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三章 その②

 翌日は朝から薄雲が広がっていた。朝食を済ませ、再びセルウィン公爵家の紋章が刻まれた立派な馬車に、ふたりで乗り込む。


 今日向かうオーモンド氏の邸宅は、ここから三時間ほど走ったところにある。こうして何の心配もなく出発できるのは、アーネストが事前に道を詳しく調べてくれていたおかげだ。


「君の父上とオーモンド氏はどんな関係だった?」


「仕事で知り合ったと聞きました。父は、信頼できるひとに会えてよかった、と言っていましたが、親しくしていたという話は聞いたことがありません。でも、こうして父とゆかりのある方にお会いできるのは嬉しく思います。我が家が傾きかけると、次第に離れていく人の方が多かったですから。それでもひとりではこうして行動に移せなかったと思います。アーネスト様が一緒に来てくださって、とても安心しています」


 エルシーは素直に感謝を述べると、微笑んだ。


「まさか、私のような娘がアーネスト様ほどの男性と婚約することになるなんて、父が一番驚いているんじゃないでしょうか」


「君は自分を過小評価しすぎだ。これまで頑張ってきた君を、さぞ父上も自慢に思っていると推測するが」


「……それはどうでしょうか……」


 アーネストの言葉に、エルシーの表情が少し曇る。


「……私は親不孝者だと、自分では思います。以前、グローリア様の馬車の件でお話ししましたよね、父の出発の日のことを。父はとても険しい顔をして、私を叱責しました。〝声〟を聞き入れてはならない、という父の教えを私は破ってしまったんです。父はとても失望したと思います。私も……まさかそれが最期の別れになるなんて……思っても……いませ……」


 あの日の父の顔を思い出すうちに、悲しみで胸がいっぱいになり、語尾が続かない。


「すみません……ついこんなことを話してしまって……お耳汚しでした」


「そんなことはない。君は昨日言ってくれただろう、俺のことはなんでも知りたいと。俺も同じだ」


 アーネストは穏やかに言うと、エルシーの手に自分のそれを重ねた。彼はそれ以上その話題には触れなかったが、変に慰めの言葉をかけられたところで余計に彼女の心は深く沈んでしまっていただろう。


 ただ静かに自分の気持ちに寄り添ってくれている。エルシーにはそれだけで充分だった。


 やがて、馬車はオーモンド氏の邸宅へと到着した。爵位は持っていないが、広大な土地に屋敷を構えているあたり、かなりの資産家であると見てとれる。馬車の降り口近くまで出迎えに現れたのは、きちんとした身なりの二十代半ばほどの若者だった。


「わざわざこのような遠い地まで足を運んでいただきまして、ありがとうございます。ヴィンス・オーモンドです」


 馬車から降りたエルシーたちも自己紹介を済ませると、さっそく応接室へ案内される。しかし、そこにヴィンスの父であるオーモンド氏らしき人物の姿はなかった。


「誠に申し上げにくい次第なのですが……父は一昨日から、再び意識が戻らなくなりまして……」


「まあ……っ」


「それまではエルシー様や婚約者様と会えるのをとても楽しみにしていたんですが……ご連絡差し上げようにも、もうすでに王都を出立なさっていると思い、どうにもできなくて」


 かしこまった面持ちで頭を下げるヴィンスに、エルシーは慌てて首を左右に振る。


「そんな、どうかお顔をお上げください。それは仕方のないことですわ。それよりお父様が回復なさって、私たち家族のことを思い出してくださっただけでも光栄です。きっと今は少しお疲れになっているだけだと思います」


「そうおっしゃっていただけて、こちらとしても嬉しい限りです」


 ヴィンスが再び微笑むと、エルシーもホッとして笑みをこぼす。しかし、そんな和やかな空気の中、アーネストの抑揚のない声が異質のように響いた。


「オーモンド氏のお顔を拝見しても?」


「えっ……」

「ちょ、ちょっとアーネスト様……」


 ヴィンスの意表を突かれたような声と、エルシーの焦った声が重なる。


「いきなりそんな、失礼ですよ」

「何が」


 エルシーの咎めるような眼差しにも、アーネストは平然と向き合う。


「オーモンド氏に会えなかったら、我々はここに来た目的を失う。それに、このまま帰ったところで、王都で待つ母上や弟に、君はなんと報告するつもりだ?」


「う……それは……」


 考えようによってはアーネストの言うことにも一理あるので、エルシーはすぐさま返す言葉が見つからない。


(……そういえばここ最近忘れていたけれど、アーネスト様は思ったことはまっすぐ口に出すタイプの人だったわ……。こんなことで、名門セルウィン公爵家の当主が務まるのかしら……。これまでそれを注意する人が近くにいなかったのなら、これからは私が教えて差し上げないといけないのかしら……)


