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三章 その①

 庭の花壇の水やりの手を一旦止めて、エルシーは青い空を仰ぎ見た。日に日に高くなっていく太陽は、季節がそろそろ初夏の入口に差しかかっていることを物語っている。


 王女の婚約祝賀会から、約一ヵ月が過ぎた。グローリアは無事に隣国ダルタンドへ輿入れし、エルシーは王宮侍女を辞して実家へと戻った。ひとつの大きな慶事を終え、王宮内は落ち着いた空気に包まれているが、秋には国王ジェラルドの婚姻が予定されているので、いずれまた慌ただしく動きだす。それに伴い王族警護の第一騎士団の任務も、さらに多忙を極めるだろう。つまり、今がエルシーとアーネストに与えられた結婚準備の猶予期間であった。


 婚礼衣装の採寸と仕上げは急ピッチで進められ、式やお披露目を兼ねた舞踏会などの段取りも組まねばならない。式も披露宴もあまり派手にならない程度に、というエルシーの意向にアーネストも賛同してくれたが、さすが公爵家の人脈というべきか、招待客はかなりの数に上っている。アーネストの両親は数年前に亡くなっているため、新しく公爵夫人となるエルシーが、広間のテーブル等の配置や飾りつけ、料理や使用する食器に至るまで、すべての采配を振るわなくてはならないのだ。


 長年の王宮務めの成果で美しい所作は身についているので問題はなかったが、思いのほかエルシーを苦しめたのはダンスだった。没落寸前だった我が家に舞踏会を催せるような余裕はなく、当然招待を受けたこともない。これ幸いとエルシーは仕事に没頭してたのだが、ここに来てそのつけが回ってくるとは思ってもいなかった。貴族令嬢が通常、数年かけて身につける技術をこの短期間で、しかも超一流にまで磨き上げておかなければならない。セルウィン公爵家の若き女主人に世間の注目が集まる舞踏会で失敗などしたら、アーネストの顔に泥を塗ることになる。エルシーは気力を振り絞って、毎日ダンスのレッスンに励んだ。


 そんな忙しいエルシーの息抜きは、今やきちんと整備された庭の草花の水やりだ。色とりどりの花を眺めていると不思議と心が落ち着く。父が生きていた時と同じようによみがえった庭園を眺めながら、しばし過去の思い出にふける。


 まだ自分の能力が異質だなんて考えてもいなかった幼い日。両親に頼んで自分専用の花壇を作ってもらい、花々に水を与えるたびに《アリガトウ》といった声を感じるのが嬉しくて、夢中になっていた。しかし、水量が多かったのか、数日後に花びらがすべて地面に落ちてしまうとい〝惨事〟を引き起こす。もう花たちの声が聞けないのだと、打ちひしがれていた時、突然、花びらが宙に舞い、くるくると風に乗って、空高く飛んでいったのだ。青い空に花びらが吸い込まれていく不思議な光景は、とても美しい絵となって今もエルシーの心の片隅にある。


(こうしてじっくりと思い出す事自体、忘れてしまっていたわ)


 エルシーは人知れず微笑み、水やりを終えてから屋敷に戻った。すると、玄関の方から何やら騒がしい気配を感じる。不審に思いながらそちらへ歩を進めると、エルシーの姿を見つけた新顔の侍女が表情を強張らせ、早足で近づいてきた。


「あっ、お嬢様……」

「何かあったの?」

「それが、屋敷の周りをうろついていた不審な男を門番が見つけ、捕らえたとかで……」


〝不審な男〟という響きに、エルシーの身体が固まる。まさか、あの事件の裏にいる人物が、直接エルシーの様子を窺いにきたのだろうか。


「私が行って確認するわ」


 エルシーは拳をぎゅっと握りしめて玄関へと向かう。怖い気持ちはもちろんあるが、自分のせいで大切な家族が危険な目に遭ったら、と思うと恐怖より怒りの方が勝ってくる。ここできちんと対峙して相手の目的を明白にしなくては。


