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二章 その①

 結婚の時期については、グローリア王女が輿入れするまではエルシーも側仕えの侍女の仕事で手一杯なので、それが無事に過ぎてから自分たちの結婚準備に取り掛かることにした。


 早速、次の休暇に合わせて、エルシーはアーネストを連れ、婚約の報告をするために実家へ寄った。

 その喜ばしい知らせに、「娘を末永くよろしくお願いします」と何度も頭を下げ、涙ぐむ母を見て、エルシーの目にも涙が溢れた。


 それからのアーネストの行動は迅速だった。まず自分の屋敷の使用人の中から信頼できる者たちを数人選んでウェントワース侯爵家へ送りこみ、新しく雇った使用人の教育に当たらせた。ところどころ朽ち始めた屋敷の修繕を腕のいい職人に依頼し、王都の名医を母の主治医に任じた。家の中は常に温かく明るく保たれ、さらに毎日の食卓には、豊富な料理が並び、母の顔色もかなり良くなった。もちろん、ルークも家庭教師のもと、日々熱心に勉学に励んでいる。


 喜びに満ちた文面で綴られたルークからの手紙で、実家の近況を知ったエルシーの心に穏やかな風が吹いた。


(頼んだのはルークの後見のことだけだったのに、お母様や屋敷のことも全て、お気遣いいただいて感謝しきれないくらいだわ)


 アーネストにおいては、婚約者の実家がみすぼらしいままでは世間体が悪いと感じた上での行いだったのかもしれないが、エルシーにはその配慮が嬉しかった。


 せっかく縁あって婚約者となったのだから、彼のことをもっと知りたいと思う。その為には、自分も素直に彼と向き合わなくては。そうすれば、この前のようにさらに彼の新しい一面に出会えるかもしれない。


 エルシーの心は数年ぶりに軽やかだった。





 

 第一騎士団長であるアーネストのもとには、連日、王都や国境を警備する他の騎士団からの報告がもたらされる。それらをまとめ、全騎士団と軍の総帥たる国王陛下へご報告に上がるのも、第一騎士団長の重要な任務だった。


 アーネストが訪れた先の執務室で、悠然と椅子に腰かけているのは、茶褐色の髪と青い瞳の、端正な顔立ちをした青年。二十四歳の国王ジェラルドである。


 いつも通り、騎士団からの報告を受けていたジェラルドだったが、アーネストが最後に述べた内容に驚き、一瞬言葉を失った。


「……すまない、よく聞き取れなかった。もう一度言ってくれないか」


「このたび婚約いたしました、と申し上げました」


「相手は、妹の侍女のエルシー・ウェントワースだったかな」


「全て聞こえていらっしゃるではありませんか」


 この無駄なやりとりを予感していたアーネストが、呆れを含む口調で言い返したのに対し、目の前の若き王はいたずらっ子のような笑みを浮かべている。


「すまない。なんだか再度君の口からはっきり聞いてみたくなってね。そうか、君も落ち着く覚悟を決めたか。ともかくめでたい。おめでとう」


「ありがたきお言葉を賜り、光栄に存じます。彼女に結婚の申し入れをする後押しをしてくださったのも陛下であらせられます。重ねて感謝申し上げます」


「はて、私は何かしたかな?」


「これまでさまざまなご令嬢を推薦してくださいましたが、臣下である私のためにこれ以上陛下のお手を煩わせてはならないと決心した次第です。私が誰かと婚約すれば、陛下にもご安心いただけるのではないかと」


「それで自分で相手を見つけたというわけか」


 肯定の意志を示すようにアーネストが少し頭を下げると、ジェラルドは面白くなさそうに執務机に頬杖をついた。


「つまらないな。君がご令嬢たちをどう退けるか、毎回楽しみにしていたのに。私からの紹介とあって、君も彼女たちを邪険にはできなかったはずだからね。それより、君がどんな言葉で彼女に結婚を申し込んだか、気になるな」


