一章 その②
その夜、食事をすませ、後片付けを終えたエルシーは、母の寝室を訪れた。薬が程よく効いているのだろう、穏やかな寝息にホッと胸を撫で下ろし、掛け布団を整えてエルシーは静かに部屋をあとにした。
静寂と暗闇に包まれた廊下、ほんのわずかにぼんやりとした薄い光が漏れている。それがルークの部屋からだとわかると、エルシーは少し開いたドアの隙間からそっと中を覗いてみた。
蝋燭の光を頼りに、机に向かい熱心に本を読んでいるルークの横顔が視界に入る。いつになく嬉しそうに本に見入る弟の様子に、エルシーはなんとなく罪悪感を抱いたまま黙って自室に戻った。
燭台を机に置くと、薄暗がりの中に部屋内部が浮かび上がる。もともとは女の子らしい白とピンクを基調とした部屋だったが、今は壁も色褪せてしまっている。
エルシーはベッドに腰を落とすと、上体を前方に傾けて、組んだ両手に額を押しつけた。
母の容態が落ち着いて、本当によかった。母が穏やかに眠れているのは、紛れもなくアーネストのお陰だ。もし彼がいなかったら、エルシーは途方に暮れたまま、未だに雨の街を彷徨っていたに違いない。
それに、あんなに嬉しそうなルークの顔は、初めて見たような気がする。これまで帰宅するたびに目にしてきた笑顔とは明らかな違いをエルシーは感じ取っていた。あの瞳は、この先に希望を見出だし、自らの足で歩き出そうとする者の輝きに溢れている。
ルークに明るい光をもたらしたのも彼だ。自分ではあの笑顔を引き出せなかっただろう。それなのに――。
『貴方は何もわかっていらっしゃいませんわ』
不躾な発言で、一方的に彼を追い返してしまった。盗まれた宝石について、事情を知らない者からすれば、いつまでも手元に置いておく理由がわからなくて当然だ。今になって、彼の言い分は正論のひとつだと理解できる。
(……ただの八つ当たりだわ、私の態度は)
この家を守って家族を支えてきたのは自分だという自尊心が、無意識のうちに芽生え、大きくなっていたことに気づく。宝石の件で言及される以前に、家の現状を突きつけられ将来展開の甘さを指摘された時点で、その自尊心という名の驕りが過剰に反応し、苛立ってしまったのだ。
いつのまに、こんなに嫌な女になってしまったのだろう。いざ困難にぶつかると、何もできない、非力な存在でしかないのに。
思い上がりもいいところだ。
(……何もわかっていなかったのは、私の方よ)
アーネストに謝りたいと、素直に思う。だが、彼はきっと怒っていて面会すら許されないだろう。
急遽、取った休暇なので、明日には王宮に戻らなくてはならない。アーネストは第一騎士団長として職務にあたっているため、一介の侍女であるエルシーの前に姿を現さないとわかっていても、全く出くわさないとは言いきれない。
その時、彼から向けられるであろう氷よりも冷たい視線を想像し、エルシーは重苦しく息を吐いた。
翌朝、王宮に到着次第、普段通り王女つきの侍女に戻ったエルシーだが、その表情はいつもより固い。
よほど母親の容態が芳しくなかったのだと、侍女仲間たちは心配したが、全員が声をかけるのを躊躇していた。それほど、エルシーの全身には重い空気が漂っていた。
無論、彼女の憂鬱の原因は、母とは別のところにあるのだが、当然それを周囲は知るよしもない。
昨日、最後に何か言いたげだったアーネストの顔を頭から切り離せないまま黙々と仕事を続けていると、いつの間にか昼休憩の番が自分に回ってきた。
常に誰かが王女のそばに控えていなければならないので、侍女たちの昼休憩は時刻で定められてはおらず、手の空いた者から順番に取る仕組みになっている。
「エルシー・ウェントワース殿!」
陰鬱な心持ちで使用人食堂へ向かっている時だった。背後から聞こえてくる足音とともに声をかけられ、エルシーは振り向いた直後、身体が硬直してしまった。
第一騎士団の黒い団服が視界に飛び込んでくる。一瞬アーネストかと思い、ヒヤリとしたのだが、改めて見ると全くの別の青年だった。
「呼び止めてしまい申し訳ありません。先ほどグローリア王女殿下のもとを訪ねましたが、休憩に向かわれたとのことでしたので。こちらを預かって参りました」
若い騎士は一通の手紙を差し出す。エルシーが礼を述べて受け取ると、騎士は一礼してすぐに踵を返した。
(誰からかしら?)
