のこもった瞳を見たアーネストが、しっかりと頷く。


「わかった。俺のそばを離れるなよ」


「はい……!」


 こうして再びふたりはヴィンスのもとへ向かった。


 三人の子供たちの行方ははっきりとわかっていない。


 屋敷の玄関に到着すると、しばらく待たされたあと、ようやく四十代ほどの使用人の男性が顔を出した。


「エルシー・ウェントワースです。ごめんなさい、ヴィンスさんとお話の途中だったんですけれど、ちょっと手違いで外に出てしまって。彼のところに案内していただけますか?」


「え、ええと、ちょっと今は……」


 なぜか口ごもる男性。邸内の奥からは、やはり慌ただしい人々の声が聞こえてくる。その時、

使用人頭と思われるお仕着せを身につけた白髪の男性が、通りがかり様にエルシーの姿を見つけた。


「そちらは?」


「はあ、それがヴィンス様のお客人のウェントワース様とおっしゃいまして……」


「何? ウェントワース様? ああ、もしやエルシー様でいらっしゃいますか?」


 突然名前を呼ばれ、エルシーは首を傾げる。


「ええ……そうですが」


「ああ、よかった。今、お探ししていたんですよ。ヴィンス様にお聞きしても、知らない、とおっしゃるばかりで、旦那様につきっきりでしたので」


「あの、何かあったんでしょうか?」


「ええ、先ほど旦那様がお目覚めになりまして。エルシー様をお呼びなんです」


 思ってもいなかった展開に、エルシーとアーネストは顔を見合わせた。




 ただちに使用人頭に案内されたのは、二階のオーモンド氏の寝室だった。


 医者らしき人物と数人の使用人に囲まれたベッドの上には、数時間前と同じく、長く白い髪と髭をたくわえた男性が横たわっている。ただ唯一違うのは、彼の目が開き、しっかりと天井を見据えていることである。


 アーネストは騎士たちに廊下での待機を言い渡すと、エルシーとともに中に入った。ヴィンスがそれを見て、驚きの声を上げる。


「お、お前たちっ……!」


「お静かになさって。お父様の身体に響きますわ」


 エルシーはやや強めの口調でヴィンスを制すると、少しだけ前に歩を進める。


「お初にお目にかかります。エルシー・ウェントワースと申します。この度はお招きいただき、ありがとうございます」


「おい、ずうずうしいぞっ。誰が入っていいと言った⁉」


 ヴィンスは怒りを露わにして大股で近づいてきたが、スッとアーネストの影が動き、前に立ちはだかる。その横をすり抜けて、エルシーはまた数歩近づいた。もはや彼女の対面相手は、この屋敷の息子ではなく、当主であるオーモンド氏だからだ。


「おい、無視するな、いい加減に――」


「いい加減にするのはお前だ」


 その時、少ししわがれた声が部屋に低く響いた。声の聞こえてきた方を向くと、ベッドに横たわった男性が、ヴィンスに向けて強い眼差しを送っている。


 おおよそ長年、昏睡状態に陥っていた人物のものとは思えぬしっかりとした声色に、ヴィンスは一瞬信じられないといった面持ちで身体を強張らせたが、すぐに父のそばに駆け戻った。


「ああ、父さん、意識がはっきりしてきたんだね、良かった……!」


「……ああ、何とかな。心配をかけてすまぬ。……それと、そちらのお嬢さん。あなたがエルシー様ですな。お呼び立てして、申し訳ありません」


 オーモンド氏が少し目を細めた。




 






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