「周囲がやたら見合いを勧めてくることにうんざりしている、と伝えました」

「……それは言わなくてもよかっただろう。まったく君という人間には本当に驚かされるよ。まあ、それを聞いて相手が受け入れたというのも充分驚きだけどね」


「良き夫婦となれるよう、最善を尽くします」


「確か彼女は最初、母上の侍女ではなかったかな。私も目をかけておこう。……さて、他にも言いたいことがあるんじゃないのか?」


 ジェラルドは瞳の奥に鋭い光を宿すと、姿勢をもとに戻した。その視線を、アーネストは顔色ひとつ変えずに黙って受け止める。


「これからは自分の保護下にあるから、例の件で彼女への手出しは許さない、と念を押しに来たんだろう?」


「許さない、などど、そのような不敬な発言、私ごときが口にできるはずもありません。それに、例の件はまだ本人の耳には届いていないようです」


「まあ、まだ内密事項だからね。……ともかく、君たちふたりを心から祝福するよ。この国の王ではなく、ひとりの友人として」


 ジェラルドは先ほどまでの硬い表情を崩して、柔和に微笑んだ。その表情に偽りは感じられない。

 

 彼は王太子時代に、慣例として一時騎士団に身を置いていた。その時、出会ったのが四歳上のアーネストだ。練習相手となった大抵の騎士は、ジェラルドの身分を考え、手加減しているのが見て取れたが、アーネストだけは王太子であろうと容赦なく、全力でジェラルドの相手を務めた。身をわきまえろと腹立たしく感じたこともあったが、その執拗な鍛錬のおかげで、剣の腕前は今や騎士団長と並び称されるほどである。それに、保身のために誰かに媚びたりしないアーネストの実直さを、ジェラルドは案外気に入っていた。


「良かったな、アーネスト。長年の本懐を遂げられそうで」


「……ご報告は以上ですので、これにて退室をお許しいただきたく存じます」


 アーネストは特に否定することなくその問いを受け流すと、深く一礼したのち、王の執務室をあとにした。





 一方、エルシーがこの婚約に前向きな意思を固めた数日後、異変は起こった。

 昔のように再び〝声〟が聞こえるようになったのである。


(嘘……でしょう?)


 耳をふさいだところで無意味なのはわかっているので、意識を逸らすためにいろいろ試みてはみたのだが、声たちはところ構わず、エルシーに話しかけてくる。しかし、常にそういう状況にあるのではなく、全く聞こえない時も多く、試しにこちらから意識を集中させても何の反応もなかったりと、声たちの様子は一定していない。そしてしばらくすると、また向こうから勝手に話しかけられているといった具合である。


 そんな状態が続けば、エルシーもいい加減うんざりしてしまい、認めたくはないが〝見えない彼らの声〟を受け入れざるを得なかった。


(前みたいに放っておけば、また聞こえなくなるに違いないわ)


 しかしその二日後。街で行われる植物の品評会に出席する予定のグローリアが、王室専用の馬車に乗り込もうとしていた時だった。


『乗ッテハダメ!』

 

 その声は、突然エルシーの頭に響いた。


 数年前、父が出立した日に聞いた、同じ言葉。


 (反応してはダメよ……)


 そう自分に言い聞かせるものの、声は次第に大きくなる。


 あの日の記憶が鮮明によみがえる。父はあのまま出発した。そして、二度と帰らなかった。


 悲しくて、悔しくて、止められなかったことを後悔した。父にどんなに怒られたとしても止めるべきだった。


 そう、〝声たち〟は正しかった──!


(もう、あんな思いをするのは嫌よ……!)


 エルシーは咄嗟に馬車の前に飛び出すと、グローリア王女の行手を遮るように、その場に跪いた。


「グローリア様、どうかお戻りくださいませ……!」


「ちょ、ちょっと、何してるの⁉」


 周囲の侍女たちが慌ててエルシーを立たせようと腕を掴んだ。しかし、エルシーはさらに平伏し、留まろうとする。異様な光景に、周りには護衛騎士だけでなく衛兵も集まってきた。尋常ではないエルシーの様子と他の侍女たちの攻防に、グローリアは言葉を失ったが、すぐに表情を引き締め、落ち着いた声で命じた。


「まだ時間はあるから、何が問題なのか直ちに調べなさい」



 

「原因がわかったぞ。馬車の車輪の一部に不具合が見つかった。あのまま出発していたら、どこかで事故に遭っていたのは間違いない」


 一時間ほどして、第一騎士団の執務室に駆け込んできたのは、アーネストと同年の副団長、グレッグ・カートラルだ。赤い癖毛が後方で跳ねていて、アーネストとは正反対に親しみやすい印象を受ける。


 王女の護衛騎士から騒ぎの報告を受けたアーネストは、その発端がエルシーだと聞いて耳を疑った。だが、報告は事実で、エルシーは王女の控えの間に待機しているとのことだった。