何気なく封筒を裏返す。封蝋に押された印が第一騎士団の紋章、交差した二本の剣であることを認識した途端、エルシーの心臓はドキリと跳ねた。
この印を押せる権限を持つのは、第一騎士団長のみ。――つまり。
(アーネスト様からの手紙……!)
廊下に突っ立ったまま、震える手で急ぎ開封する。
『エルシー・ウェントワース嬢
お母上の宝石を盗んだ犯人は、今朝方、王都から少し離れた町にいたところを騎士団の捜索により捕らえられ、投獄されたこと、宝石は無事にお母上のもとに戻りましたことを、ご報告申し上げます』
差出人の名前はなかったが、そこに並ぶ流麗な字を見つめて、エルシーの胸は熱くなった。
(アーネスト様……ありがとうございます……!)
母の手に、再び父の形見が戻ってきた。早めに包囲網が敷かれたのも、アーネストの要請があったからかもしれない。
今頃きっと母も弟も安堵の涙を流している。エルシーも同じように瞳を潤ませながら、そっと手紙を胸に抱きしめた。
アーネストに礼を伝えたいが、勤務中に持ち場を抜けることはできない。一日の仕事が終わったら、屋敷を訪ねてみようか。でも遅い時間に迷惑ではないだろうか……。
などど、考えていたので、昼食も半分ほどしか入らず、エルシーは早々にグローリア王女の部屋に戻った。
残っていた侍女と交代し、王女が午後のお茶の時間に着るドレスを選ぶ。
(だけど、アーネスト様に失礼な態度を取ったのは事実だし、さっきは義務で知らせてくれただけで、きっと怒っていらっしゃるわ)
やはり直接顔は合わせづらい。ここはひとまず手紙をしたためるべきか。
そうしよう、と頷きかけて、逃げ腰になっている自分にハッとする。
(……意気地なしね、エルシー)
そんな臆病さに自己嫌悪し、首をもたげながら不意に重いため息が漏れた時。
「ちょっと、エルシー。そんなに何度もため息をつかれては、気になってこっちの気分も暗くなるわ」
可愛らしくも凛とした声が、部屋に響いた。
ギクリとしてエルシーが顔を上げると、視線の先に、グローリア王女が腰に手を当てて、少し難しい表情で衣装部屋の扉付近に立っている。
「も、申し訳ありません……!」
エルシーは慌てて頭を垂れた。仕事中に私情が表に出てしまうなんて、王女つき侍女として失格だ。
するとグローリアはそっと扉を閉めて、近づいてきた。部屋にはふたりきり。
グローリアは表情を和らげると、エルシーの前に立つ。
「ふふ、今のどう? ちょっと未来の王妃っぽかった?」
「えっ……え?」
「それより。あなたのお母様の具合、そんなによろしくないの……?」
「いいえ、母は大丈夫です。ご心配をおかけして申し訳ありません」
「それは良かったわ。では、エルシーの悩みの種は別のところにあるのね? わたくしでよければ、話を聞くわよ?」
「いえ、そんな、グローリア様のお耳に入れるようなことでは……」
「わたくしでは頼りないのはわかってるけど、これまでエルシーには世話になってばかりだったもの。嫁ぐ前に何かお返しをしたいのよ。話すだけでも気分が楽になるかもしれないでしょ。……だってエルシーは、わたくしの大事なお友達で、お姉様だもの」
「いいえ、そんなお言葉、勿体なく……」
エルシーは恐縮してますます頭を下げたが、下からグローリアが顔を覗きこんできた。
「エルシーが顔を上げてくれないなら、わたくしもずっとこのままよ。首が痛くなっちゃう」
少し口を尖らせた王女の愛らしさに、エルシーの頬がついに緩んだ。
「わかりました。ですからグローリア様もどうかお顔をお戻しくださいますよう。……そうですね、ではお話だけさせていただきます。……実は第一騎士団に在籍中のとあるお方に、とても世話になったのですが、諸事情からなかなかお礼に伺えないのです」
エルシーはアーネストの名を出さず、かなりざっくりと説明を終えた。これでグローリアが引いてくれると思っていた。
しかし。
「まあ、そうなの。大事なことは早めに伝えないと。一緒にいらっしゃい」
グローリアはエルシーの手を掴むと扉を開け、引っ張っていく。
「え、あの、どちらへ……?」
戸惑いを隠せないまま、あっという間に廊下に連れ出されたエルシーの手をグローリアは離そうとしない。
「どこって、騎士団の営舎に決まってるでしょう」
「えっ!?」
「騎士団長にその者を呼び出してもらえばいいわ。仕事とは関係のない用事だから、厳しい団長に追い返されてしまうんじゃないか、なんて心配は無用よ。大丈夫、きっと協力してくれるわ、だってわたくしのお願いですもの。問題はいつまでも引きずらずに早めに解決することが大事なのよ、ってお母様もよくおっしゃっているし。これは命令よ、エルシー」
エルシーから悩みを打ち明けられたことが、思いのほか嬉しかったようで、グローリアはひとり張り切っている。
「で、ですが、グローリア様……っ」
(とあるお方、というのが、実はその厳しい騎士団長様なんですよぉぉ……!)