 玄関ホールから外に出ると、門扉へと続くアプローチがある。その門扉の近くに、屈強な男の使用人たちに両腕を掴まれている若い男性の姿があった。こげ茶色の帽子と上着を身につけており、不審人物にしては、わりときちんとした出で立ちだ。


「何度も言うが、僕は怪しい者じゃないって!」

「では、なぜ屋敷の様子を窺うような真似を?」


 声を荒らげる帽子の男性に対し、冷静な姿勢を崩さないのは、新しく雇い入れた五十代の家令だ。


「だから、なんとなく入りづらかったんだ、って言ってるだろう。とにかくこの家の奥様か、お嬢様に会わせてくれ」

「何かやましいご事情がありそうな上、お約束もされていないお客様をお通しするわけにはまいりません」


 家令が屋敷の主たちに取り次ぎもせず、こう頑なな態度なのにはわけがある。不審に感じた者はひとりたりともこの屋敷に入れるな、というアーネストからの強い指示を受けているためだ。


「僕にはあとがないんだ。エルシーに、ヘクター・アボットが来たと、伝えてくれ」


(えっ、ヘクター?)


 彼らのやりとりが耳に届いたエルシーは驚いて思わず目を見張った。その男性の姿を確かめるために近づくと、やはり以前に王城で再会したヘクターだった。


「あっ、エルシー……」


 安堵と気まずさが入り混じったような情けないヘクターの声に、家令は振り向くと、エルシーに軽く頭を下げて一歩退いた。


「お嬢様、こちらの方が面会を希望されていますが……」

「話はだいたい聞きました。大丈夫、この人のことは知っています。友人……ではないのは確かだけれど。知り合い……と言えるほどお互いを知らないわよね。じゃあ顔見知り程度……?」

「……僕に聞かないでくれ。なんだか惨めに思えてくる」


 ますます情けない声を出すヘクターを見たエルシーは、緊張感から解放されて小さく息を吐く。そして、とりあえず彼を客人として応接間へ通すよう、家令に指示を出した。


  



 「ああ、僕は砂糖多めがいいんだ。ミルクもたっぷり入れてくれ」


 応接室のソファにどっしりと構えたヘクターは安心したのか、お茶を運んできた侍女にそう要求した。しかし、正面に座るエルシーにじっと睨まれていることに気づくと、慌てて咳払いし、居住まいを正す。


「しかし、この部屋も見違えるようにキレイになったな」


 ヘクターは左右に首を巡らせ、呟いた。確かに、最近まで殺風景だったこの空間も、アーネストのおかげで家具も絵画もそろえられ、貴族の館の応接間としてふさわしくよみがえった。


「そうね、公爵様には本当によくしていただいているわ」

「騎士団長であるセルウィン公爵とエルシーが婚約した、と噂では聞いていたけど、本当だったんだな……チクショウ」


 なぜかヘクターは面白くなさそうに口を尖らせたが、エルシーにはその理由がわからなかった。


「ところで、私たちに何か用事でも? あとがないって言っていたけど、私たちに関係があるの?」


 エルシーとしてはさっさと本題に入って用件を済ませたい。ダンスレッスンもこのあと控えている。


「あ、ああ……実は、情けない男だと思われるかもしれないが」

「知ってるわ」

「ひどいな!……いや、否定はしないけど」


 ヘクターはやや口ごもりながらも、話し始めた。


「僕なりに将来については考えていたんだ。次男だから家の家督は継げないし、だったらいっそ身ひとつで何か大成してやろうと……意気込んで事業に手を出したものの……すべて上手くいかなくて。親に頼み込んで尻ぬぐいはしてもらったけど……繰り返すうちに親父にとうとう勘当を言い渡された」


「まさか……」


 エルシーの頭を嫌な予感がよぎる。


「親には頼れないから、私の所にお金の無心に来たの? 確かに、一時はあなたの家からの支援に助けられたわ。それを返せということなら、何も言い返せないけど」

「ち、違う!」


 ヘクターは慌てた様子で立ち上がったが、すぐに再び座り直す。


「そこまで性根は腐っていないつもりだ。……それに今は幸い借金はない。実は、お願いがあってここに来た。君の父上が運営していた養護施設を、今はオーモンドという人物が引き継いでいることは知ってるか?」