 将来を見据えてつい黙り込んでしまったエルシーを見て、ヴィンスは彼女がアーネストに責められて言葉も出ないと勘違いしたようである。ふたりの間を取り持つように、明るい声を上げた。


「構いませんよ。どうぞ、父に会ってやってください。父が目覚めた時、なぜそのままお帰りいただいたのか、って僕の方こそ叱られてしまいますから」


 ヴィンスの好意によって、エルシーとアーネストは屋敷の二階へと案内されることとなった。オーモンド氏の寝室は南側の広い一室で、大きな窓に面して寝台が配置されている。そこに横たわるのは、長く白い髪と髭をたくわえた老人だった。実年齢は老人と呼ぶにはまだ早いのだろうが、長年の病床生活で頬は痩せこけ、精気が全く感じられない。エルシーは一瞬言い知れぬ不安に駆られたが、近づくと微かではあるが呼吸の存在を確認できて、胸を撫で下ろした。


「そろそろお暇しましょう、アーネスト様」


 アーネストはオーモンド氏の姿をじっと見つめていたが、エルシーに促され、一緒に部屋をあとにする。


「まもなく正午です。よろしければ、昼食をご一緒にいかがですか?」


 廊下の先から、ほのかに食材のいい匂いが漂ってくる。きっと遠路はるばるやって来たエルシーたちをもてなそうと、すでに準備が始まっているのだろう。その好意を断るのもためらわれて、エルシーは「ええ……」と控えめに誘いを受けた。アーネストは何も言わないので、そのつもりなのだろう。


 エルシーの問題はこの三人で食事をすることだ。会食の場に相応しい会話等は、花嫁修業のマナーのひとつとして目下受講中であるものの、何せ実戦経験がない。ヴィンスとは初対面なので何の情報もなく、彼がどのような会話を好むのか手探りするところから始めなくてはならない。アーネストにも、その場を盛り上げるような会話能力が備わっているとは考えられず、下手をすると空気を凍り付かせかねない。


(食べる前から胃が痛くなるってどういうこと……?)


 エルシーが顔をひきつらせていると、屋敷の使用人がヴィンスのもとへ駆け寄ってきた。小声で何か伝えると、「参ったな」とヴィンスが困惑気に眉を下げる。その様子が気になって、エルシーはつい声をかけた。


「あの、どうかなさいましたか?」


「ああ、いえ、急に来客があったようで……。大丈夫です、すぐにお帰りくださるよう伝えますので」


「それは申し訳ありませんわ。また日を改めるというのも、大変でしょう。私たちなら待っていますので」


 アーネストが何か言う前に、エルシーは『私たち』を強調して先手を打つ。そんなエルシーにアーネストは視線を向けたが、とりわけ異議は唱えなかった。


 「そうですか、こちらこそ恐縮です……。あ、そうだ、よければあなた方を紹介させていただけないでしょうか?」


「私たちを……?」


「はい、今お見えになっている方々……ケレット夫妻とおっしゃる商家の方なのですが、ウェントワース侯爵様から引き継いだあの養護院に、毎年運営資金を寄付してくださっているのです。養護院をお建てになった侯爵様の業績にとても感銘を受けていらっしゃる方々で、ご夫妻もそこから養女を迎えて、お育てになっています。その方も一緒にお見えです」


「他にも支援者の方がいらっしゃったんですね。それは是非お会いして、父に代わってお礼申し上げたいですわ」


 エルシーが快諾すると、ヴィンスは顔を輝かせ、先方にその旨を伝えに駆けて行った。



 