エルシーの心の叫びは、グローリアに届くはずもなかった。
騎士団棟の廊下には、いましがた鍛練を終え、訓練場から出てきた少年騎士たちでごった返してした。
緊張した時間から解放され、くつろいだ雰囲気の中、束の間の雑談に興じる若い騎士たちだったが、廊下の先から王女専属の護衛騎士が現れたことで、再び背筋を伸ばし、廊下の端に寄った。
その前を、先輩である護衛騎士、通常近くでは滅多にお目に掛かれない麗しの王女グローリア、そしてその王女になぜか手を繋がれ背中を丸めた侍女が通り過ぎていく。
一行はやがて、棟の奥、飾り気のない重厚なドアの前に到着した。護衛騎士が先にノックする。
「失礼します。団長、王女殿下がお見えです」
「……今行く」
一瞬間があったものの、アーネストの声が中から聞こえ、エルシーは緊張で思わず身体を硬くした。
ドアが開かれ、グローリアが騎士団長室へと足を進める。
入口に立ち、胸に手を当てたまま一礼し、完璧な所作で王族への敬意を払ったアーネストだったが、続いて入ってきた侍女の姿を見て少し眉を動かした。しかし身を縮めて下を向くエルシーからグローリアへとすぐに視線を戻す。
「殿下。ご用とあらば、いかなる時も馳せ参じましたものを」
「いいのよ、私用だから。ちょっとあなたに人探しを手伝ってほしいの。彼女の口から話した方が早いわね」
グローリアがエルシーの背中を押した。
「いえ、そんな……」
「ほら、エルシー。話してみて。大丈夫、彼は力になってくれるわ」
「ですが……」
なかなか視線を上げられず口ごもるエルシーを見て、グローリアは何かに気づいたように息を呑んだ。
「ああ、ごめんなさい。誰かがいると話しにくいわよね。わたくしは外に出ているから、気兼ねなく話してね」
「えっ、あの、グローリア様……! 私も戻ります!」
「せっかくここまで来たのに、何言ってるの? あなたに暗い顔をされてると、気になって仕方がないのよ。これはわたくしのためでもあるの。それからアーネスト、くだらない用事でなぜ来たのか、とか言って彼女を責めないでね」
グローリアはそう告げるとドアを開け、困り顔のエルシーを置いて部屋を出ていってしまった。
(どうしよう……)
その場で固まっていると、アーネストが小さく息を吐きだしたのがわかった。エルシーは居たたまれなくなって、すぐに頭を垂れる。
「突然お邪魔しまして、申し訳ありません……」
「君が公私混同するような人物ではないことはわかる。王女殿下の一存だろう」
相変わらずな淡々とした口調だ。
「……それで? 君がここに来た理由は?」
「それは……お礼と謝罪を言いたくて」
エルシーはおずおずと口を開く。
「母の宝物を取り戻してくださって、ありがとうございました。母も弟も安心していると思います。それに、昨日、弟から家庭教師の話を聞きました。そこまで考えてくださっていた方に、ひどいことを言ってしまい、大変申し訳ありませんでした」
両手を握りしめながら、さらに深々と頭を下げる。アーネストは無言だった。だからこそ余計に彼の顔がまともに見られない。きっと呆れているか怒っているかのどちらかだろう。もしかしたら両方かもしれない。
「……いや、俺の方こそ、謝らなければならない」
しかし、降ってきたのは思いもよらない言葉だった。エルシーはハッと顔を上げると、アーネストのほうもやや上体と頭を前に傾け、謝罪の意思を示している。
「君の気持ちも考えずに言い過ぎた。君がこれまでどんな思いで家族と家を支えていたかを最初に理解しなければいけなかったのに、現状だけで判断して、君を傷つけた。申し訳ない」
「いえ……あ、アーネスト様⁉ そんなっ、もう顔を上げてください!」