「ええ……父から聞いていたわ」


 借金返済のため、父は多くの財産を手放したが、その中には領地も含まれていた。それでもそこにある養護施設は守りたいとしばらく運営を続けていたが、次第にそれも立ち行かなくなり、オーモンドという資産家に運営権を譲ったのだ。


「そのオーモンド氏だが、数年前、階段から足を滑らせた際、頭を打って昏睡状態になった。でも最近、奇跡的に意識が回復して、君たちウェントワース家の人々に会いたいと言ってるらしい」


「どうして? それにヘクター、ずいぶん事情に詳しいのね」


「たまたまオーモンド氏の息子と知り合う機会があったんだ。僕より少し年上の実業家で、名前はヴィンス。彼は寝たきりになった父に代わって、ずっとその養護施設を営んできたんだ。彼は僕がウェントワース家と遠縁であることを知って、取り次ぎを頼んできた。彼は父親思いで真面目な性格だから、僕としても何とか願いを叶えてあげたいんだ」


 ヘクターは力説すると、やや冷めかかった砂糖たっぷりの甘ったるいお茶を一気に飲み干した。


「施設の子供たちの生活を守ったのは、運営事業を引き継いだオーモンド氏だ。君もウェントワース家の人間として、ある意味世話になった人たちへの恩を感じているだろう? その恩人の願いを叶えたいとは思わないか?」


 昔の姿とは想像もつかないほど、ヘクターは真剣な眼差しでエルシーの情に訴えてくる。


 エルシーはしばし逡巡した。確かに、オーモンド氏が引き継いでくれなければ、施設の子供たちは他所へ送られるか、最悪の場合は浮浪者になっていた可能性もあった。いくら人手に渡り、今は無関係だといっても、父の始めたことをこれまで守り続けてくれたオーモンド親子には頭が下がる思いだ。ウェントワース家の長子として、直々に会ってちゃんとお礼を伝えたいという感情も湧いてくる。


(でも引っ掛かるのは……どうしてこんなにヘクターの思い入れが強いのか、ということだわ)


 ヘクターに関しては、施設のこともオーモンド親子の事情も全くと言っていいほどの部外者だ。昔から付き合いがあるならまだしも、まだヴィンスと出会ってから日も浅く、ヘクターがそこまで肩入れする道理が見当たらない。


「ヘクター……さっき、あとがない、って言ってたけど、そのヴィンスという人から得するような何かを持ち掛けられてるんじゃないの?」


 エルシーの質問に、ヘクターが動揺したように肩を揺らす。鎌をかけたつもりだったのだがその分かりやすい反応を見て、エルシーはため息をついた。


「そう、その通りだよ。……実はヴィンスが手掛ける事業に一枚かませてもらおうと申し出たんだが、なんせ僕には実績がない。でも、彼が言うんだ。『父の願いを叶えてくれたら、考えてもいい』って」


「つまり、私達をだしに使おうって魂胆ね」


「ごめん、君には悪いと思ってるよ。でも、誰も相手にしてくれない中、彼だけがとりあえず僕の話を聞いてくれたんだ。もし成功すれば、世間を見返せるし、親からの勘当を解くきっかけにもなる。難しいことは言われていない、ただ面会するだけだ。頼む、代わりに君の頼みは何でも聞くよ」


 ヘクターは、もうダメだと観念したのか、床に両膝をつくと深く頭を垂れた。


 「ちょ、ちょっと、そんな真似やめて」

「いいや、こうでもしないと僕の気持ちはわかってもらえないだろうから」


 エルシーは困惑した。いろいろ納得はいかないが、大の大人の男性の情けない姿はこれ以上見ていられない。


「わかったわ。少し考えさせて」

「本当か? ああ、ありがとう!」


 喜びを露わにしたヘクターは顔を上げると、サッと立ち上がった。調子だけはいいわね、とエルシーは内心ため息をつくと、もう何も意見は述べず連絡先だけを聞いて、彼を帰らせた。