 問題は、外観からは見えないそれがなぜ、ただの侍女にわかったのかという点だ。これからその嫌疑は彼女に向かうことだろう。


「危機を知らせたその侍女だが、陛下御自ら聴取したいと仰せられて、連れていかれたらしい」


 続けて発せられたグレッグの言葉に、アーネストは勢いよく椅子から立ち上がった。そのまま無言でドアへ向かう。


「アーネスト、どこに行く?」


「陛下のところだ。第一騎士団の任務は王族諸侯の護衛だけではない。我々でまず王宮内での変事に関わる人物から聴取して、陛下にご報告申し上げるのが筋だ」


「だが、今回は王妹のグローリア殿下の馬車だ。もうすぐ輿入れの時期だし、陛下も気が立ってらっしゃるんだろう。直々にお出ましとあらば、俺たちは待つしかない」


 グレッグの意見も最もなのはわかっている。だが、アーネストは、ある可能性を考慮して、エルシーのもとに駆けつけたかった。なので、今なお自分を止めようとするグレッグを手っ取り早く封じる言葉を放った。


「彼女は俺の婚約者だ」


 案の定、空中を沈黙が漂う。ポカンと口を開けたままのグレッグを置いて、足早にアーネストは執務室を出ていく。


 かなり廊下を進んだところで、ドアの内側から「ええーっ!?」というグレッグの叫びを背中で受けたのだった。






とある一室へと連行されたエルシーは床に膝をつき、縮こまりながら視線を下ろしていた。しかし、膝に触れるのは冷たい石ではなく、臙脂色の最高級のじゅうたん。さらに言えば、視界に入ってくるのは薄暗い光ではなく、部屋全体を満たす温かな陽射しだ。


 数分前、てっきり地下か塔の取調室に連れて行かれると思っていた。しかし、百八十度真反対の部屋に連れられ、エルシーが戸惑い立ち尽くしていると、すぐに続きの部屋のドアが開いた。現れたのは国王ジェラルドだった。


「陛下……!」


 エルシーは驚いて、かろうじてその一言だけ喉の奥から絞り出すと、反射的に床に平伏した。


「ああ、そんなに硬くならなくていい。ここは私の私的な謁見室のひとつだ。妹を助けてくれて礼を言う。少しお茶でも飲んでいかないか」


 ただの侍女が国王との同席を許されるなど、あり得なさすぎる。優雅にソファに腰掛けたジェラルドからの発言を受けたエルシーの混乱は、最高潮に達した。


「め、滅相もございません……!」


 エルシーはわけがわからず、緊張と混迷の渦中で青ざめながら、その場で身を硬くしているほかなかった。ジェラルドの言葉どおり、ソファ前のテーブルにはちゃんとふたり分のお茶が用意されていたが、彼女がそれに気づく余裕はない。


 無言の空気が、さらにエルシーの緊張を加速させていく。ジェラルドが二杯目のお茶を飲み終えようとした時、不意にドアの外が騒がしくなった。


「お、お待ちください、今、お取次ぎを……!」


 困惑した王専属の侍従の声が聞こえてくる。エルシーがドアに目を向けたのと、それが勢いよく開かれたのは同時だった。


「アーネスト様……!」


 現れた人物に、エルシーは目を見開く。アーネストはジェラルドに一礼すると、床に座り込んで身を小さくしているエルシーのもとへ駆け寄った。そして片膝をつき、エルシーの状態を素早く目で確認する。


「大丈夫か? 縛られてはいないようだが」


「当たり前だ。君は私を一体どんな男だと思っている?」


 アーネストの問いに即答したのは、エルシーではなくジェラルドだった。まるで、アーネストの来訪を予感していたように、突然の入室に憤る様子はなく、むしろ笑みを浮かべている。社交界ではあまたの令嬢および貴婦人を魅了してきたジェラルドの微笑みだが、当然ながら男であるアーネストの心に響くはずはなかった。


「陛下、これはいかなる処遇でしょうか?」


 スッと立ち上がり、ジェラルドを見据えて尋ねる。口調は丁寧だが、明らかに無礼を越えた態度に、エルシーも傍にいた従者たちもヒヤリとしたが、ジェラルドは気にする様子もなく穏やかな表情を保ったままだ。


「処遇とは、失敬だな」


 ジェラルドは侍従を全て下がらせると、おもむろに腰を浮かせ、アーネストとエルシーのもとまで歩み寄ってきた。


「ただ、妹を救った侍女をもてなしたかっただけだよ。ほら、彼女のティーカップもちゃんと置いてあるだろう?」


「あなた様からお誘いを受けて、呑気にのこのこと同席できる侍女など、いるはすがないでしょう。ましてや職務中です」


「まあまあ、そんなに怒らないでくれ。私はこの国の王だが、騎士のはしくれでもある。か弱い女性は尊び、守る対象だという精神は忘れていない。ましてや、君の大事な婚約者に何かしようなどと思うはずがない」