なおいっそう頭を下げようとするアーネストに、エルシーは狼狽える。止めようとして姿勢を低くすれば、無意識のうちに彼の顔を覗き込む形になってしまった。至近距離で黒い瞳に見つめられ、エルシーは心臓が跳ね上がるのと同時に、慌てて後ずさった。
「し、失礼いたしましたっ……!」
「いや、君に近づかれるのは嫌じゃない」
「え……?」
小さな問いかけには応じず、アーネストは言葉を続ける。
「俺は、君に敬意を払うべきだったと反省している。君は長子としての責任を果たそうとその身に全部背負い込んだ。心が折れそうなこともあったと思うが、誰かに依存することなく、自分の足でしっかり立って、大切なものを守り続けている」
エルシーは驚きで目を見開いた。まさか、アーネストの口からそんな言葉が聞けるとは思っていなかった。
あわせて、胸をぎゅっと鷲掴みにされるような息苦しさに見舞われた。こんな風に誰かに認めてもらえるような言葉をかけられたのは初めてだった。父の死から六年、没落の流れに身を任せてなるものかと自分に言い聞かせ、踏ん張り続けてきただけだ。決して誰かに褒めてほしかったわけではない。しかし、アーネストからの思いがけない労いの言葉に、エルシーは肩の力が抜け、心がゆっくりと溶け出すのを感じていた。
困ったことに、それは目元が熱くなるという生理現象をもたらした。下を向くと、涙が溢れてしまう。エルシーは、きゅっと唇を引き結び、目線を上に何度も瞬きをしてそれをやり過ごすと、深く息を吸った。
「アーネスト様からのお心遣い、大変感謝しております。弟も、夢への道が切り開かれたと、とても喜んでいました。弟はあなた様に全幅の信頼を寄せているようです。弟の明るい顔を見て、いくら頑張ってみても私の力では限界があったのだと、自覚しました。……そして昨日、私があなた様に失礼な態度を取ってしまったことは、まぎれもない事実です。品性の欠けた行いだったと、自分を恥じております。ですが、万が一お許しいただけるのでしたら、この先どうか弟を導いてやってはいただけないでしょうか……?」
アーネストが家庭教師の件を提案したのは、婚姻によりルークが義弟になるという前提に基づくものだと、エルシーは理解している。つまり、エルシーの懇願は、妻としてアーネストに身も心も捧げるという意思表明だ。
「何を言っているのか、君はわかっているのか?」
「もちろんです。恥を忍んで申し上げているのも重々承知です」
「そうじゃない。……君はこんな俺でもいいのかと、聞いているんだ」
「え……? それは私の台詞ですが……」
妙な空気に、ふたりの会話が止まる。アーネストはバツが悪そうに、目を丸くして見つめてくるエルシーから視線を逸らした。
「君は自分を恥じていると言ったが……ならば俺もそうだ。時々結論を急ぎ過ぎて、つい自分の持論を展開しがちになる。決して相手を否定したり傷つけたりしようとしているわけではないんだが」
冷たい男だと思っていたのに、今は素直に自分の短所を述べている。
エルシーは驚きとともに、彼の新しい一面を垣間見たような気がして、なぜだか少し嬉しくなった。
「ルークの件は俺が言い出したことだから、ちゃんと責任は持つ。必ず君の力になると約束する」
アーネストはエルシーの手をそっとすくい上げると、誓いの証として彼女の手の甲にそっと口づけた。
あくまで儀礼的な所作だったが、そこに微かな男の色香を感じ取ったエルシーは、突如発生した体内の熱によって立ち眩みを起こしそうになる。
「よ、よろしくお願いします……」
何とかそう答えると、アーネストはようやく少し口元を綻ばせた。