 その日の夜。

 エルシーは家を訪ねてきたアーネストに、昼間のヘクターの来訪と要件を話した。


「オーモンド氏はおそらく長旅は無理でしょうから、こちらから出向かなくてはなりません。でもそれはこちらも同じで母の身体に障るでしょうし……でも母を置いていくのは心もとないので、ルークにはここに残ってもらおうと思います。なので私しか動ける者がおりません」


 アーネストはしばらく考えていたが、彼の口から出た答えは簡潔だった。


「わかった。俺も一緒に行こう」


「えっ、一緒にきていただけるのですか?」


「いくら使用人も連れて行くとはいえ、女性の旅は心細いだろう。今はそんなに忙しくないから、数日休暇も取れる。その人物の住む場所は、ちょうど我がセルウィン公爵領の近くだ。実は暖かくなったら視察も兼ねて訪れたいと思っていたんだ。それに、王都にいない親族にも君を紹介できるいい機会だ」


「親族……?」


「そう言えば詳しく話していなかったな。祖母がそこで悠々自適に暮らしているんだ。……ああ、そこまで緊張する必要はない。そこまでは二、三日かかるから旅行感覚だと思ってくれたらいい」


(旅行……アーネスト様と初めての!)


 その響きが新鮮で、妙にそわそわしてしまう。


「……しかし、君が乗り気でないなら無理には勧めないが」

「いえ、行きます、行きたいです!」


 エルシーが間髪入れずに返答したことにより、オーモンド氏面会の件はあっさり決定事項となった。

 


 




 王都を出て二日目の晴れた昼下がり。エルシーたちを乗せた馬車の一行が、並木の続く街道を緩やかに走っている。


 アーネストによると、もうすでにセルウィン公爵領のレストリッジという名の土地に入っているらしい。気候も過ごしやすく大地も肥沃で農作物がよく育つ。その言葉の示す通り、車窓からは緑豊かな畑やどこまでも広がる青い草原を見渡すことができる。


 侍女として長く王宮で過ごし、たまの休みには実家に帰るだけを繰り返していたエルシーにとって、旅そのものがとても新鮮で、目に止まる全てに興味を惹かれた。しばらく外の景色を眺めていると、遠くに小さな白い固まりがいくつも見えてきた。


「アーネスト様、あれは羊──」


 問いかけとともに振り返ったエルシーだったが、あとに続く言葉をすばやく飲み込む。


 向かい合って座っているアーネストが腕組をしたまま、首を少し前に傾けて目を閉じている。


(普段お忙しくて、とてもお疲れなんだわ)


 騎士団の仕事に加え、公爵家当主として領地経営や管理など、アーネストがやるべきことは多い。


 それでも一切疲れを見せず、アーネストはこの旅の間もずっとエルシーに親切だった。現に先ほどまではちゃんと起きていて、道中エルシーが興味を惹かれた物や光景について、丁寧に説明してくれていた。しかし彼女がじっと外を見つめ無言でいる間に、つい寝入ってしまったのだろう。


 エルシーは静かに眠るアーネストを見つめた。見慣れた騎士服ではなく、白いシャツと黒のトラウザーズ、黒いブーツという出で立ちだ。長い移動中は窮屈なのか、上質な緑色の上衣とクラバットは身につけず、座席の脇に置かれている。普段は黒い騎士服に覆われて固い印象のアーネストも、こうしていると少し雰囲気が和らいで違う印象を受ける。


(本当にキレイね、顔立ちも、髪も……)


 彼の額にかかる髪を払おうと手を伸ばしかけたエルシーは、ハッと我に戻ると慌ててそれを引っ込めた。ほのかに頬が熱を帯び、心臓はうるさく鼓動している。


 触れたい、と無意識に手が出た衝動にエルシーは戸惑う。シャツ姿のせいで、いつもは騎士服に覆われている鍛えられた上半身の逞しさを間近に感じ、ますます落ち着かない。さらに『そういえば一度だけあの腕に抱きかかえられたんだったわ』などど勝手に過去の記憶が甦ってしまうのだから、もうどうしようもない。