「いいえ、私は怒っているのではなく陛下のお戯れに呆れているのです」


 旧知の仲であるふたりにとって、この手のやり取りは日常茶飯事だ。しかし、それを知らないエルシーは、自分を守ろうとしてアーネストが国王陛下に楯突いているのでは、と先ほどから冷や汗が止まらない。


「さて、騎士団長も来たことだし、話を前に進めよう。エルシー・ウェントワース、なぜ、馬車が危険だとわかったんだい?」


 ジェラルドは今度はエルシーへと視線を向けた。畏怖を抱かせないよう、優しい口調ではあるが、エルシーの緊張状態はまだ続いている。


「それは……」


 エルシーは返答に詰まった。正直に答えようものなら、きっと気味悪がられるに決まっている。この力はアーネストも知らない事実だ。知られれば婚約者破棄されても仕方ないが、それは自分のせいでルークの未来が閉ざされることを意味する。


(……でも、ずっと黙っているのも卑怯だわ……。ちゃんと近いうちに、アーネスト様に話さなきゃ……)


「勘、でございます……」


 罪悪感にかられながらも、今のエルシーにはそう答えるのがやっとだった。


「……勘、か」


 しかし、ジェラルドは彼女から視線を外さない。


「先日、君の母君の宝石が使用人に盗まれるという事件が起きたね?」


「は、はい……」


 唐突な質問にエルシーは一瞬戸惑う。国王がなぜ侍女の身に起きた事件を気にかけるのか。


「取り調べた際の、その使用人の供述を君は知っているか?」


「陛下」


 エルシーが返答する前に割って入ったのは、アーネストだ。


「恐れながら、それは彼女には身に覚えのないことでございます」


「なぜそう言い切れる? 自分の婚約者を守りたい気持ちはわかるが、公私はわけるべきだ、騎士団長」


 何やら険悪な雰囲気がふたりの間に漂い始めた、その時。


 バンッ!


 突然、謁見室の扉が開かれ、ピンクのドレスをまとった金髪の少女が、必死の形相で乱入してきた。


「エルシー!」


 近くにいたアーネストに軽く身体をぶつけながらも、しゃがみ込んでエルシーに抱きつく。


「グローリア様⁉」


「ああ、エルシー、ごめんなさい、わたくしが非力なせいであなたをこんな目に遭わせてしまって。いきなりお兄様に連れて行かれて、とても怖い思いをしたでしょう? ああ、こんなに震えて。……お兄様、エルシーはわたくしの恩人なのですよ? なのにこんな扱いはひどいわ!」


「言っておくが、グローリア、私は彼女には何もしていないよ。尋問もしていない」


「いいえ、だったらこんなに顔色が悪いはずないわ。ああ、エルシー、ごめんなさい」


 グローリアはしくしくと泣き出してしまった。こうなるとお手上げだと言わんばかりに、ジェラルドは肩をすくめる。


 エルシーは焦ったが、たかだか侍女である自分を心配して涙を流すグローリアの優しさに、胸の内が温かくなるのを感じた。この可愛くて愛しい主を安心させようと、控えめにその背中に手を回す。


「グローリア様、陛下のおっしゃったことは本当でございます。私は大丈夫ですので、どうかご安心なさってください」


 とんとん、と赤子をあやすように背中をさすれば、グローリアは徐々に落ち着きを取り戻していった。


「……可愛い妹に免じて、今回私は介入しないことにしよう。さっきの話の続きは君がちゃんと彼女に話してやれ、アーネスト。婚約者として、君も少なからず気になっているはずだ」


「……御意」


「さて、グローリア、ノックもなしに突入してきたことといい、そのあとの取り乱しようといい、まもなく輿入れして王太子妃となる者としてあるまじき行為だったね。まだまだ言い聞かせることは多そうだ」


「ま、待って、お兄様、どうかお母様のお耳には入れないで……! というか、誰が誰の婚約者ですって⁉ え、まさか、ふたりがそうなの⁉」


「ほら、突然大声を出すのもダメだ」


 強制的にソファに座らされるグローリアを見て、これは長くなりそうだな、とアーネストは少し同情を覚えたが、黙って一礼するとエルシーの腕を引いて退室した。




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