 その数分後、エルシーとアーネストはケレット夫妻と対面を果たし、皆で昼食の席に着くことになった。先ほどまで三人で食事をすることへの憂いを抱えていたエルシーにとって、彼らの登場は思いがけない救いとなった。


 食事はすぐに運ばれてきて、和やかに会食は始まった。ケレット夫妻はともに四十代前半ほど。夫婦そろって柔和な笑顔で、エルシーに会えたことを喜んでくれた。そんな彼らにエルシーもすぐに親近感を抱く。特にケレット夫人は朗らかで人当たりも良く、上手に会話を盛り立てている。エルシーは女主人のあり方を目の当たりにし、勉強するつもりで夫人の会話に聞き入っていた。


 それでも時折、アーネストの方へ視線を向けてみる。彼は振られた内容には言葉少なげに返答するものの、それ以外は黙々と料理を口に運んでいた。


(アーネスト様って、意外とゆっくり食事なさる方だったのね……それはそうね、公爵様だもの。ガツガツ食べたりはしないわよね)


 エルシーは視線を前に戻した。


 夫人の横には、栗色の髪の少女が座っている。彼女が、施設から引き取られたアンナという養女で、十歳だという。しかし、流行りの可愛らしい薄ピンクのドレスに身を包み、同色のリボンで髪を飾られたアンナは、ずっと下を向いていてエルシーと目を合わせようとしない。少し顔色が悪いように思えて、エルシーは先ほどから気になりっぱなしだ。


 その視線に気づいた夫人が、アンナの肩にそっと手を回す。


「ああ、申し訳ありません。この子はつい最近引き取ったばかりで、まだマナーなどに自信が持てないようでして。どうか大目に見てやってくださいな。王都からいらっしゃった本物の貴族のお嬢様方を前にして、とても緊張しているのでしょう」


「本物だなんて、とんでもありません。……アンナ様、私、実はこうして会食の席に呼ばれるのも子供の時以来なんです。もうその記憶も朧げですけど。なので私もマナーはよくわかっていませんので、どうかお気を楽になさってください」


 エルシーはアンナとも距離を縮めたくて、微笑みかけた。その声にアンナはゆっくりと顔を上げる。白い肌に青い瞳、目鼻立ちは整っていて、とても可愛らしい少女だ。しかし、その控えめな眼差しは再び下に向けられてしまった。


 お近づきになりたいというエルシーの思いは、上手く伝わらなかったらしい。これ以上踏み込むのは逆に失礼だと悟ったエルシーは、今はまだそっとしておいて、相手が心を許してくれるタイミングを待つことにした。


 明るく楽しい雰囲気で昼食を終えたあと、ケレット夫妻の提案で、エルシーとアーネストは養護院を訪問することになった。


 ケレット一家とヴィンスの四人を乗せた馬車が先導し、セルウィン公爵家の馬車があとに続く。


 三十分ほど走ったところに、目的の養護院はあった。初めて訪れるのでどんな場所かわからなかったが、建物も割りと頑丈でキレイに保たれている。


 馬車が到着すると、すぐに四十人ほどの子供が建物から出てきて取り囲む。


「ほら、君たち。今日は特別なお客様をお連れしたよ。この施設の創始者であるウェントワース侯爵家の方だ。失礼のないように」


 ヴィンスが声を張ると、子供たちは行儀よく挨拶をしてくれた。皆、健康的で、服装は簡素だがほつれもない。ヴィンスが上手く運営し、ケレット夫妻の支援が行き届いていることを、エルシーは実感した。


「ここの子供たちが幸せそうでよかったです。父もきっと喜んでいると思います。私からもお礼を言わせてください。皆様、本当にありがとうございます」


 エルシーは、これまで支えてくれていた人たちに、改めて丁寧に頭を下げる。これで、ここにきた目的はほぼ達成されたと思っていいだろう。しかし、その場にアンナの姿がないことにエルシーは気づいた。


「あの、アンナ様は?」


「ああ、それが……馬車で待っておりますわ」


 なぜか夫人は歯切れ悪く答える。やはりどこか具合でも悪いのか、とエルシーは心配したが、すぐにそうではない可能性も頭をよぎった。アンナはひとりだけ、引き取られたことに負い目を感じていて、共に育った家族とも言える仲間たちと顔を合わせづらいのではないだろうか。