 母が倒れ、道を彷徨っていたエルシーを抱きかかえて馬車に乗せてくれた温かい腕。あの時は母のことで必死でアーネストの行動にときめく余裕すらなく、その後も侍女の仕事や結婚準備に忙殺されていた。こうして長い時間ゆっくりと彼と向き合うのは初めてだと、エルシーは改めて思う。


 アーネストは相変わらず表情の変化には乏しいが、さりげない気遣いや時折向けられるわずかな微笑みに、エルシーの胸は苦しく甘く締め付けられる。


(最初は家族にとって頼れる存在が欲しいと思っていたけど……私はいつの間にかこの人に惹かれている……)


 この感情の正体にはとっくに気づいている。しかし、口に出して伝える勇気がまだ持てなくて、そんな自分がもどかしくて、エルシーは再び窓の外に顔を向けた。


 すると、広大な草原の向こうに、何やら建物のような大きな塊が見えてきた。近づくにつれ、石造りの立派な城館だとわかる。しかも、真っすぐ走っていた馬車が道を逸れ、その城館に向かっているのは明らかだ。


 エルシーは目を見開いた。


(まさか……)


「あれが、我が領主館だ」


 彼女の心の声が届いたのか、肯定の返答が馬車内に響く。エルシーが振り返ると、いつの間にか起きていたアーネストがシャツの襟を正してクラバットを身につけているところだった。続いて上衣にも素早く袖を通す。


「すまない、少し寝てしまったようだ」


「そんな、お気になさらないでください。私こそ子供みたいにはしゃいでしまって、申し訳ありません」


「いや、君が楽しんでくれていたのなら、俺も嬉しい。それに、誰かの前で眠るなんて初めてかもしれない。物心ついた頃から、隙を与える人間になるな、と祖父や父から言われ続けてきたせいかな」


 アーネストは窓の外に視線をやった。彼はセルウィン公爵家の大事な跡取りで、当然その地位に相応しい人間になるべく育てられた。しかし、その教えと重圧が、かえって彼の本来持つ自由な感情表現に制限をかけてきたのかもしれない。そう思うからだろうか、エルシーの目には彼の横顔が少し寂し気に映った。


(……でも、私には少しずつ心を開いてくれてる、ってことかしら)


 それが本当なら嬉しいが、ただの自惚れかもしれない。エルシーが何と声をかけていいかわからずにいると、アーネストから気遣わし気な声が発せられた。


「悪い、暗い話に聞こえたな」


「いえ……アーネスト様のことは何でも知りたいと思いますので、お話してくださるのはとても嬉しいです。夫婦になるのですから」


 自然と口から出た言葉にエルシー自身も驚いて、顔が赤くなる。


「……もちろん、アーネスト様がお嫌でなければ、ですが」


「嫌だったら、そもそも結婚を申し入れていない」


 アーネストが答えたところで、馬車がゆっくりと停車した。

扉が開かれ、エルシーはアーネストに手を引かれながら馬車を降りる。車内での彼の最後の言葉が心地よく、なんだかふわふわとした足取りで地上に立ったエルシーだったが、すぐに身体が硬直した。


(なんて大きい館……いいえ、お城よ、これは!)


 目の前には、荘厳な石造りの城館がそびえ立っている。周囲に他の建造物がないこともあり、その大きさでさらに威光を放っていた。国内屈指の名門貴族に嫁ぐのだと改めて自覚する。


 アーネストの話だと、祖父と父はずいぶんと厳格な性格だったようだ。ここに住んでいる祖母もそうだったらどうしよう。エルシーの家柄は許容範囲内だとしても、今の没落ぶりを知ったら結婚相手として相応しくないと反対されるだろうか。


「大丈夫か? 手が震えている」


「は、はい……私、アーネスト様の将来のために、いつでも身を引く覚悟はできています」


「……どこからそんな発想が舞い降りてくるんだ」


 呆れ口調のアーネストは、エルシーの手を自分の腕につかまらせると、大理石の階段をゆっくりと上り始めた。玄関先には仕立てのいい黒服を着た壮年の男性が立っていて、ふたりが姿を現すと深く腰を折った。


「お帰りなさいませ、旦那様。ようこそおいでくださいました、エルシー様。私は家令のブレントと申します」


 エルシーもドレスをつまんで礼の姿勢を取る。


「大奥様もおふたりの到着を心待ちにしていらっしゃいますよ。ですが、まずはお部屋で長旅の疲れをお取りになってくださいませ」


 ブレントの優しい笑顔に、エルシーの緊張も次第にほぐれていく。ふたりは用意されたそれぞれの部屋に案内されると、アーネストの祖母に対面するために身なりを整えることにした。


 

 

 それから数十分後、アーネストとエルシーは廊下で落ち合い、ともに祖母のもとへと向かった。

 通されたのは明るく開放的な談話室だった。南側は一面は大きなガラス窓になっており、陽光が部屋中に行き届いている。至る所に花や植物の植木が設置されており、一瞬エルシーは温室を連想してしまった。


 アーネストの祖母と思われる老婦人が、窓近くの肘掛け椅子にゆったりと身体を預けて座っている。髪こそ真っ白なものの肌艶は健康的で、気品溢れる婦人だ。

 アーネストが帰館の挨拶をし、エルシーが緊張の面持ちで自己紹介すると、祖母は柔和な笑顔でふたりを迎え入れた。


「いらっしゃい、ふたりとも。私がアーネストの祖母のニコラよ。婚約の話は聞いているわ。本当におめでとう」


「……ありがとうございます。セルウィン公爵家の名に恥じぬよう尽力し、アーネスト様をお支えします」


 ニコラが心から婚約を祝福してくれたことが嬉しくて、エルシーの目元が潤む。


「本来なら応接間にお通しするのが筋なんだけれど、こちらに来てもらってごめんなさいね。今は日中のほとんどを、陽当たりのいいこの部屋で過ごしているの。ここの空気を吸っていると、とても気分がいいのよ」


「ええ、そうですね。確かにここはとても明るくて、空気も美しいです」


 ふたりに近くの長椅子を勧め、にっこりと微笑むニコラに、エルシーも同調した。しかし、ただ見た目だけでそう言ったのではない。この空間に入った瞬間、複数の〝声〟の存在を微かに感じ取ったのだ。直接エルシーに話しかけてはこないので、何を言っているかまでは認識できない。ただ、笑い声にも聞こえ、喜んで歌っているようにも思える。それらはエルシーの意識を向けさせるほど強い念ではなく、あえて言うなれば小鳥のさえずりのように心地いい音だった。


 

 夕刻からの晩餐も穏やかな雰囲気のまま終わり、ニコラは就寝のため、早々に自室に引き上げていった。アーネストとエルシーは食後のお茶とデザートをゆっくり楽しんでから、席を立った。話しながらゆっくりと部屋へと向かう。


「お祖母様、とてもお優しくて素敵な方ですね」


「ああ、昔から朗らかな人だった。厳格な祖父とは対称的で、こんなふたりがよく夫婦になれたものだと不思議に思ったこともあったが、けんかひとつしなかったところを見ると、仲は良かったんだろう」


 アーネストによると、ニコラは今でこそひっそりと静かに過ごしているが、若い時は乗馬が得意で、よく近くの森に狩りに出かけていくほど活発だったらしい。アーネストは王立騎士団で要職に就いている都合上、ここには住めないため王都で一緒に暮らすことを以前ニコラに提案した。しかし、ここの空気が好きだから離れたくない、と断られたのだという。 

 

 やがてエルシーの客間の前に着いた。アーネストの部屋は、そのふたつ隣りにある。


「今日は疲れただろう。ゆっくり休んで、明日に備えよう」


 明日はオーモンド氏と面会する。数日前、先方には手紙で来訪の予定を告げており、了承の返事ももらっている。ふたりは就寝の挨拶を交わし、互いに部屋に戻っていった。

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