 「それよりエルシー様、今から子供たちにお菓子を配るのですけれど、このあと、どうぞ我が家にもお立ち寄りくださいませ。大したおもてなしはできませんけど、アンナが是非、手作りお菓子を振る舞いたい、と言っておりまして」


「まあ、アンナ様はお菓子が作れるんですか?」


「ええ、ここにいる間に教わったらしいですわ。とても美味しいんですよ。それに、セルウィン公爵様の騎士団でのご活躍も是非拝聴したく存じますわ」


 ちょうどその時、ケレット氏が馬車から下ろされたお菓子の入ったかごを持ってきた。


「私も手伝いま――」


「あとで行きます。エルシーは少し疲れているようなので、馬車で休ませます」


 エルシーの申し出は、アーネストの強い口調によって、かき消されてしまった。


「まあ。それは気づきませんで。どうぞゆっくりなさってくださいませ。すぐ戻ってまいりますので」


 エルシーにそう言葉をかけると、ケレット夫妻とヴィンスは建物内へと入っていった。


「ちょっと、アーネスト様、一体どういう……」


「アンナが馬車から出てきている。君を見ているようだ」


「えっ?」


 エルシーが振り返ると、アーネストの言う通り、いつの間に馬車から降りたアンナがこちらを見ている。しかし、エルシーと目が合うと、サッと馬車の陰に身を隠してしまった。


「あ、待って!」


 慌てて馬車の裏へ回ると、浮かない表情のアンナが立っていた。


「アンナ様、ご気分でも悪いのですか? お顔の色が優れないようですけれど……」


 エルシーの声掛けにもアンナは答えない。相変わらず下を向いたままだ。


 (やっぱりすぐには心を開いてくれなさそうね。こういう時は無理に詰め寄るのは良くないわ。ゆっくり相手の気持ちに合わせて……)


「さっき、エルシーをずっと見ていたな。何か言いたいことがあるんじゃないのか」


 しかし、エルシーの気遣いに全く気付いていない男の声が、その場の空気を重くしてしまった。思った通り、アンナの顔が引きつる。


「ちょっと、アーネスト様!……あ、ごめんなさいね、アンナ様。いきなりびっくりさせてしまいましたよね」


「……別に……あなたを見ていたわけではありません。ちょっと空気が懐かしくなって外に出ただけです。それに、様付けも敬語もやめてください」


 アンナは小さく声を絞り出すと、エルシーが引き留める間もなく、急いで馬車内へと引っ込んでしまった。


「もう、アーネスト様! いきなり核心に迫って、怖がられてしまったじゃないですか!」


 エルシーは声を抑えつつも、しっかりと抗議の声を上げる。


「それの何が悪い。時間の無駄だ」


「騎士団の尋問時と同感覚でいてもらっては困ります。心の距離というものがあってですね……」


「あの娘、何か隠しているな」


「ちゃんと私の話を聞いてくださ……え?」


「初対面から様子がおかしいと、君も気づいてるだろう。あれは緊張ではない、明らかな怯えだ。俺たちに助けを求めたいならそうすればいい。だが、そうしなかった。ここには今、君と俺しかいないのに」


「それは……そうですけど」 


「とりあえず、俺達も一度馬車に戻って話をしよう。一応、君は疲れていることになっている」


「私が決めたのではありませんけどね」


 やや不満そうに呟くエルシーの手を取ると、アーネストは馬車へと乗り込む。


「それで、これからどうする。この旅の目的は果たしたから、このまま帰っても誰にも咎められはしないだろう。夫人の誘いを断るのもこちらの自由だ。アンナは手作りの菓子を振る舞いたいと言っていたそうだが、どうも俺たちに親しみを持っているようには見えない」


「おもてなししなさい、と夫人に言いつけられてる可能性もありますよ。でも、アンナのあの様子……。少しだけ彼女の話を聞いてあげてもいいでしょうか? この養護院の出身の子ですし、父がこの施設だけは最後まで手放そうとしなかったことから、父はここにいる子供たちをとても大事にしていたんだと思います。私もその……このまま帰ってしまったら後悔しそうで」


 アーネストはエルシーの言葉に耳を傾けていたが、やがて「わかった」と頷いた。


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